「最後の爆弾」
陸軍省提供
陸軍航空隊戦闘カメラ班・陸軍航空隊映画班特別職員
カラー
1945年のはじめ、わがB29は大規模な対日作戦を開始しました。
サイパン・テニアン・グアムの基地から攻撃目標までは、遠くはるか1500マイル、
帰りもまた、1500マイルもある距離でした。
第21爆撃機兵団司令部はこの地に強力な空軍力を結集して、
日本に壊滅的な敗北を与える究極的な計画をたてました。
爆弾の最後の一発の使用に至るまでを考え抜いた綿密な作戦計画でした。
いまや、「ロード・トゥ・トーキョー」(日本攻略・東京への道)の終わりが見えて来ました。
再びグアムを奪い返して6ヶ月が過ぎました。夏の静かな川岸に戦争の痕跡はほとんど残っていません。
解放されたチャモロー族の人たちは、再びアメリカ市民となって、真新しくなった村へと戻ってきました。
ニコニコとして、友好的な人たち。 村に奇跡が起ったことに気づいていません。
まさに奇跡です。山のような資材や装備、軍隊用生活用品が太平洋を越えて運び込まれたのです。
田舎道が広 い高速道路に変わり、ジャングルは広大なアスファルト舗装の飛行場になりました。
近くでは、新たにアメリカ兵たちのテント村が生まれて、さまざまな種類のセルフサービスを利用した生活が始まっていました。
最新の省力装置が揃っています。洗濯なんぞは楽々。簡単で手軽に、何の不便もありませんよ。
真夏までには、司令部は活動を開始していました。
まさに、大仕事です。 ルメイ将軍の指揮のもと、爆撃機兵団司令部は航続距離をぐんと延ばしました。
グアム・テニアン・サイパンの島々から、圧倒的な兵力をもって、敵にパンチをくらわせ始めたのです。
600機から成る作戦任務の爆弾搭載量は、ここ2ヶ月の間に100%増加し、倍になりました。
この戦力拡大を支えたのは計画の確かさでした。
ルメイ将軍は地上から計画を始めました。
機体整備が真っ先に着手されました。
流れ作業技術の導入で、エンジン取替時間が3日から半日弱にまで短縮されました。
いま、集中空爆が幾週間も続いています。
地上整備員たちは1機でも多く、B29を稼働させようと、昼となく、夜となく、工場で、あるいは太陽の照りつける屋外で働きました。
7月までには、ルメイ将軍の率いる爆撃機兵団司令部は、効率的に良く働く、
徹底的に訓練された
「破壊マシーン」へと変身を遂げたのでした。
ご覧になっているのは、この破壊マシーンに是非とも必要な歯車の一つ、
それが「11人の男たちと1機の爆撃機」です。
それでは、出撃準備をしている間に、男たちの行き先、任務、その理由と手段などを見ていきましょう。
この歴史上、最も遠くて困難な爆撃作戦任務を一体どのようにして行なおうとしているのでしょうか。
(スクリーンいっぱいに「第21爆撃機兵団司令部」の標札。)
彼らの爆撃作戦任務は、約12時間前にグアムの作戦本部で始まりました。
ルメイ将軍や参謀たちが明日の日本の天気についての報告を受けています。
まさに型どおりの天気予報です。
“名古屋では、上空約10,000フィートで、雲量8/10。
東の東京地域では、22,000フィートで雲量6/10、
14,000フィートでは雲量3/10、午前11時以降は厚い雲で覆われる模様です。
大阪や、その他の西日本では、飛行機が飛べないほどの悪天候になるという予報です。”
さて、我らが将軍は、この問題をどのように解決していくのでしょうか。
B29群の行く手は雲また雲がさえぎっています。東京付近で雲間が切れてくれることを願うのみです。
全ての重要な要素を考慮に入れて、将軍は決断を下します。
「4つの航空団が10時に東京を空襲する。
全航空団はこの天候下で攻撃態勢に入り、高度12,000フィートで爆撃を行う。
さて、問題は攻撃目標の選定だ。 目標番号573を東京地方での最優先攻撃目標としたい。」
情報部が、将軍に、目標573は、すでに全体の75%が破壊されているということを伝えます。
これを受けて、現在に至るも無傷の目標番号574の方がより適切な選択ではないかということになっていきます。
作戦本部が、目標574に対する、作戦任務計画をチェックします。
ルメイ将軍は、必要な変更を指示し、この574攻撃目標を承認します。
そして、参謀に全ての任務遂行上の細部決定を委任します。
作戦本部では副参謀長と計画責任者を入れて活動を開始します。計画の変更が行われます。
(スクリーンには「計画細目 /1.飛行 /2.爆撃/ 3.飛行エンジニアリング/4. /5.海空共同救助」の文字)
その計画フォルダには、情報部ならびに作戦本部の特別班が集めた膨大な準備資料が詰まっています。
何時間にも及ぶ調査、照合ファックス・数字が結実して初めて作戦任務計画574号は誕生したのです。
1.航空機は指示通りに、護衛任務のP51の3航空群と合流をする。
集合地点から円滑な出発ができるように、先導機は、1分間隔で、スモークマーカーを投下する。
2.各航空団のうち、1航空大隊は、M47 集束焼夷弾を搭載する。
他の航空大隊は、500ポンドと1000ポンドの通常爆弾を搭載し、
その弾頭信管と弾尾信管は1/4秒遅延に設定する。
攻撃高度は12,000フィート。
3.第314航空団の航空機は、おのおの最大積載量の約7,300ガロンの燃料を搭載する。
全航空機は爆撃行程では較正対気速度,時速210マイルにて飛行する。
4.北緯34度50分、東経140度のレーダー陸地初認地点は全機に適用する。
ここは海陸の輪郭がはっきりとしていて、チェクポイントとして適切である。
5.空海共同救助の目的を達成するために海軍には以下の便宜を図って頂きたい。
水上艇3隻は、それぞれX地点に向かう。 潜水艦4隻は、Y地点で救難の任務を負う。
救難飛行艇のダンボ2機は、Z停泊地を旋回飛行する。
B29、4機は、チャートに図示している地点をスーパーダンボとして旋回飛行する。
今度の作戦にあたって各部門は、二重の点検を受けました。
この作戦のいくつかの点を監修するために、先導機の元パイロットである、キャビン中佐が最近、企画将校として参謀に加わりました。
この中佐の豊富な戦闘経験は、作戦上の欠陥を正すのに、とても役立っています。
彼は、集合地点における、新型のスモークマーカーを観察するために、この作戦任務に同行するはずです。
さあ、いよいよ航空団に野戦命令が伝達されました。
全機の離陸時間が管制官に電送されます。
管制官は司令部の心臓や中枢神経に例えられるここ、管制室に集中する広大多岐にわたる情報を調整していきます。
ここ、管制室では、作戦任務ボード上のステータスパネルが保守管理されていて、日々の全作戦の膨大な最新情報が一目で把握できます。
離陸に先立って、各作戦任務がボード上にセットされます。
飛行編隊が離陸して、攻撃目標へ向かい,やがて帰路につくまでの過程を視認するためです。
飛行進路を示すために、各航空団につき一本の、色違いの毛糸が張られます。
飛行進路は中間地点の硫黄島のすぐ近くを通って,野戦命令書の指示通りに、定められた攻撃目標に向かいます。
また、空海共同救助地点を示すために別の記号が使われます。
ステータスパネル上に離陸時間ならびに、続く1時間毎の報告が記録されます。
これをもとに各航空団の統計時刻表が計画され、飛行が行われます。
ベテランの搭乗員にとっては、それは本当に、いつも通りの仕事です。
いまいましい太平洋を1500マイル飛んで、1500マイル戻ってくるという回数が,一つ増えるだけの話です。
飛行15時間。燃料7000ガロン。エンジン4基。搭乗員は11人です。
桑原、くわばら!
眼下に広がる大海原。
地球の緯度20度分を一気にウオーター・ジャンプして、目指すは東京!
それはまるで、メキシコを離陸して、カナダの攻撃目標に向かうようなものです。
第314航空団が飛び立っていきます。 145機が1分間隔で離陸しています。各機の重量は67トンです。
この、爆弾を満載したB29の離陸はまさに冷や汗ものです。
特に、最初の滑走から離陸、水平飛行にうつるまでの長い瞬間は最悪です。
その恐怖を打ち消すためには、お守りが手離せない。
「ボクはワイフのストッキングを持つぞ」などと言う人もいます。
100マイル北のテニアンでは、もう2つの航空団が、離陸の準備をしています。
第58航空団の134機と第313航空団の100機です。
サイパンでは、数分後、ベテランの第73航空団が滑走路に並び、離陸準備をしています。
これら153機の爆撃機がさらに攻撃作戦任務に加えられたのです。
最後のB29が離陸をしたのは15時40分です。 サイパンの管制塔は、この情報をグアムの管制官に伝えます。
ここで、各航空団の最初と最後の離陸時間が記録され、一覧表にした作戦任務報告書の作成が着手されます。
これらの報告書のコピーは、ワシントンの司令部に送ります。また、管制室のレポートボード上にも掲示します。
最初の1時間、B29は貴重な燃料を節約するために、海面からから1000フィートを低空飛行するという離れ業をやっていきます。
どの機にも能力と経験と自信たっぷりの搭乗員が乗っているのです。
これは、一丸となって行動できるようにと、訓練と試練に耐えてきた11名の搭乗員のための作戦計画です。
航法士は島嶼部チェックポイントを記録し、航路を決定します。
北マリアナ諸島のパガン島、アスンシオン島、マウグ島、パハロス島上空を北上して行きます。
4時間ばかりの飛行ののち、爆撃機は硫黄島の近くを通過します。
ホットロックと呼ばれる,黒く美しいポークチョップ型の擂鉢山は本州までの中間点にあります。
この8平方マイルの地は我が海兵隊員の犠牲によって獲得されたものです。
わが軍はこの土地を大急ぎで作り変えました。
硫黄の火山性地殻を切り開き、硫黄島の地表をならして、広大なアスファルトで固めました。
いま、3本の大滑走路から、爆撃機を護衛するP51が発進して行きます。
采配を振るっているのは、ムーア将軍の第7飛行団参謀です。
爆撃機兵団司令部と緊密に協力してすべての海空共同救難作戦も指揮します。
これは、護衛戦闘機が本日の海空共同救助地点をを把握しているかどうかを確かめるために行われている最終指示チェックの様子です。
勢ぞろいをしているのはムーア将軍指指揮下のP51です。
戦闘機としては記録上最長距離となる飛行に向けて、ウォーミングアップをしています。
エンジン1基で7時間も飛行するのです。そのため、胴体下部には予備タンクがつけられました。
操縦室に座るのは,人並みはずれた神経とスタミナの持ち主です。
爆撃航空団が硫黄島を通過するころ、P戦闘機は離陸を始めます。
3時間半後に、日本の沿岸沖合で航空団と合流する予定です。
P51は北硫黄島で(他の戦闘機と)合流したあと、誘導機任務のB29に続いて、集合地点へと向かいます。
はるか西方では、我が爆撃航空団が、「帝国」まで、あと一息の航程を頑張っています。
さて、航空団の飛行位置はここグアムの管制官へ報告されて来ます。
飛行位置が作戦任務ボード上にきっかりと記されて行きます。
B29は依然、低空飛行を続けながら,悪天候地帯に近づいて行きます。
爆撃航路上に、突如として、予報されていなかった嵐や寒冷前線が現れます。
「こちらパイロット。各員へ。 本機は上昇を開始する。 酸素マスクを確認しろ。 やつに、出番だぞと言ってやれ。」
ゆっくりと高度をあげていきます。搭乗員たちは、待ち受けている大仕事に向けた準備に取りかかります。
そうです。今から、攻撃目標から離れて、基地へと機首を返すまでの間は一瞬も手が抜けません。
中央火器管制装置がウォーミングアップされます。この装置は、スイッチひとつで、人力ではかなわぬ超頭脳の働きをしてくれます。
各射撃手は照準を動かしてみたり、銃身をクリアするため数回、短時間の発砲をして、火気管制装置を調整しています。
爆撃機は目標高度に到達後、集合地点のすぐ近くにまでやって来ます。
機内は加圧をして、標高8,000フィートと同じ気圧になっていますが,
酸素マスクは、すぐ使用できるように調整しています。
南東の方角から、護衛戦闘機が、B29誘導機とともに現れました。
誘導機は戦闘機が再結集地点に戻ってくるのを待つために、ここで針路を変えます。
ムスタング戦闘機は、編隊上昇をして、密集隊形で編隊を組むB29の上を飛んでいます。
先導機は、旋回をはじめました。 集合地点の目印にするために、スモークマーカーを新しく投下しています。
企画将校は、作戦計画のこの(スモークマーカー投下)部分が現に実行されているのを観察しています。
航空群がそれぞれの位置から分かれて、各先導機に接近をし、9機から11機の編隊を組み、攻撃始点へと向かいます。
さあ、盛大なパレードの始まりです。
陸地初認地点をとらえました。間髪を入れず、対空砲火が敵の沿岸砲台から火を噴きます。
富士山。おなじみの白い目印です。ここで攻撃始点へと針路を変えます。
対空砲火が激しさを増し、より正確になってきました。
そして今、「ジャップ」の「うろつき野郎」が初めて姿を現しました。編隊に突っ込んで来ます。
何機かは自殺戦闘機で、わが方の爆撃機に体当たりを仕掛けました。
他の「ジャップ」戦闘機は、接近するB29の正面で爆発するように、リン光爆弾を投下しました。
わがP51は、日本機を追跡します。そして、手強い相手ともみ合っているのだと実感するのです。
P51の任務は、B29を護衛することです。
しかし、「ジャップ」機の中には護衛機をすり抜けて、爆撃機に突進して来て、
激しい銃火を浴びてしまうものもありました。
後部射撃手は、「ニップ野郎」の戦闘機に「もっと近づいてくれ!」と必死に念じています。
攻撃始点で針路変換をした後、爆撃機の編隊は密集隊形で着々と航行を続けて行きます。さあ、
いよいよ仕事の準備です。
対空砲火も戦闘機も見えなくなりました。 しかし、例の雲が空を覆い始めました。
天気はますます悪くなりそうです。ところが、ちょうど八王子の東で、東京地方の視界が開けて来ました。
爆撃手は、攻撃目標574に狙いを定めます。 航空機が、爆撃航程に入ります。
「さあ、借りは返すぞ!」
12,000フィート下。「ジャップ」の飛行機工場2棟と、飛行場が、いま、4000トンの爆弾を見舞われようとしています。
B29の最初の編隊はすでに攻撃目標を発見しています。
後続の爆撃航空群が、猛もうと煙を上げている攻撃目標に、なおも爆弾を投下していきます。
かくして、作戦計画574は、すっかり達成されました。
爆撃機は針路を変え、風下に飛行して、何エーカーにもおよぶ東京の焼け野原を横切ります。
クローズアップは去る3月のあの大焼夷弾攻撃の傷跡です。
51平方マイルにおよぶルメイ将軍の“おもてなし”でした。
爆撃機は追い風にのって、東京湾を横切り、房総半島を南下して行きます。
これからは、戦闘機の出番だ。無線連絡を受けるや否や、ムスタング戦闘機は隊列から離れて行きます。
大型爆撃機は帰途につきました。一方、我がP51は、急降下して機銃掃射航程に入ります。
ここから、海岸まで重要目標物に集中攻撃を加えて行きます。
2機の戦闘機がペアを組んで、最高速度で低空飛行をしながら攻撃を開始しました。
「ジャップ」の重要な生命線を断ち、通信施設、無線軍事施設、送電線などを破壊していきます。
急襲するのは、敵の交通機関、鉄道線路、鉄道操車場、郊外の小規模工場、
飛行場、
続いて、海上の目標物です。
貨物船から、漁船、トロール船、湾岸部や沿岸部の船舶におよぶまで、
駆逐艦だろうが機帆船だろうが、みな同じ敵ではないか!
機銃掃射の後、我が戦闘機はB29誘導機が待つ再結集地点へと上昇して行きます。
水平線上に硫黄島が見えて来る。
燃料計器は、残量がゼロ寸前でることを示していますが、搭乗員の心は、高まるばかりです。
彼らは気合いを入れて思いっきり、猛スピードで擂鉢山をかすめて、急上昇。勝利の宙返りです。
「ジャップ」機1機の撃墜につき、一回宙返りをします。
最後の戦闘機航空群が到着してほっとする間もなく、よろよろと疲労しきったB29機が姿を現します。
その場の人々は皆、手に汗を握って見守ります。滑走路に美しい情景が展開されます。
エンジン故障、燃料漏れ、敵の対空砲火や戦闘機にやられたりしたB29が緊急着陸をしているのです。
ここ3ヶ月で、およそ2000機の運行不能やガス欠になったB29が、ここ、硫黄島に避難をしました。
硫黄島攻略に命を賭した、かの海兵隊員たちに、この4発飛行機搭乗員たちが、心から感謝をし、
中には自分の飛行機に海兵隊員の名前を付けた人もあるといいます。
みなさんにも理由がお分かりいただけることでしょう。
なかには、幸運に恵まれて、給油をすませた1時間後には、自分の基地に向かって飛び立てるような飛行機もあります。
しかし、硫黄島にはまだ特有の危険要素があります。天気次第でこの施設は,絶望的な白昼の悪夢にと姿を変えるのです。
このようなのっぴきならぬ時に、濃霧や突然の全天を覆う雲のために滑走路が見えなくなります。
こうなると、「パラシュート脱出をしろ!」という命令が下されます。
あるいは、下降して、運よく、模範的な着水をするB29もあります。
この映像から、上空が雲に覆われると滑走路が使用不可能となる実態と、
パイロットの苦労がみなさんにもご理解頂けたことでしょう。
時には、戦闘で傷ついた爆撃機が硫黄島までやっと、ふらふらとたどり着き、
あと少しのところで痛ましい着陸激突事故を起こすこともあります。
これは、搭乗員全員が奇跡的にも、ガソリン2000ガロンの炎に包まれる直前に、
それぞれの持ち場から無事に脱出した時の様子です。
消防隊員は機体を救おうと懸命です。これも、職務を超えた本当の勇気があればこそ出来ることです。
はるか南方では、ほとんどの航空団がそれぞれの基地に近づいています。
疲れきった乗組員たちは、最後の長い時間に耐えています。時間はまるで、止まったようです。
彼らの現在位置が打電され、管制官は刻々と戻って来つつある航空機の情報を手にします。
ようやく、水平線上に懐かしいマリアナ諸島が見えてきました。
爆撃機はグアム上空を横切り、そして滑走路へと旋回してきます。
そうです。15時間前に、彼らはこの滑走路の反対側から飛び立って行ったのでした。
「無事戻ってこれてきてうれしい。この硬いアスファルトの上を、再び走ることができると思うと実に愉快だ。」
突然のジトーッとした機外の蒸し暑さ、これを実感できるうれしさ。
生還して、地上スタッフとあれこれと話は尽きない。
何もかもが楽しい。 対空砲火、敵の戦闘機、危機一髪、撃退させた敵機のことなど話は続く。
しかし、B29搭乗員の中には、この日、話の輪に加わることが出来ない者もいます。
着陸に失敗をした爆撃機の乗員11名です。
救助隊員が赤熱した機体を切断して行きます。 やっと、燃えさかる残骸の中から、一人だけ救助されました。
生きて、救助隊員の熱心で勇敢な手を感じることが出来ました。
救助1名、死亡10名。本日の犠牲者の一部です。
我が空軍は絶え間なく拡大を続けています。
これまでも、夜となく、昼となく若いアメリカ人空軍戦士の命が数多く犠牲となって来ました。
7月末までには、我がB29爆撃機は敵の戦闘能力をほぼ壊滅していました。
1000機から成る作戦任務は、ドイツに1ヶ月間に投下した爆弾の2倍の量を投下するというものでした。
問題は、この打ちのめされた日本が、さらに後どれほどの期間耐えるだろうかということでした。
8月には、陸・海・空軍の大部隊が最後の本土侵攻をめざして集結をしていました。
この時、我々はドイツではやったこともない実験を行いました。
我がB29機が2つの原子爆弾を投下したのです。
原子爆弾は日本の降伏を早め、何千何万人というアメリカ人の命を救いました。
このようにして、4年ばかり前に始められた我が航空軍の作戦任務は完了したのでした。
―――完――
《注》
"THE LAST BOMB"のなかで、
日本(軍・人))を表す軽蔑語の "Nip"、”Jap" が数回出て来ます。
Nipは、第2次世界大戦中、軍隊で使われていたもの。
Japは、ほとんど死語となっていますが、当時の状況や雰囲気を表現するため、
正確を期するために「 」でカナ表記をしています。
翻訳: 神垣惟秀(かみがき のぶひで)
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