。呉の戦災遺跡
2.見学コース1 全体像を掴み取る

《見学の視点説明》

1.呉市全体の地勢的概況を観る。

 A. 海側から
  1.「呉税関突堤」・・・呉湾内(自衛隊施設・工場群)、山、一望
  海上保安庁突堤より灰が峰を見る    海上保安庁突堤より総監部を見る
  休山の下、総監部・IHIを見る    IHI・Fバース・日新製鋼所を見る
  日新製鋼所横の自衛艦を見る

  2. 呉中央桟橋および江田島(小用)行フェリーの船上

 B. 山上から
  1. 灰ヶ峰の頂上・展望台(旧砲台跡)・・旧呉市街の全貌  (ビデオ) 北西から東、呉港市街・休山・広湾の眺望
灰が峰頂上の気象レーダー 戦時中は、防空監視所や高射砲台があった。
  呉市街・休山の下    呉港遠望


  2. 休山の頂上・展望台(旧砲台跡)・・軍港・工場・音戸地区

  3. 大空山の頂上・展望台(旧砲台跡)・・広地区

2.海上自衛隊を精神的に支えている旧海軍の伝統と遺物を観る。

 A.「第6号潜水艦殉難記念碑」(鯛の宮)
  日本海軍のバック・ポーンを養成した佐久間艇長の記念碑。

 B.「入船山記念館」(旧呉鎮守府長官官舎)
  東郷元帥や旧海軍の栄光を称える場、呉の歴史資料。

 C.「呉海軍墓地」(長迫公園)
  戦前の軍艦ごとの慰霊碑が林立し、慰霊祭には海上自衛隊の
  儀杖兵が参加し、旧海軍の精神を継承している。

 D.軍事教育資料館
  1. 潜水艦学校資料室(潜水艦関係の新旧資料)

  2. 教育隊資料館(旧海軍および掃海隊関係の各種資料)

  3. 海上自衛隊術科学校・教育参考館(江田島)(旧海軍・遺品資料)

 E. 呉鎮守府(現・呉総監部)
    総監部見学
  英国式の赤レンガの建造物、呉軍港を一望、巨大地下司令壕(閉鎖)

 F. 海事博物館(大和ミュージアム)を建設(2005年4月開館)
  旧海軍の栄光を誇示し、ゼロ戦、人間魚雷回天、戦艦大和模型を展示

3.現在の海上自衛隊・米軍基地の現状を観る。

 A.「歴史のみえる丘公園」(子規句碑前)
  戦艦大和記念碑、呉海軍工廠記念碑ほか、
  呉港や旧海軍工廠造船部(現・IHI)、海上自衛隊総監部・自衛艦を眺望

 B. アレイからすこじま公園
  潜水艦基地、F(第6)バースの自衛艦隊、米軍基地司令部

 C. 米軍基地(広黄播弾薬庫・旧広海軍工廠・第11航空廠地下工場)

4.遺跡・記念(慰霊)碑を訪ねる。
 慰霊碑
 A. 旧海軍・工廠関係・・・第6潜水艇殉難記念碑」(鯛の宮)

  忠勇碑(二河球場)、呉海軍墓地(長迫公園)

  殉職者招魂碑(二河公園)、職工殉難碑(安養寺)

  工僚神社(広・両谷、船津神社)呉総監部内慰霊碑、

  特殊潜航艇慰霊碑(波多見神社)

 民間人・市民関係・・・地蔵尊・供養塔(八幡公園)

  呉市戦災遭難犠牲者供養塔・地蔵菩薩(寺迫公園)、

  殉国の塔(鍋峠)・・女子挺身隊慰霊碑

  戦死者の碑(広・黄幡)
  鍋山団地の第2次世界大戦慰霊、

 記念碑
  「入船山記念館」、「歴史のみえる丘公園」(宮原五丁目)

  養成工記念碑(坪の内)、戦争記念碑(三津峰山公園)

  人間魚雷記念碑(波多見海浜公園)


5.《解説》

*第六号潜水艇記念碑(鯛ノ宮)
 1910(明治43)年4月15日午前11時、山口県新湊沖において、
 「どん亀」とよばれた第6号潜水艇が遭難した。
 日本ではじめて建造された57tの『どん亀」は、
 艇の劣勢を訓練で打ち勝とうという当時の海軍魂から、
 訓練に訓練を重ねていた潜行訓練中に遭難し、艇長佐久間大尉以下
 乗組員24名は最後まで持ち場を離れず、従容として死し、任務を果たした。
 このことは、国民を感動させ、1912(大正1)年11月、
 殉職記念碑が建てられた。
 海軍大臣斉藤実、呉鎮守府長官加藤友三郎の筆になる碑文の
 銅板がはめこまれている。
 佐久間艇長たちの、国に殉じる沈着剛勇の精神は、日本海軍の鏡として、
 また、国民精神の鏡として、小学校の教科書にも取り上げられ、
 天皇制軍国主義のイデオロギーとして宣揚された。
 毎年4月15日、慰霊祭が行われ、海上自衛隊の儀丈兵も参列する。

*呉海軍墓地
     海軍墓地
 現在は呉市の公園の一つである。
 戦前からの呉海軍墓地は、呉鎮守府が設置された後の1890(明治23)年以後、
 呉港関係者の墓碑が建立されてきた。軍艦『吉野」「厳島」など日清戦争後しだいに
 増えはじめ、以後、日魯戦争、第一次大戦、と増大の一途をたどった。
 第二次大戦後は全く建立されなかった碑も、54年、海上自衛隊が呉に設置され、
 再ぴ「軍都・呉」が復活する頃から旧海軍関係者や遺族の手によりぽつぼつ碑が立て
 られはじめ、年を追って豪華巨大化し「戦艦大和」の碑などが建立されていった。
 83年には、33回忌?にむけ祭儀場をたて、海上自衛隊の儀杖兵も参加して盛大な
 慰霊祭が行われ、軍国主義復活の一環となっている。

 《歴史》
  1890(明治23)年8500坪(2800平方。)を海軍が買収して、
   戦没などの海軍軍人・軍属の墓地をつくる。 以後毎年一回慰霊祭をする。
  1945(昭和20)年戦災、敗戦、水害などで荒廃し、慰霊祭ができなくなる。
  その後、個人、団体、付近の住民により、細々と清掃・供養が続けられる。
  1970(昭和46)年呉市に無償貸付する。「海軍墓地保存協力会」ができる。
  以後毎年、追悼式典が行われ、海上自衛隊の儀丈兵も参列し、大規模化していく。
  1985(昭和60)年第15回合同追悼式に、高松富夫妻が参列する。
  1986(昭和61)年呉市に無償譲与、長追公園として、呉市が維持管理する。
   1988(昭和63)年「海軍墓地保存協力会」が「海軍墓地保存会」と改称する。
 墳墓と慰霊碑が並んでいる。墳墓は1890(明治23)年から1945(昭和20)年
 までの軍人軍属の墓が156基、英国水兵の墓が1基、1893(明治26)年の
 軍艦千島下士卒某之墓、1905(明治38)年の軍艦高砂戦死下士卒之墓などである。
 慰霊碑は、上海・満州事変戦没者之碑と大東亜戦争海軍戦没者柔道部員之碑などを除くと、
 艦船や部隊の慰霊碑が多い。1970〜80年代にかけて、多く建造されている。

*歴史の見える丘(呉市宮原5丁目)
  呉港を眼下に見下ろし、海上自衛隊呉総監部(旧・呉鎮守府)、IHI呉造船ドック
 (旧・呉海軍工廠造船部)、呉港湾施設(旧・呉海軍各種施設)、呉市街が一望できる。
 旧三門の上にあり、「子規句碑」で有名であった。この公園は「戦艦大和碑」
 「海軍工廠記念塔」が造られ、「古き、よき時代」を回顧し、呉市の「栄光」を賛美する
 ために設置された。最近、厭戦歌人の渡辺直己の歌碑も設置された。
 歩道橋の上から呉(軍)港がよく見え、旧海軍鎮守府、現総監部をはじめとする
 海上自衛隊の全景が展望できる。眼下には、IHIの造船施設(旧海軍造船部)の
 ドック群が広がっている。ここで戦艦大和をはじめとする艦船が建造され、戦後は
 NBC造船、尼塒造船、播磨造船、石川島播磨重工業(IHI)となり、巨大タンカー
 の建造や自衛艦の修理を行っている。

   @子規句碑
 1895(明治28)年、正岡子規が呉に来て詠んだ3句の内、1句である。
 1958(昭和33)年宮原6丁目に建てられたのを、1978(昭和53)午移転した。
   A澤原為綱翁之像
 1890(明治23)年、最初の貴族院多額納税者議員選挙において当選した人である。
 1933(昭和8)年建立。1983(昭和58)年移転した。
   B戦艦大和記念塔
 1937(昭和12)年起工。 1941(昭和16)隼竣工。
 当時世界最大の巨艦大和の記念塔であり、大和と長門の主砲がおかれている。
 1969(昭和44)年につくられた。
   C歴史の見える丘案内図 海軍工廠の俯瞰図。
   D工廠礎石による記念塔
 1982(昭和57)年建立される。海軍工廠各工場の礎石を集めたものである。
   E造船船渠記念碑
1993(平成5)年建立される。戦艦大和などの建造に使われたドックの一部である。
   F渡辺直己歌碑
  19901(平成2)年建立される。渡辺直己は、真一中出身のアララギ派の歌人。
  日中戦争で戦死した。中野重冶「斉藤茂吉」で採り上げられ、有名になった。

*入船山記念館
《歴史》
 703亀山神杜の鎮座地とされる。
 1886(明治19)年海軍鎮守府の設置にともない神社移転
 1889(明治22)年水交杜建設
 その後、1945(昭和20)年まで、鎮守府司令長官の官舎として使用され、
 戦後は、1956(昭和31)年まで、占領軍が使用する。
 1967(昭和42)年から、記念館として一般公開される。
《内容》
@塔時計
 1921(大正10)年、海軍工廠造機部工場の屋上に設置されたものを
 1981(昭和56)年、ここに移した。
A郷土歴史絵画館(旧火薬庫)  高烏台砲台跡から移した。
                建物前に「要塞地帯標識」がある。
B至誠の碑 海軍第2門衛兵所に、1944(昭和19)年建てられたものを、
 1967(昭和42)年ここに移した。.
C郷土館  海軍関係の資料中心に展示している。
D海軍鎮守府司令長官官舎
E戦艦陸奥のプロペラ  大島沖で謎の沈没をした戦艦陸奥のプロペラ。
  海軍工廠で、1933(昭和8)年、4基つくられた内の1基である。
F歴史民俗資料館    呉の歴史を展示している。
G水交神社杜殿  1943(昭和18)年海軍によってつくられた。1968(昭和43)年復元した。
H応召記念碑
 1944(昭和19)年8月1日呉海軍病院第9期2等衛生兵45人の名前がある。
I休憩所
  1890(明治23)年から翌年にかけて、大佐だった東郷平八郎が往んでいた
   家の離れである。1980(昭和55)年に、ここに移した。

*「串山公園」と「潜水艦基地」
 「串山公園」はもと「工廠神社」のあったところで眼下は海軍工廠時代の古い赤レンガの
 工場が見え、潜水艦基地に降りる途中には、戦前のトーチカ(防空監視所)も残っている。
 南上へ上る辺りに、養成工の研修所が在った所で、記念碑があり、付近に、
 横穴式防空壕や防空監視所などが見られる。

 潜水艦基地は「アレイからすこじま海浜公園」の前にあり、その右手前方は日米共用の
第6(F)バースがあり、護衛艦そのた多くの艦艇が停泊している。
 その背後に基地指令部や潜水艦学校があり、桟橋横には、米軍の弾薬廠指令部もある。
 呉は潜水艦のメッカとして、日米安保条約に基づく米軍の補完部隊である海上自衛隊
 呉基地の最大の任務は、米軍の海洋前方展開戦略のなかで、3海峡封鎖のうちの対馬海 峡を
 封鎖して、ソ連の艦隊を日本海に封じ込めることであった。
 湾岸戦争では、戦後最初の海外派兵を行い、世界最高水準の掃海隊をペルシャ湾に
 出撃させ、掃海作戦を展開した。
 アフガン戦争、イラク戦争でも補給艦や護衛艦隊が派遣され、米海軍などに燃料補給
 などを行っている。呉は、日本の海外への出撃基地である。

*殉国の塔(呉市鍋峠)
     殉国の塔
 1944(昭和19)年、労働力不足を補うため、女子挺身隊が結成され、
敗戦当時18149人の女子挺身隊員がいたといわれる。呉海軍工廠で働いていた
呉県女、島根松江高女、比婆西城高女などの女学生を含む476人が、1945(昭和20)年
6月22日の呉海軍工廠の空襲で死亡した。
 1965(昭和40)年、地元警固屋仏教婦人会によって建立された。

 (朝目新聞への投書記事)
 今もあった「ひめゆり」の塔
 その音、海軍工廠があったあたりを見下ろす場所、鍋峠の南西の、赤さびた工場跡の
裏の、人がほとんど訪れることのない小高い丘の上に、防空頭巾の格好をした碑が建てられている。
 碑文は、元呉市長の奥原義人氏の手で「殉国の塔」と刻まれている。
 1945年6月22目、米軍戦略爆撃機B29のぺ160機が来襲、約3時間にわたり、
呉海軍工廠の砲こう部、製鋼部など造兵部門に20分間隔で、集中的に爆撃を加えた。
そのため工場内の地下防空壕や横穴防空壕が直撃され、工員、動員学徒の中学生、
女子挺身隊員の女学生らが「戦死」し、遺体の発掘に10日間かかったという。
 その中で、横穴防空壕に潜んでいた51人が、爆風で飛ばされた2人を除いて、
生き埋めにされるという惨劇も起こった。また、すぐとなりの壕も直撃されたが、
折から満ちてきた満潮の海水のため救出できず、亡くなったという。
 その多くは、「お国のために、勝利の日まで」と、女子挺身隊員として動員された
呉県女、比婆西城高女、島根松江高女などの、15歳から17歳の少女たちだったという。
「殉国の塔」は、その476人の、「殉国」した人たちの霊を弔うために、彼女たちの最後の
地となった海軍工廠を見下ろす丘の辺に、地元の仏教婦人会の方々が浄財を募って建立したものである。
 勉強もクラブ活動も恋もしたかっただろうに、あまりにもはかない青春であった。
「殉国の塔」は、まさに呉の「ひめゆり」の塔である。
 ただ達うのは、へんぴな場所にあることもあって、地元の人ですら知らない人が多いし、
したがって訪れる人も皆無に近い。「海軍墓地」の巨大な軍艦の碑とはまさに対照的だ。
呉にある戦跡を訪れた人たちの心に突き刺さるのは、この「殉国の塔」だ。

6.1日コース・モデル日程
   9:00 呉駅前 出発
   9:10 「呉税関突堤」・・呉や見学の全体像を確認
   9:40 「第6号潜水艦殉難記念碑」(鯛の宮)・・海軍魂を顕示
  10:20 「忠霊碑」(呉二河球場)・・戦前の戦意高揚の碑
  10:40 「呉海軍墓地」(長迫公園)・・旧海軍艦艇の記念碑群
  11:20 「歴史のみえる丘公園」・・呉港眺望・自衛隊施設・造船所
  11:50 「アレイからすこじま公園」・・海上自衛隊施設・各種自衛艦
  12:30 国民宿舎音戸ロッジ・・昼食《名物タコ飯など》
  13:30 高烏公園(旧砲台・平清盛像)、音戸公園(さつきが名物)
  14:20 人間魚雷記念碑(波多見海浜公園)
  14:40 特殊潜航艇慰霊碑(波多見神社)
  15:20 殉国の塔(鍋峠)・・女子挺身隊慰霊碑
  16:00 「入船山記念館」(旧呉鎮守府長官官舎)・・呉史料
  17:00 呉駅 解散
《註・日曜日は呉総監部10:30,14:00・Fバース10:00,13:00,14:00,15:00など、定時に入場できる。》


呉基地艦艇編成表
       (呉基地を見学するときに艦名の確認に利用してください。)

                                  2005.4.1
護衛艦隊
第4護衛隊群 旗艦  ひえい DDH142 5050t

第4護衛隊  いなづ まDD105  さみだれ DD106  あけぼの DD108  各4550t

第8護衛隊  うみぎり DD158  さざまに DD113  各3500t

訓練支援艦  くろべ ATS4202 2200t  てんりゅう ATS4203 2400t

補給艦  とわだ ADE422 8100t

潜水艦隊
第1潜水隊群  ちはや ASR403 5400t

第1潜水隊 みちしお SS591 まきし おSS593 いそしお SS594 各2750t

第3潜水隊 はやしお SS585 あらしお SS586 ふゆしお SS588 各2450t

第5潜水隊 はるしお SS583 なつしお SS584 各2450t  くろしお SS596 2750t

第1練習潜水隊 あさしお TSS3601 2500t  はましお SS578 2250t

掃海隊群
第1掃海隊母艦 旗艦 ぶんご MST464  5660t 
        いずしま MSC687  あいしま NSC688  みやじま MSC690 51Ot

第101掃海隊  ははじま NCL724  かみし まMCL725  各440t

第1輸送隊  おおすみ LST4001  しもきた LST4002  くにさき LST4003  各8900t

第1エアクッション艇隊  エアクッション艇1〜6号 LCAC01〜06号

練習艦隊  母艦かしま TV3508  4050t
第1練習隊 しまゆき TV3513 3050t やまぎり TV3515 あさぎり TV3516 3500t

海洋業務群
音響測定艦  ひびき AOS5201  はりま AOS5202  各2850t

敷設艦  むろと ARC482  4500t

呉地方隊
第22護衛隊  やまゆき DD129  まつゆき DD130  せとゆき DD131  各3050t

輸送艦  ゆら LSU4171  590t


  (参考資料 海上自衛隊新聞社「艦艇と航空機集」から)
艦船の分類と艦名のつけ方
艦船の分類と艦名のつけ方


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