。旧呉海軍工廠 亀ヶ首試射場

「戦災遺跡」としての「亀が首試射場」   亀が首試射場位置図
  事故報告1  事故報告2 (アジア歴史資料センター蔵)

 1、「亀が首試射場」での人身事故災害

A.試射実験中の人身事故
 1908(明41)年、「亀ケ首の惨事」大砲発射試験を行うとき、弾薬装填を了え発射せんとする刹那、
尾栓外ると共に猛火は後方に凄しく噴出し作業中の3名微塵に、続いて職工数名同様の災厄に遭う。
 1915(大正4)年、「亀ケ首奇禍」試験中、尾栓破裂して20間四方に飛散、1名死亡、2名重傷。
 1917(大正6)年、3吋砲実弾発射をなし、実弾は尾栓を蹴って後方に飛来、
鉄板の楯を貫くと同時に数名の頭上で爆発し、3吋砲は殆んど砲身を止めぬまでに作裂、
1名即死1名治療後死亡、2名重傷。
 1917(大正6)年、亀ヶ首で試射した砲弾を山中より掘り出し運び戻り、150トン 起重機で吊り上げ中4吋7の信管が誤って滑り落ち爆裂、重傷4名うち1名死亡。
 1923(大正12)年、40センチ砲弾を発射中尾栓後退し一部を粉砕後方試験小屋破壊。

《事故体験談の一例:室氏》

@ 私の居た頃は、信管やジュラルミン製の砲身の実験が行なわれて居た。
A 口径の大きい弾丸は前方の山の谷に、信管の実験では右の岬側の低い尾根を狙って撃たれた。
弾丸が反れれば、山の上の方にとび上がった。
 そのうちまた砲の試射がある。短二〇サソチという大砲だが、記録を失ったので何の目的の兵器だったか思い出せないが、例の亀が首の射場での発射に立ち会った。
大きな土手の下段の洞窟のような所に砲を据えて、向いの山の裾に設けた標的に弾丸を撃ち込むのだが、
それをわれわれは砲身の真上に設けた観測値の中で、横に長いごく狭い銃眼のような孔から見ているのだ。
 砲熕実験部からぎきた工手で、ひどく張り切った、一見砲術下士官出身らしい男がいた。彼はこの試射に大乗気であって、発射のときには、ちょうど砲身の中心線に当たるところに、少し脚を開いて腰に手を当てて、気合いを入れた姿で立っていた。
 この日の射撃は作裂弾であった。発射薬は減装で、二〇サンチ径の大きな薬莢の中に何本かの棒状火薬が入っているだけのを、担当の係員が検査官のところへ持って来て見せていた。
 ところが砲弾の方は実物なのだ。距離が近いから発射とほとんど同時に弾着である。
発射の轟音、煙、ほとんど続いて命中・作裂、煙がたち込めたと思った途端に人が倒れる気配がする。
見ると先刻の工手が倒れている。眉間から血が噴き出て顔面を染めている。一瞬どうしたのか分からない。
「底螺だ!」と誰かが叫ぶ。かの工手はまるで飛んで行く弾を睨んで気合いでもかけるように、弾道の真後ろから見ていたのだ。
 作裂弾の弾底の中央に底螺といって、信管を取り付けてねじ込む栓がある。
作裂の爆圧は四方に正確に均等に発散するので、砕けた弾体は四方に飛散するが、
その中で真後ろを向いている底螺自身はひとつの弾片となって、正確に真後ろの方向に飛び、砲身線上にあった銃眼から飛び込んで彼の眉間に命中したのであった。
 試射場で弾片で死ぬなどという事故は滅多にあることではない。
それが私のすぐ横ニメートルとは離れないところで起こったのである。
 工員たちが毛布をもって来て、倒れた工手の体を包み、数人で抱えて狭い壕の階段を下って行った。)

B.民間人の人身事故
 1904(明治37)年、大迫浦の漁夫2名が亀ケ首で砲弾を拾い爆発2名とも死亡。
 1917(大正6)年、村民が地金窃取の目的で山中より掘り出すは極めて危険と注意。
 1945〈昭和20)年、敗戦後の混乱で資材の略奪中の事故。

c.民間人の資材窃盗など
 1917(大正6)年、430貫の鉄類を窃取し各地に売却した竹原町の船乗り7名を検挙.
 1918(大正7)年、亀ケ首大砲発射場附近に出没する海賊を検挙、30ー40名呉署へ.
 1929(昭和4)年、音戸町漁夫3名共謀、電線33,700貫(時価2,500円)を窃取。
 1945〈昭和20)年、試射を行った砲弾や機械、施設の莫大な金属類が略奪された。
  第1期=試射場の山に散乱、埋没している″色もの〃(銅、真鋳)に集中した。
  第2期=次は鋳鉄、鉄を掘り出した。試射による大量の砲弾が地中に埋まっていた。
  第3期=構造物を破壊し、クレーンのレールや標柱(鉄製)をはがして持出した。
 銅や鉄の売買、食糧品や衣料品の売買などで商人や暴力団が入り、大迫集落は毎日  縁日のような人だかりだった。
 大迫が亀ヶ首試射場から受けた唯一の恩恵であったのかも知れない。と古老は云う。

2、漁民の経済被害
 1924(大正13)年、愛媛県水産組合理事「何等の予告もなく射撃を始められたが、
今が最も鯛の漁獲最盛期で一年中を通じての書き入れ時なれば漁民の死活に関する
ことであるから即時中止を願い度し」と陳情
 1933〈昭和8)年、海軍の諸実験が激しくなり亀ケ首、大人とも1ケ月20日は
区域内に入漁できず、ことに亀ケ首は毎日のような大砲発射に漁民の困惑甚だしく、
広漁業組合長「3年前から陳情、今日まで我慢してきたがもう放っておけない。
多数の関係漁業組合は年間の3分の2以上使用を禁止され被害甚大」
(関係14組合2万7干人)
広長浜、柿の浦、早瀬などの沿岸一帯も被害程度聴取、県漁業組合長も呉鎮訪問。

《古老の証言》
「亀ヶ首はいい漁場だったが漁業を行うにも厳しい監視付きだった。
鰯網を引きにゆくと、浜に船を着けた途端に守衛が来て見張る。
砂浜に上がることも許されなかった。そして終わるまで双眼鏡で見張られた。
砲を発射するとき、大きな砲の場合は村落に通知があった。
「峰の近くの畑には作業に出ないように、家は障子がはずれるかも知れぬので注意するように」という内容だった。その瞬間は、本当に地震でも起ったように家が震えた。
そのため、長い年月の間に家は狂いを生じ、屋根瓦はずれ、雨漏りなどもするようになった。終戦後まともな家屋は一軒もなかった。」

3、毒ガス兵器の実験

 海軍では毒ガスを「特薬」と称し、その性質ごとに番号を付し、
催涙性ガスを「1号特薬」、くしゃみ性・嘔吐性ガスを「2号特薬」、
びらん性ガスを「3号特薬」、血液性ガスを「4号特薬」と呼称した。
 亀ヶ首射撃場においても、毒ガス弾の実験が行われていた。
なお、陸海軍とも国内各地の「本土決戦」用部隊に対し、教育・訓練を目的として
若干量の毒ガス弾等が交付されていた可能性が指摘されている。

 1926(昭和2)年3月、爆発事故報告書に毒ガス弾の円筒内実験の記述がある。
   毒ガス弾実験の記事1「亀ケ首傷害事故の件」(アジア歴史資料センター蔵)
   毒ガス弾実験の記事2「亀ケ首傷害事故の件」(アジア歴史資料センター蔵)


 (1997年8月14日中国新聞 記事)
 1937(昭和12)年から太平洋戦争開戦に先立ち、年一、二回 毒ガス弾試射
  (廃艦に動物を乗せ)イペリット砲弾の発射実験を行った。
 毒ガス弾 倉橋で試射
  元海軍技師、高橋市太郎さんの証言
      高橋証言

4、戦後、米軍による調査・研究と装置・備品の持ち去り、施設の破壊が行われた
 1945年9月4日 米海軍訪日技術使節団による調査と実験
  A. 日本軍18インチ砲並びに砲架(戦艦大和などの主砲の構造と性能調査)
     日本軍18インチ砲並びに砲架(米海軍訪日技術使節団報告) 翻訳:神垣惟秀

  《上記の解説書物》「歴史群像20」(大型戦艦2)1998.11. 学習研究社刊
  「亀が首射場と戦艦「信濃」用主砲」は上記報告書を基にイラストを始め、
    多くの資料を図面化して、判りやすく解説している。

  B. 爆弾射撃実験(残存大砲を利用した爆弾性能調査)
     亀ヶ首海軍試射場における爆弾射撃(米海軍訪日技術使節団報告)  翻訳:神垣惟秀
 1945年12月に当試射場を訪問し、主要関係者に尋問をした。
  大型航空機爆弾の防禦甲板貫通能力、信管機能並びに衝撃感度について正確な
  情報を得る必要から空爆の諸条件を再現し、同時に発砲の精度を利用するという
  技術が開発された。
 アメリカ合衆国へ輸送された日本軍の装置(全点94型、46センチ(18")砲架用)


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