2.教育実践報告

「呉地区高校生平和の集い」のあゆみーその3− 第18回〜第32回
 牧岡宏明(当時・広高校教諭、「集い」指導顧問)

第18回   83、6・4      呉宮原高校     350名
・若者らしい心にあふれた呉港高校の向井君の基調停案
・呉空襲について呉工業高校の朝倉先生の講演
・呉空襲を体験された多賀さんの講演
・埼玉ゼミナールの呼びかけで「折り鶴」「50字平和メッセージ」に取り組むことが
決議され。全国集会(長崎)へ参加する代表に託された。

第19回   84、2・18〜19    呉勤労会館     延べ350名
・映画「ひめゆりの塔」の観賞
・「突っ張りから立ち直り、平和の集いで生きがいを見つけた」
呉港高校の向井君の涙ながらの提案は参加者の胸を打つ。
・2日目は沖縄、自衛隊等多彩な分科会討議、全国各地の高校生平和ゼミナール
からの連帯のメッセージが寄せられた

・夜には父母、市民、青年を交えての映画会も開かれた。

第20回    84、6・23    広青年教育センター  250名
・映画「トマホーク」の観賞
・20回を記念して、平和の集いの第1〜7回の指導者 広商の萱原先生の講演
・19次の委員長の向井君の新曲「平和の歌」の発表
・「戦跡を語れ、平和な呉の未来を」のフィールドワークのパンフレットを配布
その内容は
戦跡よ、語れ、呉の平和な未来を―呉空襲フィールドワークの手引きー
「呉地区高校生平和の集い」のための資料として太田英雄先生作成(1984)

呉空襲の概況. フィールドワーク出発の前に
呉空襲は、日本全国各都市の空襲と同じように、米国の対日戦略目標に従って行われ ました。
1945年3月19日に呉湾の軍艦への攻撃に始まり、5月5日には広の航空機工場、
6月22日には兵器・造船工場と着実に行われ、7月1日最も大規模な市街地への
攻撃を経て、7月24日と28日に残存軍艦への攻撃と延べ14回も行われました。

他の都市との共通点としては、総力戦として動員学徒(旧制中学)女子挺身隊(女学生)
が犠牲になったことや、国民の戦意を消失させるための、無差別夜間焼夷弾攻撃が行われたことです。

 他の都市の空襲にはない独自な特徴としては、「呉沖海戦」と呼ばれるように、
呉湾周辺はまさに戦場そのものになったことです。
併せて軍艦を隠そうとして、民家を盾にするかのように、民家の近くの海岸に停泊させたことから、
警固屋・江田島・音戸など多くの民家・民間人を巻き添えにするという、
沖縄戦に類似した特徴があります。
 呉はすり鉢状の地形で、まず周辺部に次いで中央部に焼夷弾を落とし熱風、炎、煙が 吹き上がって、
多くの市民が防空壕や暗渠の中で煙に巻かれ、炎に焼かれて犠牲になりました。

 ? 海軍工廠―横穴防空壕 (警固屋2丁目 旧日新製鋼体育館前)
このあたり一帯の山麓には、戦争末期には無数の横穴防空壕が、海軍工廠の待避壕と して、主に朝鮮人労働者を使って掘られました。
戦後に危険なために、内部は埋められて入り口だけが残っています。
米軍の呉海軍工廠への空爆の時には、臨時徴用工、学徒動員の中学生、女子挺身隊と
呼ばれた女学生たちで壕が溢れました。

精密兵器工場の壕では、直撃弾を受けて島根松江高女・比婆西城高女の字学生たち
51人が生き埋めに、49人がなくなり、遺体の発掘に10日もかかったという事です。
また、鍋桟橋近くに停泊していた巡洋艦「青葉」(警固屋5丁目に記念碑)への
空爆では多くの民家・市民が巻き添えになりました。

当時小学4年生であった宮下さんは、防空壕に逃げたがお母さんが来ないので空襲の後家に帰ると、
爆弾にやられた我が家の玄関の柱に、ながい黒髪が、数片の肉塊と一緒にこびりついているのを見つけました。
変わり果てたお母さんの姿は、小学生であった宮下さんの脳裏に今も鮮やかに焼き付いて離れません。

 ?人間魚雷「回天」慰霊碑 (音戸町波多見)
戦争末期、制海権、制空権ともに圧倒的に劣勢となった日本軍は、空では「神風特攻隊」「呉地区高校生平和の集い」のあゆみーその2−へ

(死者4000人)攻撃作戦を考えだし、海では「93式魚雷」を改造して乗り込ませ
人間の手で操縦させて体当たりし、魚雷のヘッドに取り付けた爆薬で米艦を沈没へ導くという、
人間魚雷「回天」(死者145人)を開発しました。
多くの若者がお国のため、天皇陛下のためということで、太平洋諸島の海へ出撃し青春を散らしました。
音戸の大浦崎を起点に、冠崎・大入と倉橋島の大迫、亀ケ首とを結ぶコースが訓練の場となりました。
この碑には、突撃や事故で亡くなった青年の名が刻まれています。
こ碑の足元には.サイパン・グァム等の島々の名とともにその地の小石が埋め込まれています。
太平洋の各島々に「回天」で出撃して亡くなった若者の遺族が、戦死地の島の石を集めて
遺骨の代わりとしてここに埋め込んだものです。
遺族の方はどんな思いで石を埋め込まれたのでしょうか。

 ?高烏山要塞跡 見晴町
呉ドックでの戦艦「長門」「大和」等の建造や、広の第11航空機工場を米軍機からの攻撃を守るため、
呉周辺の山という山には高射砲や高角機関銃が据え付けられ要塞化しました。
高烏山と阿賀の大空山はその要塞跡として砲座、兵舎、弾薬庫跡が残っている戦跡です。
実際には、砲弾はB29には届かず途中で破裂し、地上に落ちて民家を壊したといわれています。
米軍の爆撃で多くの砲台は破壊され.また正確な機銃掃射によって若き砲撃手がなくなりました。
末期には砲弾も尽きてしまって、高射砲に見せかけた丸太を据えていました。

 ?女子挺身隊「殉国之塔」(鍋峠から警固屋1丁目の公園に移設)
45年6月22日の海軍工廠への激しい攻撃によって、この下の工場で476人の
女学生が悲惨な死を遂げました。
「殉国の塔」はその霊を慰めるための碑です。
65年に警固屋の仏教婦人会の手で建てられました。
当時、中国地方から動員された18149人の女子挺身隊として女学生が呉にいました。

 ?戦艦「大和」碑(宮原5丁目の歴史が見える丘公園)
戦艦「大和」は眼下に見える、旧海軍工廠第4ドックで建造されました。
いまでも、内部が見えないようにした囲いが一部残っています。当時は、大和の建造は軍の最高機密でした。
進水したものの当時の戦争は、戦艦時代は終わっており航空機時代になっていました。

当時の日本軍は艦を動かす燃料も少なくなり、「大和」は片道燃料を積み込んで、
沖縄で座礁させて米軍と戦うという作戦を立てました。
当時の日本軍の無線は米軍に筒抜けになっており、鹿児島近くの海で米軍の攻撃を受け、3000人の乗組員とともに海の藻屑となりました。
ただ、「大和」建造の新しい技術は戦後の日本に役立ちました。

 ?呉港「呉沖海戦」
7月24日・28日の呉沖海戦と呼ばれる戦いを見てみよう。
45年当時、呉周辺には、帝国海軍の70隻余りの艦船が停泊していました。
(情島には航空母艦「日向」三つ小島近くには、航空母艦「伊勢」と「天城」「葛城」
警固屋沖には「青葉」 小用沖には戦艦「榛名」 高須沖には練習艦「出雲」
江田島湾には巡洋艦「利根」と「大淀」)

5月5日から10日にかけて来襲した米軍機は、呉湾の出入り口に機雷を投下し
湾外に出られないようにし、また近隣の給油所も爆撃し、軍艦の燃料を使えないようにしました。

7月下旬の攻撃で、湾内の艦船はことごとく座礁炎上し、船腹を上に向けて醜い姿を さらすことになりました。
こうして呉は帝国海軍の終焉の地となりました。


 ?呉空襲犠牲者供養地蔵(本町 和庄児童公園)
呉市街地への空襲は、20年7月1日の深夜23時50分から、2日未明2時30分
にかけて、B29 80機によって行われました。
投下された焼夷弾は、8万発、重さにして千余トンで、海軍施設はもちろん学校18、病院5、を含めて呉の中心部や山麓部分を広方面まで攻撃しました。
全焼家屋22052戸、半焼116戸、被災者122535人、行方不明52人、
死者1812人、重傷者453人に達し、軍部呉は正に壊滅状態になりました。

米軍は周辺部に焼夷弾を落とし火災を起こした後、中心部へ爆弾を落としました。
住民は、逃げ道をふさがれ死者が多くなりました。
それぞれの防空壕逃げ込んだ住民は、入り口に炎と煙が襲いかかり焼死や、窒息死した人が多くいました。
犠牲地となったこの地に、遺族の方々の寄付で建立されたのがこの供養塔です。

 ?呉戦災犠牲者供養菩薩像(本町の寺西児童公園)
7月2日の未明、旧寺西町明法寺下の横穴式防空壕には、入りきれない人々が
溢れていました。そこを炎と煙が襲い掛かりました。
この地は、呉でも最も多くの犠牲者が集中的にでたところであり、
その最後があまりにもむごたらしいことから、空襲から5年後の50年に有志の方の浄財によって、
立派な供養塔が建立されました。

   ? 呉海軍墓地(上長迫町)
ここには、戦艦大和の碑をはじめ、55基の墓碑が集められています。
各碑には、その戦歴とその艦で戦死した人の氏名が刻まれています。
呉の各地にある民間の供養塔に比べて立派な碑になっています。

呉の戦災の実態と意義(呉戦災を記録する会の資料より)

 呉空襲の概況と経過
 1. 3月19日午前7時20分から11時まで、米海軍第58部隊の艦載機約80機が
沖縄事前作戦として、呉港内の残存艦隊を主目標に飛来、併せて海軍工廠、広空廠、
江田島の兵学校も機銃掃射と爆撃が行われ大損害を受けました。
とばっちりは、民家にも及び海岸通、宮原通も被災し市民29人、工員61人、
負傷者163人、罹災者347人、その他建物、山林焼失等中国地方最初の空襲であった。

2. 5月5日10時から30分間 マリアナ基地、第58・73部隊のB39機が
広工廠の航空機関係の施設を主目標に594トンの爆弾を投下、広駅・大新開長浜の民家も被災し
市民28人.工員120人の死者、負傷者155人 学徒動員の呉1中(現三津田高校)の生徒4人も犠牲となった。

3.6月22日9時半から約1時間B29 192機が呉工廠を主目標に爆弾841トンを投下、
工廠を大破するとともに死者、工員325人、市民69人を出し
宮原、警固屋,音戸で被害が大きく女子挺身隊150人も悲惨な死を遂げました。

4.7月1日23時50分から翌2日2時30分ころまでマリアナ基地第20空軍・第21爆撃兵団から飛び立った
166機のうち80機が豊後水道から呉上空に達し、宮原、八幡,和庄、寺迫等、
休み山の山麓から手始めに、まず周辺部から無差別のじゅうたん爆撃攻撃を加えて、
中心部では灰ケ峯から本通り・中通りと焼夷弾攻撃をし、市街地全域を炎上させて、
その後、阿賀・広・仁方地区を攻撃しました。

投下された焼夷弾は1081トンで約8万発、死者1117人 負傷者453人
家屋22052戸 焼失官公庁21 学校18 病院3 寺社10 工場33 
軍施設27を焼き2日午後7時ごろに焼き尽くして鎮火した。

市街地の防空壕・井戸・道路で多くの人が悲惨な死を遂げた。

5.7月24日6時から12時、7月28日6時から16時まで艦戦機.870機、
950機がそれぞれ来襲し、残存軍艦は「呉沖海戦」と言われる攻撃で全滅し、
軍人826人の戦死者を出した。海岸近くに軍艦を停泊させていたため
周辺の警固屋、音戸、倉橋で 市民119人が死に、負傷者は249人に達した。

1.  呉空襲の性格.
 他都市との共通点 ・総力戦の一環としての銃後への報復
          ・国際法無視の無差別焼夷弾攻撃
 相違点      ・「戦場」としての攻撃

2.  呉空襲の被害  死者 市民2071人、軍人と工員1629人、重傷1992人、軽傷661人、
行方不明67人、全壊家屋503、半壊187、全焼22148、半焼139
 被災者126571人

3.  太平洋戦争及び呉空襲年表
1931年 (昭和 6年)9.18事件―日中15年戦争始まる
   33年 (昭和 8年)ナチス政権成立、日本国際連盟脱退
   37年 (昭和12年)7.7事件日中全面戦争始まる.
   38年 (昭和13年)国家総動員法制定―綿、ガソリン切符制 
39年 (昭和14年)第2次世界大戦    国民徴用令
   40年 (昭和15年)政党解散   砂糖 マッチ切符制
41年 (昭和16年)太平洋戦争  出版統制、コメ配給制、
          真珠湾攻撃、アウシュビッツ虐殺始まる
   42年 (昭和17年)ミッドウェー海戦―日本の敗戦始まる
            東京初空襲
   43年 (昭和18年)イタリア降伏、学徒動員
44年 (昭和19年)サイパン陥落 神風特攻隊始まる
           B29北九州空爆
45年 (昭和20年)
1月 ルメール少将無差別爆撃を主張
       3月 硫黄島陥落 B29夜間低空無差別攻撃
3月10日(東京大空襲)呉軍港に機雷投下始まる
       5月 ドイツ降伏 6大都市焼失 呉・広への攻撃
       6月 中小都市への攻撃始まる。22日呉空襲
       7月1日 呉大空襲 24日呉沖海戦 28日日本海軍全滅
       8月6日 広島に原爆 
                 9日 長崎に原爆
        15日 ボッダム宣言受諾(日本敗戦)

4. 日本全体の空襲被害
・来襲米軍機 B29及び艦載機 400回 66000機 投下爆弾16万トン
・被災都市 98都市 72市は軍施設の無い都市
・被害状況 死者31万 不明2万4千 負傷35万1千 全焼家屋23万
罹災者2100万人 軍需施設600か所 疎開した人850万
・学徒勤労動員 小学生163万 中学生160万 大学生19万

5. 呉市の防空体制
・横穴式防空壕 26000 工場内100 
・盛り土待避壕 2800  工場内702
・個人待避古豪 43256 横穴1200
・防空法による強制疎開 6051戸(24,204人) 
昭和20年4月より小学3年生以上の集団疎開及び縁故疎開


 それが平和だ  (向君の新曲)
子供の夢 それが平和だ    母親の夢 それが平和だ
木陰の愛の言葉 それが平和だ
世界の顔の上に傷口が閉じるとき
死者たちが寝返りを打って
自分たちの流したちが無駄でなかったと知って
ぐっすりと眠りにつくとき    それが平和だ
素直な心   いつも素直に   それが平和だ
時には投げやりになるけど    それが平和だ
今 僕らがこの世にいないとしたら  平和なんて語れない
屁理屈も言えない  だけども僕らは今生きているんだね
だから考えるんだ  笑顔で微笑まれること  それが平和だ

人を信じる      それが平和だ
人を愛する      それが平和だ
時には腹が立つけど  それが平和だ
模試も人を信じられないなら  身近な人を愛せないなら
あなたは なぜ生きているんだね
何が楽しいの  せいいっぱい人を信じるんだ
そうすれば 平和だ

仲間ばかり        それが平和だ  
イヤな奴いないさ     それが平和だ
仲間だから信じられる   それが平和だ

地球上の人たち   地球上の動物たち
どいつもこいつも  仲間だよ

話もできる 歌も歌える
これが仲間だろう   ねえどうだい そう思うだろう
それが平和だ   それが平和だ

実行委員のOBからの便り   福山大学学友会  山崎雅史   
 私は高2の時から「平和の集い」の実行委員をやっていましたが、卒業が近づくと
同時に、大学に行っても平和運動を続けたい、と強く思うようになりました。
大学に入り、学友会の執行部の人たちと知り合い、彼らも平和運動に取り組んでいる
ことを知り、福山でも平和の集い開きました。
私が実行委員長を務め、3月に「県東部・平和のための青年学生の集い」を開きました。
内容はコンサート、映画「平和を返せ」の上映、県朝鮮人被爆者協議会会長の
李実根氏の講演の三つです。
この集いを開くにあたっては平和の集いの経験が、大きく役立ったことは言うまでもありません。
そして、今も私は学友会で平和運動に取り組んでいます。
高校生の皆さん私たちともに、平和の声を高めていこうではありませんか

第21回    85、2・23〜24   呉勤労会館     延べ300名
・一日目映画「子供たちの遺言」鑑賞と交流会
・二日目に中国帰還者同盟の元兵士の証言を聞く
・埼玉、神奈川、大阪、長崎、広島の高校生の「非核平和宣言」のアピールの
呼びかけに答えて採択
・広島朝鮮高校の参加もあり討論が盛り上がった
・広高校鈴木君の作詞作曲「殉国の乙女の歌」発表され感動的なフィナーレになった。

第22回    85、6・23    呉勤労会館   200名
・生徒も出演した映画「赤い月の街―呉空襲の記録」を鑑賞
・非核平和宣言の採択を呼びかける三村提案に共感
・呉空襲から40年の重みをかみしめる集いになった
・清水ヶ丘高校からの実行委員、長浜中学からの参加など新たな動きも見られた

第23回    86、2・23    呉勤労会館   150名
・宮原高校 岡本君の作詞作曲「 PIECE OF PEACE」の発表
・映画「生きる」の観賞
・4つのグループで「いじめ、校則―等」身近な問題について話し合った。
・中学生、集いのOB・OGの積極的な発言が目立った集いでした

第24回   86、6・21     呉勤労会館   300名
・映画「百番目のサル」の観賞
・始めて呉養護学校 前回に続く長浜中学、豊栄高校の大挙参加
・分科会「なんでも語ろう」は笑いの絶えない熱気に満ちたものだった。
・集いの後、実行委員への名乗りが多く出た

第25回   87、2・7     呉勤労会館   200名
・映画「やがて----春」鑑賞
・いじめ問題解決への展望と真の友情の姿を見たのか、会場のあちこちで感動の涙があった
・呉工の角本 豊栄の神田の巧みな司会、長浜中や沢山の先輩の友情参加もあって心温まる家族的な集いとなった。

第26回   87、6・20    呉宮原高校   120名
・VTR「きずな---高校生とヒロシマ」鑑賞
・千羽鶴をおる 鳩の絵を描く 平和50字メッセージの3つのグループに分かれて
  和気あいあいと創作活動をした。
・呉工の角本君の基調停案
・広高校の詩の朗読は集いを盛り上げた

第27回   88、2・20    呉勤労会館   120名
・反核アニメーション「風が吹くとき」鑑賞
・広高校の宮崎の提案による、ピースレター(平和はがき)にとりくむ、
慣れない英文に頭をひねる。
・13回委員の竹下さんをはじめ多くの先輩、広島の仲間、中学生の参加もあり
  盛り上がった
・閉会後の堺川公園でのミーティングでは太田先生の胴上げもあり、
  いつまでも去りがたい余韻に浸った。

第28回   88、6・25   呉勤労会館   120名
・映画「核戦争後の地球」鑑賞v ・「被爆者は訴える」と題して、呉市在住の主婦 久保美津子さんの
  心にしみる講演を聞く ・宮原高校の北本君の作詞作曲「Peace for ever」披露
・OBの佐伯先生に引率された川尻中学の生徒の参加あり
・呉工業の川野、豊栄高校の上田の活気ある運営で盛り上がった
・閉会後には堺川公園で「平和の思いを大空へ」のメッセージ書いた風船を
  参加者全員で放った。
・最後は恒例のチクサクコールで、8・6全国集会に向けての決意を誓い合って散会した。

第29回   89、2・18   呉勤労会館   120名
・映画「白旗の少女・琉子」鑑賞
・夏に宮原高校の先生方の「観光コースでない沖縄」の研修旅行のスライドの上映
・豊栄高校の植田さんがギター片手に「私の平和へのメッセージ」と題して
  平和への思いを発表した
・中学生や竹原市から祖母とお孫さんの飛び入り参加があり、
  多くの集いのOB・OGにも支えられた、実行委員たちの感動は恒例の公園での
  反省会へと続けられた。

第30回   89、6・17   呉勤労会館   100名
・6年前の実行委員が制作した「戦跡を語れ 平和な未来を」のスライドを鑑賞
・長年平和の集いの顧問をされた太田先生の「私の歩んできた道」
 (父は沖縄で死んだ、の著者)の講演を聞く
・広高校の丹下さんの「私の平和メッセージ」は参加者に感動を与えた。
・集団ゲームでは、椅子取りゲームで盛り上がり30回の記念大会をあえた

私の平和メッセージ   広高校 丹下さん 
 「平和って何だと思いますか?」そう聞かれて、
  あなたは即座に答えることが出来ますか?
私が平和という言葉の重さを知った、私にとってとても大切な一日が私の中ではっきりと存在しています。
それは小学校6年生の社会見学で、初めて広島の平和公園を訪れた卒業を3日後に控えた日の事でした。
 私は、春の陽射しとともに平和がどういう事であると知りました。
 広島とそう遠く離れていない呉に住んでいながら。それまで原爆資料館に行ったことのなかった私には、
資料館の遺品の数々にどれほど戦争が恐ろしいものであるかを思い知らされました。
それは私の想像をはるかに超える世界でした。
遺品たちの問いかける声を頭の中でくり返しながら、資料館の外に出てパット顔を
 上げた瞬間、私は生涯忘れることのできないものを感じました。
私が顔を上げたその時、私の瞳に移ったのは、真っ青な青い空に風に乗り流れる
白い雲青々と茂る木々、そして飛び交う鳩と明るく笑う人々の姿でした。
 戦争を知らない私たちの世代には、その当時がどれほど悲惨であったかはわまかりません。
私たちが生まれたときには、もう戦争の傷跡はきれいなベールで覆いつくされていました。
 そして過ぎていく年月と比例して、何十にも厚くなるベールの下に隠された
その傷はだんだん遠い過去として閉ざされて行っています。
だから私もベールの下の広島や呉の町しか実際には知らず、ベールの下に隠された永遠に消えることのない街の負った傷の深さは想像することもできません。
小学校6年のその日、ベールの下のことなど考えたことがなかった私は、初めて自分の今立っているこの土の下に、
戦争のために出来た消えない傷が隠されていることを知りました。
それを感じたとき、私の中で戦争とか原爆とかよく耳にしてはいても、ただ頭の中で通り過ぎていくだけだった。
言葉の数々が深い意味を持った身近な言葉として動き始めました。
その日の受けた衝撃は、大きく私の中で平和に対する思いはどんどん変わりました。
私は広島も呉の町も大好きだから,そんな大好きな街に見えない空襲や原爆の
消えない傷があることが悔しくてならなかったし,心から戦争が憎いと思いました。
そしてその悔しさを胸に決して二度と自分のように自分の愛する街に消えない傷を
負わされるようなことをこの地球上のすべての人が経験することのないように、
自分はこの気持ちを忘れずに平和を、訴えていかねばと思いました。
そう、些細なことでいい、とにかく自分に出来ること自分の愛する街をまもるために
できることをしよう

この呉地区高校生平和の集いも今回で30回を迎えました。
以前の資料などに目を通すと、その頃はこの平和の集いの内容が充実していてびっくりしています。
だけど今回は高校生の積極性や行動範囲が狭くなっていて、そのころと大きな違いが
あってなんと何か寂しい気がしています。
「平和って叫んでなんになるの」「たかが私たちが平和のために活動したって、
何の役にも立たない」
「そういうことは、学校の授業だけで十分」今の生活に甘えた現在の高校生の口から
そんな言葉が生まれています。
平和運動とかしている人はまじめな人だとか、暇な人だとか、そういう目で見たり、
そんなことをするくらいなら、スポーツでもしたほうがよっぽど楽しいという人が結構 多いいと思います。
学校で平和の集いというものがあると宣伝すると誰も本気で興味を持って聞いてくれようとしない。
「今度平和の集いがあるんだけどー」その言葉に対する返事はいつも同じ
「何曜日、土曜日は用事があるけん」「たいぎい」「忙しい」「クラブがある」とか、
なかなか思うようには集いを盛り上げていくことが出来ないものです。
きっとみんなの心の中でマジメという3文字や、自分とは関係ないという無関心、
「そんなことしてどうなるん」という冷めた心が横切るのでしょう。
確かに集いをしたからといって、あすから核兵器が減っていくわけじゃない。
町の負った傷が癒されるものでもない。目に見える変化はすぐに起りはしない。
だけど長年平和運動に取り組んでおられる人に私は言われたことがあります。
「たとえ受験何とかで平和運動が出来なくても自分の中で平和に対する考えを
しっかり持って対処して行ければそれで充分」なのだと
 平和に対する考え、それは学校で描く感想文のようなものでなく、自分で動いて
 感じとった考えでないと意味がないと思います。
 いつも、いつも平和の事を考えて歩くわけにはいかない、いかないけれどもいつも、
いつも忘れていていいわけじゃない。
どっぷり何でもそろった環境につかりきってしまっている私たちの世代は、ただ、
華やかで明るい生活を送るだけでなく、やはり、平和を受け継ぐ世代としてももっと
瞳を開いてみることが大切だと思います。
何一つ大きなことが出来なくていいでも、冷めたりせずに自分一人が動いたからといって、
何もわからないとあきらめてしまうのではなくても、もっとこの若さの中に秘められた
可能性を、広げてみようとチャレンジすべきだと思います。
 仲間から仲間へ同じ呉の高校生として---そうしたらもっと何かが違ってくるし、
以前のように呉の高校生が一つになれるような気がします。  世界で最初に原爆の投下を受けた広島県人の一人として、呉の空襲によって
消えない傷をつけられた一人として、大切なものを守っていこうという
気持ちを深くし、一見平和そうに見える現在の社会もほんとは、さまざまな問題に
囲まれ、今日も地球のどこかで戦争が起き兵士が死に
誰かにとって大切な街が傷ついています。
身近なところから手と手をつないでいきたい。
 そして最後に地球上のみんなが手をつないだならきっとその時、初めてほんとの平和が生まれるでしょう。
 平和なんて言葉の意味は口では言い表せたり、目に見えたりするものじゃないけれど、
結局人間の心も同じように、きっとこの世の中で一番強い力を持ち、一番大切なものはすべて決して目に見えず、聞こえず、触れることのできないものだ、と私は思います。

目に見えない何かを見つめて、耳に聞こえない何かを聞いて確かな手触りがないからこそ、
心をぶっつけて、みんながもっと今を、この街を、自分を見つめ直す時が来ていると思います。
 ベールの下の眼に見えない傷の痛みを、今日も町は忘れてはいけないことを、
私たちは見えなくても理解できることを------

第31回   90、2・7    呉勤労会館    120名
テーマ  平和がいいに決まっている 今呉、を考える
・「夢を信じて」の合唱   ・映画「火垂るの墓」
・私の平和メッセージ 音戸高校 小栗君
・集団ゲーム ○×クイズ等 
・閉会後  平和メッセージを書いた風船を飛ばす

第32回   90、6・16   呉勤労会館    120名
テーマ 平和の祈り 永遠に響け
・演劇「閉ざされた季節」   呉港高   豊栄高校 
・分科会 A いじめについて B 恋愛について 
C 世界情勢    D 悩み相談室
    ・宮原高校戦跡研究会報告  旧海軍墓30地の碑文と戦死者を調べる
・千羽鶴づくり  ・閉会後  平和メッセージを書いた風船を飛ばす


   「呉地区高校生平和の集い」のあゆみー以上で完結




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