集団疎開の思い出

              朝倉邦夫 (1936(昭和11)年 生)


 昭和20年3月19日朝、米軍艦載機による軍港攻撃が行われた。私は古江町の一番上の横穴防空壕から、こどもなので、これをおもしろく見物していたが、これを契機に呉市の学童集団疎開が始まった。
 私(3年)は、兄(6年)とともに、本校第1陣の疎開に加わり、4月7日、仏通寺へ行った。
 男女各20名ずつが2つの支坊に分宿し、男子は渡辺先生(ひょうたん)の指導で生活した。最初にしたことは、朝夕の食事前と就寝前に唱える般若心経の写経であったと記憶している。3年生には難しすぎる字で、憶えるには大変でしたが、集団疎開が私にもたらした効用は、命が助かったことと、これを憶えたことにつきている。生活は、村人の温い差し入れもあったが、雑炊等を主に、少量で常に空腹であった。しかし、弁当箱に半分くらいの麦飯に梅干しだけの私たちのとなりでは、農村であるにもかかわらず、水だけ飲んでいた朝鮮人の友人のことも忘れられない。
 ワラぞうりを毎日つくっては、数キロ歩いて通った学校の帰りみち、野イチゴや野草をとってたべながら、「今に神風が吹いて日本は勝つ」といった話をよくした。神風のかわりに原爆が落ちたが、毎日お寺で、モールス信号の訓練をさせていた先生も、9月には米軍の優秀性と原爆の科学を話しておられた。
 8月14日から1日、お.盆休みとして、村人の家へ1日里子に出され、ごちそうしてもらった。15日の昼、玉音放送があり、終戦らしいという話を聞いた。呉の7月1日の空襲はラジオをつけていたので、その日のうちに知っていたが、家のことを皆が心配していた。幸い、私の母と妹は、7月1日に本校第3陣の疎開先の小坂寮の寮母に行って助かっていた。終戦になっても呉が焼けていて帰れないでいるとき、河野の小父さん(のち家具店)が様子を知らせにきて、一緒に帰ることになった。9月17日の枕崎台風で、鉄道と道路が寸断されたので、18日に山越えをして、竹原に出て、漁船に乗つて長浜に上陸した。
 歩いて本通9丁目(現在、本通4丁目)へ着き、「家がなかったら本通小へ帰ってこい」という声をきいて解散した。
 見渡すかぎり焼け野が原で、なつかしい家までの距離は非常に近く感じられた。
 三角兵舎の家へつくと、父は空襲などで負傷して寝ていた。
 本通小は焼失したので、吾妻小をかりて授業が始まった。

(「呉市立本通小学校百年史」所載)