「学童も戦った銃後の呉」
              朝倉邦夫 (1936(昭和11)年 生)

1.軍港の街・呉へ来た頃

 私は1937(昭和12)年、2歳の時、高松市から呉市に来ました。
 父は「梳櫛(すきぐし)」職人でしたが、小間物屋をやめて軍備増強中の呉海軍工廠(こうしょう)に応募し、砲熕(ほうこう)部の仕上工に採用され、古江町60番地の借家に住んでいました。
 私の物心がつく3・4歳頃は、日中戦争が拡大化し、呉の街は軍事色に溢れ、水兵さんがイッパイいました。各家庭では水兵さんの世話をしていて、私の家にも2人ほど間借りしをていました。夏には水兵さんに狩留賀(かるが)浜に連れていってもらい、背中に乗せて泳いでもらう海水浴を楽しんだ覚えがあります。
 当時はアメリカを敵とは思わず、親米的な雰囲気も強く、「青い目の人形」のレコードを蓄音機(ちくおんき)にかけてよく聞いていました。後に「鬼畜米英」の憎むべき敵になるとは思っていませんでした。それだけに、1941(昭和16)年12月の真珠湾奇襲攻撃のラジオニュースと新聞記事は子供心にも印象深く、興奮した大人に連れられて、本通・中通の提灯(ちょうちん)行列にも参加しました。
 戦況が厳しくなった1944年頃から、本通国民学校の講堂には、出撃前の応召兵が数百名仮泊していて、物干しのロープに干された下着が旗のように靡なびき、その縫目にシラミが行列をしていたのは壮観でした。
 1945(昭和20)年3月末頃でしたか、3月19日の呉軍港への空襲の時、灰ヶ峰(はいがみね)の中腹に撃墜された米軍艦載機グラマンの一式を揃えた展示博覧会が本通国民学校の校庭で開かれました。
 目を引いたのは、脱出用の落下傘や救命ゴムボート・缶詰・釣り道具一式・救命信号用の橙(だいだい)色をした粉の染料でした。「命を惜しむアメリカ兵は、撃墜されると海上に脱出し、潜水艦による救助を求めて染料を流すのだ」と、兵隊さんが盥(たらい)の中に橙色をした粉の染料を流して見せました。橙色をした粉の染料は、一瞬にして緑色に変わり、水を染めるのに吃驚(びっくり)しました。
 惜しげもなく命を捨てるのが当たり前の日本に較べ、その卑怯さに唖然としました。

2.学童も戦った銃後

 戦争が泥沼化する中で、物資が統制され、配給制の中で耐乏生活をしていました。
 特に主食の統制は厳しく、各家庭に米の配給量を示した米穀通帳が交付され、配給所(米屋)でそれを見せて、生きるのに最低限の米を売ってもらいました。この統制は、戦後もしばらく続きました。
 私が初めて外食したのは、混雑する中通の「福屋デパート」の食堂でしたが、1942(昭和17)年、6歳頃は米飯の提供は禁止されていて「うどん」しか食べられませんでした。街の食堂は米穀通帳がわりの外食券がないと食事が出来ませんでした。それも外米の臭いご飯でしたが、やがて雑炊(ぞうすい)しか提供されませんでした。よく母に連れられて中通辺りにあった雑炊屋に並び、父が工廠で特配を受けていた外食券で雑炊を食べていました。
 太平洋戦争の戦況が困難になる中で、物資不足が日常化して生活は厳くなり、配給の食料では生活できないので、「闇(やみ)」買いをして食料や物資を調達していました。
 私の家でも母は「梳櫛」を持って、広や川尻・安浦方面に買い出しに行き、米や芋(いも)・豆・南京などを手に入れていました。1944(昭和19)年頃には芋も手に入らなくなり、代りにサツマ芋や南京の茎や葉を分けてもらい、皮を剥いて油炒めして食べていました。
 学童にとっての戦争は、物不足や飢えとの戦いでした。戦意高揚と節約を奨励するため、街の至る所に「欲しがりません、勝つまでは」のポスターが貼られ、総力戦の中で銃後は耐乏生活に苦しみました。
 楽しみなのは、自転車で来る紙芝居屋さんで、1銭の飴(あめ)や酢昆布を買って「のらくろ」「冒険ダン吉」「敵中3千里」「風の又三郎」などの続き物を観ることでした。
 私がよく食べたおやつは、栄養剤として売っていた「わかもと」や家庭薬の「梅肉(ばいにく)エキス」が代用のおやつで、野草のスカンポや松葉も齧(かじ)り、腹を満たしていました。
 物資不足で食料も家庭用品も代用品ばやりでした。1944(昭和19)年春頃までは、少ないながらも米での配給がほぼ行われ、代用食はあまり配給されませんでしたが、夏以降は、米穀手帳を見せても米の配給が半分くらいになり、あとは圧麦(おしむぎ)、甘薯(サツマイモ)、馬鈴薯(ジャガイモ)、小麦粉や乾麺(かんめん)、脱脂大豆、玉蜀黍(トウモロコシ)、高粱(コウリャン)で代用され、食べ物は混合食、代用食が普通になりました。
 お米が少ないので、ご飯の中に圧麦、高粱、大根、ジャガイモ、サツマイモ、南京(ナンキン)などを入れて量を増やしていました。
 私はこれが嫌いで、「銀飯(ぎんめし)」(混ぜ物のない白米だけのご飯)に憧れ、ご飯と混ぜ物を分けて食べていました。
 少しのメリケン粉にトウモロコシ粉を入れたスイトンや口の中でモゴモゴする蒸しパン、糠団子(ぬかだんご)をつくったり、変質して臭い押しつぶした脱脂大豆を炒って食べました。
 米の配給は玄米で、家で一升瓶(いっしょうびん)に入れ竹の棒で搗(つ)いて使いましたが、栄養を損ねないように7分搗き位にしました。そして、お米を研ぐ時も栄養の有る糠を流さないようサッと洗うだけにしていました。
 物資不足の中でも海軍関係者には何かと特配があり、父がよく貰(もら)ってきた品に乾(カン)パンが有りましたが、よくぞと吃驚(びっくり)したのは、牛肉と大豆・昆布の大和煮の缶詰でした。
 友達の海軍士官の家では、パンや菓子類がよくあって、遊びに行くのが楽しみでした。
 食料不足を補うため学校でも芋作りをしました。1・2年生は校庭の花壇を畑にして、3年生以上は、古江町の山の上の学校農園を耕して、学年の組ごとにジャガ芋やサツマ芋を植え、学校給食で食べました。
 昼弁当はたいてい「日の丸弁当」や蒸し芋なので、栄養補給のための学校給食も始まり、昼食時に、みそ汁を戴いていました。
 栄養失調を防ぐため、クジラから取った無料の臭い肝油やピンク色の美味しい有料のビタミンA・Dを授業中に先生が開けた口に入れてくれ、おやつのような楽しみでした。
 当時の野菜作りは人糞を利用したので蛔虫やサナダムシなどの寄生虫が多く、薬を学校で斡旋配付してくれました。よく効いて、いつも大便の中にウヨウヨいるのを見ました。

3.隣保(りんぽ)と家庭の銃後

 隣保では、マッチ、石鹸、砂糖や塩、野菜、薪(まき)や炭、煙草(たばこ)など、全ての生活物資を、文句のでないように公平に仕分けして各家庭に配分していました。私は「トントンとんからりの隣組、あれこれ面倒、みそ醤油〜」などと歌いながらよく手伝っていました。
 逆に家庭から、軍需物資にするための金属製品の供出運動が隣保を通じて行われ、1942(昭和17)年春頃には、本通国民学校の校庭に山と(30m円形x3m高位)積まれているのを見ました。門扉、柵、寝台、寺の鐘、学校のハンドベルなども出ていました。 私の家も隣保の係の人を通し、貨幣を小額紙幣と替えたり、指輪や鉄瓶、ヤカン、火鉢(ひばち)、洗面器、バケツ、文鎮、ボタン、樋(おけ)、金網など、あらゆる金属製品を供出しました。
 8月1日は、市内電車の横っ腹に「興亜奉公日」と書かれた垂れ幕も取り付けられて、「贅沢(ぜいたく)は敵だ」の合言葉に、女の人は指輪やパーマは禁止され、モンペとエプロン姿になり、男はカーキ色の国民服でボタンは竹製でした。だから私も国民服を着て、履物も靴が無いので下駄か自分で作ったわら草履(ぞうり)を履いていました。本通国民学校の2年生のとき、運動靴がクラスに2足配給があり、くじ引きに外れて残念だった記憶があります。衣料品も切符を持って店に行っても品物が無いことが日常化しました。
 木炭バスが走るようになった街では、家庭の燃料も炭や薪まきの配給が少なく、練炭(れんたん)は不良品で、悪臭を発し火力は弱く灰ばかり出ました。燃料補給に、私も石炭などの粉を木炭の粉と一緒に捏こねて豆炭(まめたん)タドンを作っていましたが、火力は弱く灰の山になりました。
 飛行機燃料を取るため、上級生は松の木を切り根を掘る、松根油(しょうこんゆ)取り作業に行っていました。山に保水性が無くなり、戦後の大水害につながりました。私たち低学年は、供出するヨモギ摘みやドングリ拾いに行きました。
 代用品ばやりで、金属の代りに陶磁器の湯たんぽ、鍋、釜(かま)、魚焼き器、十能(じゅうのう)を、セルロイドで作った洗面器、ハサミを使いました。模擬皮革の鞄やランドセル、バンド、人造ゴムのすぐ底の抜ける運動靴、すぐ破れる人絹スフの靴下や布、毛糸、木や布のバケツ、木や竹・陶器のボタン、消しゴムもゴムの代用品で字が消えず、紙に穴がよく開きました。
 代用品といえば、父は煙草たばこの配給が少ないので、松葉を煙草にして吸っていました。
 1944(昭和19)年、敗色が濃くなり、ラジオ放送で戦死者を悼む「海ゆかば」がさかんに流れました。
 空襲に備えて防空壕掘りが命令され、私の家も床下式防空壕を造りました。呉空襲の時、父はこの中にいて逃げ遅れ、焼夷弾(しょういだん)に焼かれて顔などに大怪我をしました。
 隣保では時どき防空演習をしていました。メガホンを持った警防団のおじさんが「空襲警報」と怒鳴って歩くと、皆がバケツや火叩きをもって整列しました。すると、おじさんは持っていた30cm位の模擬爆弾を落とし、町内の各所に置いてあったコンクリート製の防火用貯水槽からバケツリレーしてきて水をかけ、火叩(ひたたき)で叩く訓練をしていました。
 軍の命令もあって、空襲で焼夷弾が落ちたら、すぐ消すのを原則にしており、そのため消火活動をしていて逃げ遅れた多くの人々が、炎と煙に巻かれて焼け死んだり大やけどをしました。
 空襲の時、敵機から街が見えないように、青い松葉を燻し、煙幕を張る訓練をしたり、どの家も白壁に墨すみや煤すすを塗り、夜は家の電灯を黒い布で包み光が漏れないようにする灯火管制をしていました。
 真っ暗い夜は戦争の象徴でした。だから戦争が終わった最初の喜びと解放感は、電灯のついた明るい夜が戻ったことでした。
 当時、私たち子どもは、軍国主義と皇国史観で教育され、いつか神風が吹き、天佑があって「戦争に勝つ」と信じ、それまでの困難に耐えていこうと、子どもなりに「総力戦下での戦争」をしました。
 呉軍港と呉海軍工廠があったことにより、呉市では、2000人を超える死傷者が出ました。また、多くの子どもが、アメリカ軍の無差別で残虐な空襲の犠牲となって亡くなり、また、傷ついたのでした。
 この「戦争体験」が生かされる呉市の発展に尽力したいと思います。


参考資料:三 各種統計資料 配給制度の実態(黒い盆地・資料)



(呉市制100周年記念 体験記集 「呉を語る」所載
         ,発行:呉市,2003(平成15)年1月31日)