「戦時下の郷原・黒瀬」

                       加納清子

 長い間、蔵の中で眠っていた、昭和二十年前半の日記を出して、繰返し懐かしく読んだりしています。

 昭和十年頃、黒瀬川の改修工事がありました。その時、郷原婦人会は、会員一丸となって川工事で一日働き、その賃金を出し合ってサイレンを購入したそうです。
 その後、大東亜戦争が勃発して、昭和二十年三月頃からは敵機来襲で、度々サイレンが鳴るようになりました。
 警戒警報や空襲の知らせは中黒瀬郵便局から、「何時何分、警戒警報発令」と知らせが入ります。
 警戒警報と空襲警報解除は一分間鳴らすだけですが、空襲警報は左手で十回、指を折りながら、右手で間隔を同じように注意して、サイレンのボタンを上下するのです。
 何気なく聞いていたサイレンも、経験して初めてその難しさを知りました。このボタン一つで、村中の人が動くと思えば、自然と手に力が入りました。
 昭和二十年二月一日には中黒瀬で、徴兵予備検査があり、二月二十二日には、竹原で徴兵検査がありました。結果は甲種合格五名、丙丁戊各一名。後は乙種でした。
 三月十九日朝、突然、空襲警報になり、大きな爆音にびっくりして外に出ると、郷原の空一面に敵機が、呉市街に向かって飛んで行きました。
 高射砲もどんどん打たれ、黒瀬町に近い地区で一ヶ所火災がおこり、間もなく二回目の空襲、三回目の空襲の時、野呂山麓の海軍演習場の兵舎の上が火災になったが、兵隊さん達ですぐ消されたそうです。
 この日は呉と広へ空襲があり、撃墜は三十機、撃破二十機と午後のラジオニュースで放送。
役場でも朝から防空壕を職員たちの手で掘りました。
 新堂平神社と役場の間に、地面を長方形に掘り、上に丸太を並べ、その上に土を盛り、一週間ぐらいで、やっと出来上がりました。
 その頃の役場は、お宮のすぐ隣にありました。この日から女性職員も二組に分かれて宿直することになりました。

 三月二十日朝、空襲
五区の農家の裏の田へ爆弾が落ちて、池のように水がいっぱい溜まっていたのを見に行く。 四月十五日から松根油工場の窯を作る。
工場は長谷の入り口付近の奥田橋の北側で、工場の前には松の根が高く山積みしてありました。
松の根を掘るのは、老人と小学生高学年の子供達でした。

 四月十七日、十一時ごろから一の松光山で火災、野呂山も長谷も火災になった。
 四月二十九日、松根油工場の火入れ式
 四月三十日、朝六時から、一区と二区の境にある胡神社の境内で、横一列に並び、女性十数人で竹槍の訓練をする。小学生も体操の時間に習ったそうです。
 五月十一日十二時半、突然郷原へ爆弾四発投下。
 六月十二日、郷原へ招集令状が九枚来る。
 この頃になると、男性職員も応召されて、女性が自転車で招集令状を持って行くようになった。
 新婚間もないに新妻の手に渡したことも。またある時は、胸の病で病床から起きて縁側に受け取りに出られた本人に渡したことも。
 またある時は、村の西側の高い集落へ自転車を押して上っていると、一人で畑を耕していた手を止めて、びっくりして私の行方をじっと見て居られました。
 令状を渡した家を出る頃には、近所の人が大勢集まってきていました。
 出征兵士を送る前日は朝から酒盛りの準備をして、夜は親しい人たちで、ご馳走を囲み、軍歌や面白い歌など、手拍子うって賑やかにしたものです。
 出征の日には村中の人が新堂平神社に集まり、小学生が出征兵士を送る歌をうたって、親類の方や近所の人、在郷軍人、婦人会の方たちから歓呼の声で送られて行かれました。
 終戦近くなるにつれ、前日の酒盛りだけは今まで同様にしても、出征の日には親類の人や近所の人のみで、バス停や村外れまで送るのがやっとのようになりました。

 その頃の小学生も本当によく働いたと思います。
 登下校も藁草履を履いて、体操や遊ぶ時間には裸足で外に出て、教室に入る時には、校舎の裏の足洗い場で足を洗って入っていた。農繁期には麦刈や田植え、稲刈りの手伝いなど。
 七月一日未明には、敵機が頭の上を過ぎたようなので、防空壕の外に出ると、呉市街地の空が赤く染まっていました。
 それが呉市大空襲の火災でした。
 その夜は、呉市元町に住んでいた兄が、呉の街も危なくなったので、郷原へへ帰る相談や準備に帰っていたので、すぐ呉に行きました。
 兄嫁と子供二人は近くの防空壕に入っていたそうですが、子供二人が元気でいるのを見たとたんに、兄嫁は三時間ぐらい気を失ったそうです。
 兄は家族を連れて郷原へへ帰りました。
 兄も招集令状が来て、広島の原子爆弾の落ちた後へ入隊し、終戦のため帰されたそうです。郷原からその日に三名入隊し、三名とも若くして亡くなられたそうです。
 昭和十九年から二十年にかけて、安浦海兵団郷原演習場の兵舎ができたばかりで、海軍用地の土地代が何回かに分けて支払われ、そのうちの一回分を呉市内の銀行へ先輩と二人で受け取りに行きました。二人で十三万円余り持ち帰りました。
 終戦後、土地は地主に返されたそうです。
 七十年近を知らせたり、空襲を知らせてくれたサイレン、呉市に近い所に住んでいるので、毎日のように聞きながら、いろいろ思い出しては、現在の平和のありがたさに感謝しています。


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