「呉海軍鎮守府を建設した頃の挿話と呉空襲の目撃体験」

                            植田 盈

1、呉海軍鎮守府を建設した頃の挿話

 政府は広島県安芸郡呉湾に海軍鎮守府を置くことを決めた。
 当時、呉は船越村に郡役所がある安芸郡に属していたので、事業目的遂行の便を最優先するため、この事業が完了するまで、安芸郡役所を船越村から呉和庄村に移して、この大事業を推進した。
 明治23年4月21日、呉海軍鎮守府を開設することができた。(因みに海軍兵学校ができたのは明治21年8月)
 明治16年から安芸郡役所に勤務していた私の父も呉に移った安芸郡役所に通勤することになった。当時汽車は未だ通っていなかったので矢野峠、焼山、二河の峠道等、可成り険しい山道を歩くしかなかった。
 夏は藪蚊、ぶよ、蜂、まむし等にも悩まされたらしい。
 服装も和服で袴姿に草履履き、霜の降る日は自家製の稲藁で作った雪靴を履いて、片道5〜6時間、日曜日には午前3時に家を出て、年前9時に郡役所出勤、平日は故島本静夫氏宅に下宿住居、土曜日の午後は逆路を急いで帰宅。母が老父母と2人の幼児を抱えて守る5反ばかりの棚田耕作を手救けした。
 明治29年、呉鎮守府建設完了をもって、呉は独立市制を敷き、安芸郡役所は海田市町に再移転。父は履歴書に明治29年8月18日、船越村書記拝命と書きのこしている。
 大正10年に建て替える前の、我が家の古い納屋の片隅に、父が呉通勤の頃に履いた稲藁で作った雪靴と「カンジキ」がぶら下げており、時折往時の厳しく苦しかった生活の語り種にされた。
 私が小学校5年頃の桜の季節、早朝両親は花見弁当を作って、焼山の海軍水源池に連れて行ってくれた。
 水源池は全周緑の渓谷の中に堰堤や管理施設などが程よく配置されていて、景観も抜群、清潔感漲り、その頃、道端の共同丼戸の水を使っていた私達は、呉市民の幸せに羨ましさを感じた。
 昼食を早めに済まして、相変わらず険しい山道を降り、二河の滝の前で一休みし乍ら、呉に移転した安芸郡役所に勤務していた頃の父の想い思い出語りを聞いた。
 親子3人での花見遠足の最後は、呉駅迄歩いて「呉一海田市」間の切符を手にして嬉しかった事、車窓から激しく移り変わる美しい海岸線の景魚に魅せられて、遠足の疲れもある程度癒されたが、海田市駅から我が家まで1qの野道は遠かった。
 この呉線が開通したのは明治36年で、機関車も客車も山陽本線に比べて小型であり、何よりも車内に照明燈がないので、トンネルに入ると真っ暗くなり不自由であった。
昭和11年、私が広島へ通学した頃、呉線に乗ると、往時の車両がまだ残っており、「マッチ箱車」とのニックネームがついていた。
 本線の車両と変わらなくなったのは昭和4年頃であったか、定かでない。

2、呉空襲の目撃体験
 昭和二十年三月十九日
 長男、植田寛治の広島一中合格発表の日であった。
 合格を確認しての帰途、午前9時15分頃、突然空襲警報発令。
米国艦載機の大群が広島湾や上空に来襲、乱舞したが、これに応戦する我が飛行機はほとんど見えず、広島湾岸の山地や島嶼に備えられた陣地からの打ち上げる対空砲火を打てども届かず、親子二人で悔しい思いをした。
 制海権、制空権を完全確保した米軍は、B29を中心として、本土各大小各都市に飛来して、ほとんど無差別爆撃を行った。
 各地でも、家財を田舎へ疎開し、あるいは手近に所有する山林へ避難小屋を建てる人が多くなった。
 私も大迫の小屋を整理補修する外、道端の栗林の中に、ちゃっちな小屋を作った。 7月末のある連夜、夜間9時半頃から約30分余りにわたって、B29の編隊が、呉軍港上空を爆撃した。
 勿論、空襲警報下、完全消灯待機して、我が家から南東、呉上空を眺める。B29独特のエンジン音を発しながら、軍港や軍施設を繰り返し爆撃を開始する。たちまち呉軍港上空が火災で明るくなったが、これを迎え打った我が空軍は果たしてありやなしや、闇の中は知る由もない。
 軍港警備の高射砲陣地からは、或る程度応戦したと思われるが、残念ながら敵機は、1万メートル上空を悠々飛んでいる。陣地からの砲弾炸裂は遥か下方で、的には届くべくもない。このような呉空襲が2昼夜同時刻に続いたのである。
 当時の軍国主義教育の虜となった寛治の悲憤慷慨振りが思い出されて、今もなお涙を禁じ得ない。
 そのころ寛治は、空腹をものともせず、夏休みも返上し、動員学徒として、広島市内の疎開家屋の後片づけ作業に従事していた。
 7月24日午後9時半前後だったか、空襲警報が発令され、一斉に厳重な灯火管制に入る。
 耳をすますと西方から異様なエンジン音が聞こえ、瞬時にして呉軍港上空に到達し、猛烈な爆撃を開始した。
 親子6人雨戸を開けて縁側から呉の上空を眺める。暗黒の夜空に大型爆弾爆発の閃光がほとばしり、続いて爆発音が響きわたる。その爆撃時間は果たして何時間だったか、正確とは言い難いが、私の感覚ではあの5日間、毎夜、三,四十分以上呉軍港上空は彼らの支配下に置かれた感じで、家族全員、悲憤慷慨したが詮無いことであった。
 B29は上空1万2000メートル、迎え撃つ我が高射砲2Hの射程距離は8000メートル。対応する飛行機もない。
 それを承知のB29は、呉、広の上空を我が物顔で乱舞、巨大爆弾を投下して引き上げる。それが7月28日までの5日間続いた。

3、戦争の指導責任
 其の頃、連合国で米、英、ソの三国首脳はポツダムで会談し、7月26日、我が国に対して、無条件全面降伏を宣言し、勧告した。
 我が国の戦争指導者たちは、全戦力失いながらも、なお本土決戦、一億玉砕などと国策を誤り、無謀にも黙殺した。
 それにより10日後の8月6日に広島。さらに8月9日には長崎と両市は原子爆弾による攻撃を受けた。両市での被爆死者無慮35万人余り。今なお被爆による患者が後を絶たぬ有様である。
 我が国の戦争指導者たちが勇気ある決断を持って、即時ポツダム宣言を受諾していれば、あの忌わしい原爆投下は無かったはず。ソ連の参戦もなかったかもしれない。
 数多の学者の反対を無視し、敢えて原爆投下を命じたトルーマンの責任は永遠に責められるべきだが、我が国の戦争指導者たちの責任もそれに劣るものではあるまい。
 全戦力失いながら、己の責任も認めず、無法な本土決戦、一億玉砕などと唱え、終戦の機を逸し、多数の市民を犠牲にしたことを忘れてはならない。

4、戦後の混乱と広十一空廠の地下工場
 終戦後、財務局から、広十一空廠の地下工場に保存されていた工作機械活用の話があり、広広町小坪の被爆工場を見るチャンスに恵まれた。
 よくぞ秘密裏に、あれだけの大規模な地下工場を整理したものだ、と驚いたが、戦後、警察警備の混乱期に盗まれたようで、特に直結モーターなど金目の部品や取り外しが可能の部品などが盗まれた機械が多く、残念ながら、財務局の好意には応えることが出来なかった。
 昭和二十年8月15日以降、約2週間ぐらいは無法状態に陥った感じで、各地の事業所、工場、倉庫、防空壕などに貯蔵されていた物資、食料、衣料品、薬品等の盗難事件が続いた。
 終戦の詔勅が出てからは夜勤者が無くなり、夜間の工場警備はわずかな守衛だけに絞られた。それを承知の盗賊団は深夜、海岸端の工場に乗り付けて、各種機械から小型モーターを外してもち去る。
 それが日夜、それが次第に大胆になり、大型のものにエスカレートしていった。


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