「呉軍港戦闘記」

                                       黒永 忠

   軍艦日向

 三月十九日の交戦

 北号作戦の任務を果し昭和20年2月20日呉港に帰還した日向は、シンガポールにおいて生ゴム、砂糖、錫、水銀など戦略物資を積んで帰った。
 入港と同時に呉海兵団など各部隊から、毎日数百人の作業員が荷降し作業に従事し、4日間位で完了した。
 当時、私は酒保長をやっていたので砂糖、コーヒー豆など降し、次の機関科出身の酒保長と交代した。
 日向は呉港第18番浮標に繋留されていたが、交戦時は21番浮標に繋留換され、艦首を「灰ケ峰」方向に向げていた。
 3月19日早朝「空襲警報」が発令された。0700すぎ、呉市広方向から米軍艦載機口ツキードP38、6機編隊で「灰ケ峰」上空すれすれに現れ、江田島方向に飛び去った。
 既に「総員配置」に付いて敵機の来襲を待った。機銃第一群指揮官は鈴政章少尉(7月24日広沖で交戦中戦死された)、私は従動照準器長をしていた。
 第1群の位置は、前艦橋の羅針艦橋前に1群指揮所と照準器があり、第1番機銃は指揮所前の司令塔上部に、羅針艦橋上部右舷に第2番機銃、左舷に第3番機銃が位置していた。 0730ごろ「休山」と「灰ケ峰」方向から山を背に、米軍艦載機グラマンが急降下をはじめた。各陸上砲台が射撃開始、つづいて在泊艦船が一斉に火蓋を切った。
 艦橋から「射ち方始め」の号令が下され、射手の三浦勲兵曹は、「目標よし」と報告、鈴政少尉から「射ち方始め」が令されて1群3基九門の25粍機銃は凄まじい弾幕を張った。
 我方の対空砲火で敵機1機が火を吹き撃墜された。その飛行士が落下傘で日向前方300米位の海面に降下し浮標につかまっていたところを日向のカッターによって救助された情景もあった。
 しかし敵機の攻撃で在港艦船の被害も続出しはじめた。日向も遂に3発の直撃弾を受けた。都度ズシンと異様な衝撃を受け、1発は主砲2番砲塔左舷後部をつらぬいて補機室で、また1発は左舷缶室に、1発は後部に鉄鋼弾が炸裂し戦死傷者が続出した。
 1群機銃は射って射って射ちまくった。3基9門、1門1分間に120発、9門で1, 080発が発射されるので、発射弾数は5千発以上であった。
 敵ながら天晴れ。山を背に高角50度−60度位で急降下し投弾する度胸たるや、真珠湾攻撃の仇敵とばかり呉港在泊艦船と呉海軍工廠一帯を攻撃した。
 戦後捕虜の話によると攻撃目標は、呉海軍工廠地帯であったが、早朝のP38の偵察によって呉港在泊艦船多数入港中との報告で、攻撃目標が在泊艦船に向けられたと聞いた。
 敵機の攻撃は1100ごろ終り、軽巡大淀は被害甚大で海軍工廠ドックに急きょ入渠した。その他の艦船で沈没はまぬがれたが、母港で被弾するとは残念でならなかった。
 戦死者を荼毘に、傷者は呉海軍病院に入院した。(県警察史によるとこの戦闘で死者-呉海軍工廠40人、広十一空廠21人、戦艦日向37人となっている。)

 4月27日、呉市広町情島200米沖合に転錨

 艦体に塗装を施したり偽装のため松、杉などをしばりっけた。艦首を広11空廠方向に、艦尾を倉橋島方向に前後投錨していた関係で、右舷の射撃は高角30度以上は可能であったがそれ以下は、惰島が遮蔽して不可能であった。
 それは左舷の呉軍港方面の守りに主力がおかれた投錨であったと思われる。

 5月5日の空襲

 1000ごろ日向電探が「敵大編隊、豊後水道北上中」と探知、総員戦闘配置につく。1030ごろから約1時間にわたりB29の大編隊100機以上が数次にわたり広11空廠地帯を爆撃した。
 我々機銃員は戦闘配置について水平爆撃を見るだけで、主砲は広方面が死角になっているめで射撃は不可能であった。また高角砲射撃も射程がないためか射撃はしなかった。(県警察史によると呉市広町方面 死者112人、負傷者154人となっている)

 6月22日の空襲

 0900日向電探「敵大編隊豊後水道北上中」と探知した。戦闘配置につく。0930ごろB29の大編隊200機以上が高度8000米位で投弾を始めた。目標は呉海軍工廠地帯であった。
 目標がそれた爆弾は、安芸郡音戸町、呉市警固屋通一帯に落下。爆発する度にドドドーと地響がつたわり、日向からは1発も射撃はなく、なすがまに約1時間が終った。
 戦後、旧海軍工廠地帯から約30発の1トン不発爆弾が発堀された。(県警察史によると死者325人となっている)

 7月1日の夜間空襲

 2300ごろ日向電探「敵大編隊北上中」をキャッチした。総員戦闘配置につく。
 深夜であるため敵機の音はするが機影見えず、2330ごろ高度3000米位で敵機数機が投下した液体のようなものが顔に附着した。
 その時特に気にしなかったが、それが焼イ弾攻撃の前ぶれで「ガソリン」であったことを知った。
 すると呉市方向のあちこちで火の手が上り出し、呉市全域が焼イ弾攻撃を受け全市に火勢がつのり火の海と化した。
 呉市の中心部山の手より燃え、くっきりと「灰ケ峰」「休山」の山影が見えた。我々としてはどうすることもできず、翌日の0230頃まで空襲が続いた。
 翌日、呉市に家族をもつ者の特別上陸が許され、家族の安否を気遣いながらかけつけたが、我が家族全員無事であった。
 しかし、先任下士官井上岩三郎兵曹の奥さんは、市内清水通の防空壕内で窒息死され、翌日分隊員の手で荼毘にふされた。井上先任下士官は妻をなくされ、そのうえ7月24日の交戦で戦死されたが遺体が未発見のままであった。
 終戦後昭和23年から始められた日向解体時、防空指揮所の下で鉄板に巻かれたままになって白骨遺体で発見され、呉地方復員部の手で長迫海軍墓地に葬られた。(県警察史によると死者1,817人、重軽傷者456人となっている)

 7月24日の交戦

 7月23日は上陸が許され外泊していた。翌24日0600呉鎮管内「空襲警報」が発令され、急ぎ中央桟橋に走った。
 既に迎えの水雷艇がきており、飛び乗って日向に全速帰艦した。舷門を上ると同時に「配置につけ」のラッパがけたたましく鳴り響き、すぐ1群機銃戦闘配置についた。0700ごろ「敵機大編隊豊後水道北上中」と電探がキャッチした。
 すぐ「戦闘服装に着換え」が発令され「今日の戦闘は手強いぞ」と思いながら待った。米軍艦載機の第1波は0830ごろから始まり、約100機が右150度方向からゴマ粒をまいたように小さな大群がどんどん日向方向に迫ってきた。
 距離1万米位から2隊に別れ、1隊は呉港停泊中の艦船方向へ、1隊は日向目がけ右40度方向から高度6千米位で急降下を開始、既に対空指揮官から「撃ち方始め」が令され、一斉に我々1群は射撃を開始した。
 更に高角砲、各機銃群、噴進砲も砲門を開き、凄まじい弾幕を張った。敵機は弾幕におそれてか高度4千米位で投弾するので殆んどが至近弾であった。
 至近弾は5、60米の水柱をあげ、海水ともに「ヘドロ」が甲板上に落下し、足場は悪くなる一方であった。
 1波交戦の際、電気系統が故障したため従動照準器による射撃は不能となったので、各機銃は砲側照準射撃に切替えられ、指揮官鈴政少尉は第2、3番機銃の指揮をとられ、私に第1番機銃の指揮をとるよう指示されたので、急ぎ1番機銃の指揮をとって射撃を続けた。
 第1波の交戦は約40分で終り敵機は一たん去った。直ぐに2波に備えて弾薬の補充を終え、第2波に備えた。第1波による直撃弾はなかった。
 第2波の約百機は1000頃、広方向で二手に別れ、一隊は第1波と同じように呉方向へ、残り一隊は数珠つなぎになって機銃を射ちながら急降下をはじめた。
 攻撃の度合は1波よりもひどく、高度も3千米位で投弾するので後部へ直撃弾の命中が多くなって艦の震動を感じだした。
 数機目かに防空指揮所は直撃を受け、爆弾が炸裂し強烈な爆風が吹き、我々1番機銃に爆風で飛んだ破片や、戦友の腕や足などがバラバラと降ってきて、長時間にわたる連続射撃で灼熱している統身にくっついて焼けるので取り除いては射撃を続けた。
 上部艦橋2発目の直撃で羅針艦橋上で第2、3番機銃の指揮をとっておられた鈴政少尉は即死されていた。
 第2波の交戦で敵機が遠ざかり出した時、第2番機銃の石原政人上水が「班長班長、鈴政少尉が戦死されました」と大声で叫ぶので、防弾綱をつたって機銃台に上って見ると艦橋作戦室前で既に戦死されており、「あご部」の直撃が致命傷であった。
 直ぐに遺体を作戦室に収容した。その時持っておられた懐中時計のみが「コチコチ」と時をきざんでいたのが印象に残っている。
 鈴政少尉は海軍兵学校特修科学生を優等で卒業され、その時の恩賜の時計であった。第3波交戦の際、艦橋作戦室などの火災によって鈴政少尉の遺品は焼き去られていた。
 第3波の敵襲に備え、弾薬の補給「射ち空薬きょう」の処理を終え敵襲に備えた。
 1330ごろ三たび来襲した敵機は約100機3波攻撃を開始した。第2波は高度3千米位で爆弾、ロケット弾を投下していた敵機も、第3波では高度を下げ2千米位で投下してきた。
 その数機目かに、急降下した敵機の爆弾が右舷最上甲板(第1カッター収容甲板)を貫き3番高角砲側に命中、大轟音とせん光と強烈なショックを受けた。
 爆風で飛んだ破片が1番機銃旋回手須崎保兵曹の睾丸を打ち砕いて「ひん死」の重傷、施回手を石原上水に交代、また射手の三浦勲兵曹は左上腕部を貫通した。
 止血帯で腕をしばりつけ、三浦兵曹に交代をすすめたが「大丈夫です射ち続けます」と持場をはなれようとはしなかった。
 続いて砲側2番員の榎哲郎上水が敵機の投下したロケット弾の破片が胸部を直撃転倒した。見ると「拳大の大きさ」の破片がささり出血多量であった。直ぐに救急袋から止血帯を取り出して当てた。
「班長、水を、水を」と求めるので、戦給品で配給になっていたサィダーを口に当てるとすぐに息を引取った。
 突然、左舷2番高角砲(1番機銃左後方5米〜4米下方の位置)側の応急弾薬庫が直撃を受け数十発の砲弾が大音響とともに爆発し真赤な火柱が艦橋を包んで燃え上った。  その爆風で私は機銃台に押しつけられ倒れたが直ぐに立ち上って交戦した。揚弾機から弾薬補給をやっていた藤田上水の姿が見えない。ふと背後を見るとさっきの爆発で全身火傷して即死。
 敵機は入れ替り立ち替り急降下爆撃を行なう。敵機が500米前方で火を吹き真赤な玉になって海中に落ちる。「やった撃墜だ」思はず射手の三浦兵曹の背をたたいた。
 敵機の急降下する前方に弾幕を張ったせいか艦橋前部には1発の直撃弾も受けていない。直撃弾は後部に集中しているらしく艦が前後に揺れ激しい衝撃を受け艦を持ち上げるようだ。
 最後の1機が正面0度から高角を60度位で急降下をはじめた。射手の三浦兵曹に「射て」の合図に肩を強くたたくと、一斉射、敵機の前方に弾幕を張った。
 敵機をもさるもの2千米位で投下した。肉眼でよく見える。命中するな、と思った瞬間、艦首の菊の御紋章に命中、大音響とともに艦が前後に動揺した。
 一方、艦橋の火勢はつのるばかりで羅針艦橋からも火を吹く、ふと2番機銃台を見ると、安井範行上水が火焔に包まれているではないか、「おーい、ここへ向って飛び降りろ」と 胸を指したが降りてこない。
 艦橋はまたたく間に火に包まれてしまい、2、3群機銃の応急弾薬がドンドンと音をたてて爆発する。手のっけようがない。艦橋各階の重軽傷者は「火だるま」となって張りヤードから海え飛び込む者が続出した。
 海へ飛び降りた数名の者は一週間位して対岸の大浦波多見海岸に打ち上げられ、これを収容した。
 また艦橋にいた者で、無傷の者は防弾綱を解き垂らして、降りんとしたが火勢が烈しい為、上甲板、高角砲台に飛び降りようとするので、彼等に向って「この胸の上に飛べ」と機銃台から両手を拡げ胸を張って叫んだが、声が届かず空しく多数の死者を出した。  敵機は去り戦闘が終ったせいか、急に腰背部に激痛を感じだしたので手を当てて見ると出血して上衣は血に染っていた。
 しかし、次の交戦に備え石原、榊原両上水に「弾薬」の補給と「射ち空薬きょう」の処理を頼んで、ひん死の重傷の須崎兵曹を背負って中甲板第一戦時治療室に運んだ。
 見ると治療室は負傷者と死者で一ぱい、「ウーンウーン」と痛みを訴える者、静かに眼をとじている者、様々で治療を待っていた。
 看護科先任下士官野津兵曹は部下をよく指示され「てきぱき」と治療に当っておられたのが印象に残っている。そこで野津兵曹に「須崎兵曹をお願いします」と祈るようにして須崎兵曹と別れた。
 須崎兵曹と別れて以来消息不明であったが、後日呉病院で死亡されたと聞いた。
 既に戦死者は数十名となりの兵員浴室に収容安置されていた。引返して戦死者の収容と機銃手入れをすませて対空見張を続けていると、上甲板2番砲塔のところから軍医長近藤少佐が「戦闘は終った降りてこい」と叫ばれ、そこで上級指揮官は艦橋におられないことをはじめて知った。
 我れに返り腰背部の痛みを感じるので治療室に赴き、軍医中尉の応急治療を受けた結果、「腰背部砲弾盲管破片創」と診断され、即日呉海軍病院に入院を命ぜられた。

 第一群機銃員の氏名と状況
  一群指揮官 鈴政少尉  戦死
  一群従動照準器長 黒永上曹  腰背部砲弾盲管破片創
  射手 三浦一曹  左上腕部貫通
  一番機銃長 須崎二曹  ひん死重傷、呉病院で死亡
  銃員 藤田上水 戦死
  銃員 榎上水 戦死
  二番機銃長 大久保二曹
  銃員 石原上水
  銃員 安井上水  戦死
  三番機銃長 島田水兵長  爆風傷
  銃員 榊原上水
  銃員 前原上水

 その日1800呉海軍病院に入院した。ところが他の艦船部隊の重傷患者が数百人入院加療を受けており、私は7月25日呉海軍病院賀茂分院に転院を命ぜられ、軽傷患者約3百人の輸送隊長となって午前中に分院に入院した。
 午後軍医官の治療を受け腰背部などに入っていた破片50数個の摘出を受けた。軽傷患者であるところから7月27日、日向乗組員3名とともに退院帰艦した。
 帰艦して見ると上甲板は海水が洗っており、水平のままで着底していた。この戦闘で敵機13機撃墜したと呉地方復員局の資料に記されている。

 7月28日の空襲

 掃艦して戦闘配置についてみると、1群機銃は生存者で整備され、即戦闘可能な状態であった。
 28日早朝「戦闘配置につけ」が令され「配置につく」。再度、敵艦載機が来襲、豊後水道方向から来た敵機は「灰ケ峰」上空4千米位を大編隊で呉軍港上空に達し、戦艦伊勢、榛名、巡洋艦青葉、利根、大淀などに急降下するのが遠望された。
 しかし、数機が日向に向っては上空を旋回するのみで攻撃をしかけて来ない。敵機も日向は既に着底浸水しており戦意なしと見たのか1千米位で旋回偵察するので小癩なとばかり、1番2番機銃がその敵機に一連射した。命中せず敵機は去った。
 更に艦載機に続いてB29の大編隊が呉港を襲った。他の在港艦船なども日向と同じ運命をたどった。
 それから元気な生存者は情島に幕舎を建築し、そこに居住して毎日日向に通った。そのころから情島山頂に高角砲台が据付けられることになり、毎日、高角砲分隊を中心に作業が続けられたが、据付けが終らずして終戦となった。

 8月15日終戦を迎えたのは呉鎮守府前広場であった。当時、日向乗組員の履歴表の複製のため毎日各分隊から派遣され、呉鎮守府地下防空壕で複製していた。
 終戦を聞き直ぐ帰艦し転勤準備を指示されたので、身廻り整理、残務処理員を残して8月17日午後、情島・松本別荘前に整列して指示を受け、各短艇に乗艇した。
 思えば日向生活は4年6ケ月余、悲しみも苦しみも一緒にした戦友と別れ、艦は見る影もない傷だらけ、菊の御紋章もない。
 前艦橋は火災で赤茶け、その上、艦は着底し、甲板は海水で洗われ、軍艦旗は既になく、静かな日向を一周して呉海兵団へと向った。
 音戸の瀬戸を通る頃、とめどもなく涙がこぼれ敗戦の痛さに胸をうたれた。

 米軍進駐

 呉海兵団から復員したのは8月28日であった。昭和20年10月16日、広島県巡査を拝命し、呉警察署警備課渉外係を担当していた。
 米軍の進駐は、米第6軍第10軍団は軍司令部を呉鎮守府内に置き、10月6日、呉市広湾に上陸した。総員約2万人で約3千人が安芸郡海田地区に進駐した。
 最初に着手したのが戦犯の追及であった。当然ながら呉空襲で撃墜された米飛行士の捕虜問題で追及は特に厳しかった。
 私は「呼び出し係」であったので、第一に当時の呉憲兵隊長ら16、7人が米軍憲兵隊(呉警察署内2階)に呼び出され追及された。
 終戦まで呉海兵団などに収容されていた捕虜は、呉沖海空戦で撃墜された米飛行士45人と記憶している。ということは45機以上が撃墜されたことになる。
 GHQに提出された書類には広島県安芸郡倉橋島町室尾に落下傘で降りた米飛行士が、警察の報告では「生きていたので呉憲兵隊に引渡した」とあるのに、呉憲兵隊の資料には「受領したときすでに死亡」していたと食い違い、それから連日関係者が呼ばれ徹底的に調べられた。
 元憲兵隊員で調べ官に「けん銃」で顔面を殴られるものもいた。室尾駐在所警察官が渡した時「確かに生きていた」という証言が多くあり、当時の元憲兵隊員数人が「捕虜虐待」で東京米軍軍事法廷へ護送された。
 また護送される途中、車中から飛び降り逃走する者も数名いた。その度に米進駐軍から日本警察に対し厳しい達しが出された。

 日向戦没者慰霊祭

 遺体は情島の海岸で焼かれ、分骨は相当に残ったので、情島の畑に埋められた。戦後、週4、5回は戦死者の夢を見てうなされるので、「なんとかしなければいかん」と思い呉市内にいた生存者14人に呼びかけ、昭和27年7月24日の命日に委員長玉木英太郎氏で呉長迫海軍墓地において第1回慰霊祭を行った。
 講和発効前の慰霊祭とあって「米軍CIC」に私は呼び出され、「お前は軍国主義を復活する気なのか、しかも警察官じゃないか」と一日中しぼられ釈放された。




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