「伏龍」特攻隊と戦艦「日向」の戦闘

                                    石井 康

一、日向に着任の頃
 私は昭和20年1月20日、戸塚の海軍軍医学校を経て呉海軍病院付になり、軍医中尉として勤務した。
 私が日向に乗艦すゐようになったのは、「伏龍隊」訓練の一環として、軍医としての研究及び、隊員の健康管理のため、呉海軍病院長福井中将の命冷による軍事上の極秘行動であった。
 私は、日夜激動の勤務の傍らハワイ真珠湾に突入した九軍神の特殊潜航艇「蛟竜」の基地(大浦崎の海軍第八十二嵐部隊)、江田島の兵学校、人間魚雷「回天」の打ち合わせ会(イ号潜水艦より一端発進したが最後、脱出不能の一人乗り人間魚雷の隊員には、万一敵艦に命中出来ず、散々の苦しみの死を待つのみになった際には、呉病特製の水溶性青酸カリ2ml入り茶褐色のアンブルが支給され、これを噛砕いて死になさいという壮烈なものでした)等に出張勤務した。
 幾多の海戦で艦艇を失い艦を動かす油さえ無くなった哀れな残存艦隊(潜水艦を除く)は、敵機の空爆を避けるため各地の軍港に分散係留され、呉には十七隻が集結し、戦艦大和はこれら各艦の油を集めて、沖縄の決戦場に片道出撃した。
 出港前夜呉病に最後の別れを告げに来た戦友東郷軍医中尉は、艦と共に戦死した。
 呉軍港に浮んだ大和の巨大な威容は、私の脳裏から去らないが、大艦巨砲主義の戦略的には古い考えの遺物でもあった。
 人間魚雷回天の大業も、すぐれた敵の電探によってイ号潜水艦が次々に撃沈され、思うような戦果を挙げられないうちに、敵は本土上陸作戦を指向した。
 制海権を失った海軍に残された戦場は、本土海岸線だけとなり、仲の悪い陸軍から、もはや海軍ではないのだから、陸軍の指揮下に入れとの言動も起りつつあった。
 その頃、海軍最後の特攻兵器として、若手の仕官より考案されたのが呉においては「伏龍隊」という特攻人間爆雷であった。
 日向に行けば分るよ。非常に大切な任務だからしっかりやり給えと福井病院長に言われ、呉軍港より迎えの内火艇に乗って音戸の瀬戸をとおり、呉沖、「情島」に係留されていた日向に着任した。

二、人間爆雷「伏龍隊」とは

 昭和20年3月19日、第1回呉軍港空襲で戦艦「伊勢」「日向」「榛名」、重巡「青葉」「利根」、軽巡「大淀」「北上」のほか空母「天城」「葛城」「阿蘇」「龍鳳」、練習艦「出雲」「八雲」「磐手」、標的艦「摂津」などが大破炎上し、空母「龍鳳」だけが無傷に残り、後に復員船に使用された。
 私はこれこそハワイ真珠湾の米国のお返しだなと思った。
「日向」は、第1回呉軍港空襲で命中弾1発、至近弾多数を受けて37人戦死、重傷52人を出した後、呉の離れ小島・情(なさけ)島に保留されていた。
「日向」は大正7年竣工、昭和11年第1次、昭和18年第2次改装で、世界でも類を見ない航空戦艦に変貌していた。
 日向の飛行甲板の機銃がフフンス製なのには驚いた。世界に冠たる帝国海軍も少々あやしいものでした。
 艦内には、大小3つの手術場、ポータブルレントゲン、歯科診療室、床屋まであり、多数の医薬品及び一流病院に劣らぬ手術器具を有り余るほど搭載し、艦内入院室には特攻隊員の病人も収容していた。
 当時呉軍港に在泊の艦船はP23偵察機の目を逃れるため、思い思いの迷彩をし、俗にいう「菰被」(こもかぶり)をしていた。
 日向のマストには松の木が立ちスダレ状の大きな木片を被ぶせてあった(このカモフラージュ作業は大変なものでしたが、敵のすぐれた深知機によって鉄の船形ははっきり確認されておりました)
 早速担当士官より示されたのが図の様な兵器及び作戦であった。

   「伏龍」図

 敵軍上陸予想地に蛸壺を掘りそこにかくれ、敵艦が近ずいたらこの兵器を着用して、海の底を歩いて敵艦の下から浮上し、弱い艦底を爆破撃沈することで、訓練は、松本貴族院議員の別荘の裏手の湾で開始され、学徒出陣の士官及ぴ予科練出身の少年達が隊員で、隊長は日向乗り組み当時、技術少佐 福井静雄氏であった。
 海底の自由行動を確保するために、サルベージに使う潜水服から送風管をはずし、背には500cc入り酸素ポンベ2木を背負い、腰のパルブを通して服内に酸素を送り服内に充満する炭酸ガスは、服内に内臓したアルカリセルローズのフィルターで吸収させた。
 当時吾国の潜水艦には艦内温度上昇をすくなくするために、今日使用されているケイ光灯を装備し、艦内に発生した炭酸ガスを除去するために、床にアルカリセルローズをまいたので、これにヒントを得て潜水服内に応用した。
 バルブコックの繰作は仲なか難かしいもので、酸素を送りすぎて浮上横転して、アルカリセルロース液で熱傷を負う者、送気不足でチアノーゼになって仮死状態になって沈む者、訓練は必ずしもうまく行かなかった。
 一人が自爆すれば強烈な水圧で、付近の水中に潜む隊員のほとんどを犬死にさせる結果を招きかねない無謀な攻撃法だった。
 本当、にもっと深い海の底を長時間歩いて、敵に発見されぬために、排気の気泡を立てないで、敵艦に近づくことが出来るのだろうか、私は疑問視した。
 50年振りに再会した特攻長平山氏は、米軍の本土上陸作戦で、この特攻も事前に発見されれば猛爆にあい、先ず成功はないと思ったが、軍の命令では致し方ない無謀な攻撃法だと思ったと告白した。

三、呉空襲 「日向」最後の日

 7月24日、運命の日はやってきた。朝7時頃から日没まで、四国沖の第7艦隊発進のグラマン艦載機の3波にわたる延べ260機の攻撃を浴びた。
 敵機の300k爆弾の爆弾投下、ロケット砲弾の炸裂、水平攻撃が艦を襲い着底大破し、 第3波の攻撃で艦首の「菊の御紋章」に命中し、その所だけぽっかり穴が開いたのは皮肉でした。
 戦闘能力を失ったにも拘らず敵は執拗に波状攻撃をかけてきました。38糎の主砲は緒戦に電気回路を破壊され、無用の長物となり近代兵器の弱点を暴露した。
「日向」には「大和」の生存者が多数乗艦していたが、日向の戦闘の烈しさは、大和の戦闘など問題にならぬ程ひどいものだと聞いた。
 これは着底して不沈艦になったためと、応戦をするものですから、敵から執拗に攻撃される破目になったのです。
 勇敢なのは日本兵ばかりと信じていましたが、応射の雨の中に突っ込んでくるグラマンの急降下爆撃は敵ながら天晴勇敢なもので、英知ある人間がどうして殺し合わねぱならないのか自問自答した。
 乙種航海乗員1200余名中、戦死159人、重軽傷600余名でした。
 軍医は軍医少佐の近藤隆造先生と私の2人だけで、私は艦内で最も安全とされていた露天甲板より3階下の戦時治療室を担当していた。
 隣の小手術室に侵入爆発した爆風で厚いハッチは破れ、私どもは空中に投げ飛ばされ、全身に熱風を浴びた。
 懐中電灯も透過できぬ爆煙の暗闇から、かろうじて露見甲板に脱出し、両国の仕掛け花火など問題にならぬ壮絶な17.5粍高角砲、25mm3連装機銃、ヒョロヒョロ打ち上げ花火のような小型ロケット砲の応射音、
 日露戦争海戦の戦争画そっくりの、はずれ弾の水柱、敵の顔が見えるまで急降下してくる300k爆弾の黒い形を頭上に見ては、もう駄目かと部下としっかり抱き合って2番砲塔の下でナムアミダブツと合唱して死との対決から精神的に回避した。
 草川淳艦長(少将)は、一波の一機目投下の爆弾が艦橋に命中炸裂した破片で全身から血を噴き戦死し、2波で4番高角砲側の応急弾薬庫が直撃を受けて百数十発の砲弾が爆発し、艦橋は下からものすごい炎と共に燃えあがり、脱出路を断たれた人々が苦し紛れに海に飛び込もうとして、途中の甲板か防潜網に頭を打ち付けて死ぬものが続出しても助ける術もなく、艦橋の機銃は中国の爆竹みたいに火炎の熱で辺りかまわず炸裂しだした時は、味方の流れ弾でやられるぞと生きた心地はなかった。
 上陸用舟艇で重傷者を呉病に移送後、私は再ぴ艦上の人となり、満潮でひたひた甲板をたたく海水の音を聞きながら、敗北の悲しい一夜をすごすことになった。
 7月25日惰島海岸で戦死者の茶毘が行われることになった。誰も嫌がって指揮する者がないので、軍医の私が受持つはめになり、艦長は黄色の将官旗に包み一体、永島大尉一体、他は三人づつ一組にして島の生木を積上げ艦の重油を注いで火を放った。
 其の間、敵機の機銃掃射が襲い、島の崖にイモリの様にへばりついたことを思い出す。
 それでも伏龍隊の訓練は続行され、8月6日午前8時15分、特攻隊員の診療中、突然、広島方面より広、呉工廠のB29の絨毯爆撃音より大きく長い、インインたる大爆発音が聞こえてきた。

四、広島原爆と終戦

これこそ誰しも想像のつかなかった原子爆弾の爆発音なのであった。
「ピカドン」が落とされたのだ(ピカッと光った後に爆発音がしたので)。
 原爆投下の午前8時15分頃は、私が大竹の潜水学校に出張を命ぜられている、列車の広島通過時刻に近く、中止になって被爆の難をまぬがれた。
 広鳥の陸軍は全滅し、生き残りの連絡将校2人が午後、呉病に救援依頼に来た。呉病院の士官室で被爆の状況と救援の依頼を受け、宇垣中尉を班長に、病院の第1便のバスで夕刻、広島に向かった。勿論鉄道は不通であった。
 当時外泊で、午後、呉病に行った私は同乗することになった。
 広島駅より二つ手前の海田市街道に到着した時、午前の爆発から約9時間も経っているのに、ボロボロの裸同然の熱傷を負った悲惨な被爆者の行列が延々と続いていた。
 バスを降りて船越町の妻の実家に到着した時、知人の被爆者が難を逃がれていた。 近所の開業医と共に近隣の人々にも応急の手当てを施こすことになった。
 情島に陸揚された艦の大型短波受信機(当時でもロンドンの放送を傍受することが出来た)のスピーカーから、ピカドンこそ米国の原子爆弾で、「日本の皆さん早く降服しないと第二の原爆投下があり,日本は全滅しますよ」と繰り返ししたにもかかわらず、第二の悲劇は長崎に起こった。
 もう少し日本政府の「ポツダム宣言」の受託が早ければ、長崎の悲劇は避けられたわけである。
 短波は、ポツダム宣言、日本の敗戦処理交渉を遂次伝えて来た。それでも知らされざる国民は竹槍で、伏龍隊員は死を覚悟して、本土決織に邁進していたのであった。
 8月15日、大竹の潜水学校に伏龍隊兵器の打合せに出張、昼食時、ポツダム宣言受諾の玉員放送を聞き、戦の終りを知った。

五、「特攻」について

 17,8歳から20歳代の人々が、そこに到るまでの精神的教育の背景は論外にして,最愛の肉親への恩愛を断ち切り,愛する祖国,父母兄弟姉妹の幸運を願って出撃即,死の攻撃に参加され,又参加せんとしたのが特別攻撃隊で「特攻」と称された。
 出口におかれた自由記述ノートには,「遺書や戦闘機,人間魚雷等を見て、なんて無駄なことを行ったのだろうか、と思いました。
 私と同じくらいの年で死んでいった兵士達は本当に『お国のため』と思って死んだのでしょうか。もっとやりたい事もあったと思います。
 今イラク問題が揺れています。石油を輸入しているから兵力を出すのでなく「金で返す」という事だって立派な援助になります……」(N氏)。
「前文のN殿。貴方はなんという考えを持った人問ですか。人間魚雷や遺書を見て,『なんて無駄なことを』とは何事ですか。
 自国を守るため敢然として死地に赴いた人に対してなんという言葉ですか。貴方は大東亜戦争がどうして起きたのか知っていますか。
 いじめられても、ただ相手のいう通りおとなしく我慢していればよいのですね。国のために死ぬ事は日本人だけでなく、現在でもどこの国でも見られて来たのです」(Y氏)。

 現在の平和,言論信仰の自由の下でのN氏Y氏の考えはそれなりに意味があるが,お国のために戦死すれば、九段の靖国神社に祭られ神様となり、一家の誉であると国家権力に悪用される靖国神社であってはならない。




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