「呉市街地空襲について」

                                       中塩寛治

1、呉市街地空襲

 あの頃、私は旧制中学校(呉市立工業学校生)で学徒動員中(広11空廠)だった。さらに、昭和20年4月、海軍飛行予科練に合格、入隊待ちでもあった。
 その空廠も昭和20年5月5日、B29延べ130機による爆撃(1t爆弾)で、ほぼ壊滅し、変わりはてた工場の残骸、熱風、くすぶりつづける焼け跡にただ呆然となった。
 近くを2人の女子挺身隊の人が体を震わせ、泣きじゃくりながら通っていく、この事態でも、まだ祖国敗戦など夢想だにしなかった。
 その後の呉市街の焼夷弾による攻撃の折には、旧本通15丁目に居住していた。
 深夜だった。ダダダ…と腹がえぐられるような不気味なひびき。和庄方面が一瞬パッと明るくなった。
   避難経路図
 さらに、旧14丁目付近に落下した弾の炸裂が花火のように飛び散る。次々の波状攻撃の中、14丁目付近の横穴式防空壕に駆けこんだ。
 と、誰かが「上が燃えているぞ、近くが」との声に、とっさに、兄と壕を出て、長迫方面へと走った。
 その間、はるか前方に、呉港中学校が燃えているのが見える。近くで、長迫小学校がメリメリと燃えているのをすぐ右側に見ながら、左に迂回して、無意識に山中へ、山中へと歩を進めていた。
 ふと周囲を見ると、15,6人の集団になっていた。小中学生、中高年の男女、その他、海軍の兵隊さんも居られた。
 中には、片方の靴をはいていない人、下半身フンドシ姿でズボンをつけていない人も居られた。(後で、夜明けに地域の人に中古のズボンをもらっていた)
 その間、焼夷弾は山の中へも容赦なく落ちだした。頭上、真上から、真っ赤な火の粉になって落下してくる。
 やがて、ダダ…バサバサと、来る山中も危険そのものだった。崖から誰かが落ちた。私達もお互いに助け合い、励ましあいながら、山中へ、山中へと歩を進めていた。
 ある時、私の耳もとすれすれに、サイレンのような音がする、やがて、足元でダダバサバサ、ダダバサバサとのめりこむようだ。下方は田んぼのように思えた。バサバサの音は前日は雨だったかもしれない。
 あの耳もとの音は弾の通過のうなりだった。紙一重だった。上空のB29の爆音が不気味だった。執拗な攻撃や炸裂音の中で、集団内に居られた兵隊さんが、「ここに居たら死ぬぞ、(B29の旋回方向と)反対側斜面に出ろ(弾の落下角度から安全)」と叫ばれた。
 必死になって反対側へ反対側へと移動した。その間にも、埋まっている、羽の付いた大型の焼夷弾と目の前でばったりと出くわした。
 中に焼夷弾がぎっしりと詰まっている不発弾だ。私はただボーとなって、それを見つめ、スレスレに体をかわした。前後で不発弾の爆発音が思い出したようにする。
 やがて、夜も明けだし、全てがおさまりだした。下方を見ると、阿賀の町々が見える。火災の所もあった。
 私らは、こうして今を生きている。この喜びが、兄ともども内からこみ上げて来る。
 どこかで「もう日本も駄目かのー」との、つぶやきが聞こえてくる。「また今後、皆と一緒に助け合って頑張りましょうやのー」の声もする。
 呉市街における空襲は、山中にあっても種々な苦難やドラマがありました。

2、空襲前の生活について

 空襲前の住居は、旧本通15丁目103番地(中塩は旧家のため代々呉市に居住)
 当時は、旧制中学2年生で(東畑高等小学校1年を経て入学)、その頃から振り返ってみると、小学校その他、地域には朝鮮の人がよく見られた。
 一部のものが学校や通行人(年配者女子)に聞き出した朝鮮語で口汚く罵倒するものも居た。
 中には、小学校で人柄、勉強、スポーツすべてトップで、カン君カン君と先生や皆に慕われていた。また(高小)いつも喧嘩がトップで皆に恐れられ、持ち上げられていた。
 全体的には見下げられていたが、人間的に尊敬されている事例も見られた。
 また、当時は防火演習や避難訓練があった。(隣組による主婦のバケツ、ハタキでの注水訓練や大会等)

3、警防団による防空壕の点検

 私の家では、軒下に畳をはぐと芋釜があった。スクモが入っている穴を壕にしたいと、点検を受け許可された。
 また、横穴壕の入り口が家の傍だったり、高小の時には校舎の真下に壕が造られ避難訓練をしていた。
 当時は、安易で無知だったのであろうか、現実の空襲では何の役にも立たなかった。睡眠時には靴や衣類を枕元に置いて寝たが、服だけ着るのがやっとだった。
 家のすぐ前が横穴式防空壕の入り口だったため、多くの被害が出た事例もある。(和庄地区)また、避難の途中や壕内では、ただボーとなって、思考や体、足がフワリ、フワリと浮くようで、本能的な惰性になりやすかった。
 本土決戦云々の頃も差し迫った恐怖はなかった。勝敗よりも、目的は靖国の神(戦死)、この覚悟が優先していた。
 小学生から予科練合格時にも、日本で生まれてよかった、日本人でよかった等の思いがあった。

4、軍人との交流について

 学徒動員中(広11空廠)の横穴工場(今の長浜海岸)の頃である。はるか前方に戦艦日向がいた。
 昼休みに、小高い丘からいつもこの日向を目にしていた。ふとした事で、この日向の兵隊さんとの出会いがあり、(作業に来られていた)語ったり、海軍体操をしたりの日々が楽しかった。
 現場で兵隊や若者が、がなっていた歌に「腰のバンドにしがみつき、連れていきゃんせ何処までも、連れて行くのはやすけれど、女乗せないいくさ船」
 ある雨の日、なかなか来られないので、待ち続けていた。やがて、オーイ、オーイと両手をそろえ前にし、小走りで登ってこられた。
 雨なので、私がいないと思ったがふと望遠鏡で見たら君の足が見えたんだ。すまん、すまんだった。
 自分が海軍に志願したのは、あの勇壮な募集ポスターにつられたんだ。また、この世で怖いものがない、命が惜しくないからねー、ユーモアたっぷりだった。
 こうして語っているのが一番楽しかったとも言ってくださった。
 やがて、あの日向も、私らの眼前で、3月19日、艦載機の攻撃を受け、一瞬水煙や煙で見えなくなったり、現れたりで、その頃からあの兵隊さんも見られなくなった。
 今も長迫町の海軍墓地に時々訪れ、当時をしのんだり、誓ったりする。要するに、時代の流れに翻弄され、いかに冷厳な世界であっても庶民の一日一日の営みはこつこつと逞しかった。
 やりくりしていた人間味やユーモアもあった。兵隊さんを含め現場の人々と通じあえる本音の世界、声なき声は昔も今も変わっていないと思う。
 私らは、この様々な体験や事例を今からの糧にしたい。私は敗戦後、学校に復学したが、あれほど戦意高揚を叫ばれていた多くの先生方が、敗戦と同時にコロリと変わり、民主主義云々とされていた。
 今の子どもさん達に言いたいことは、誰でも自己保身に翻弄されやすいし、現実では主観は転倒しやすい。
 従って、個々が持って生まれた個性を、現実の過程を糧とし、実践により確かなものにしなさい。
 軸の確立、中心が定まれば、道理や正しさが見えてくるでしょう。




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