呉市街地の空襲

                                      吉原忠司

 呉空襲の記憶と言っても、断片的な記憶しかない。

1、呉市街地の空襲

 何時何分か全く記憶にない。警戒警報発令の声で起きたか、ゆすり起こされたか、度々の警報で予行演習はできている。すぐに道路に掘ってある防空壕に避難した。
 しばらくたって街路樹のバカギ(ニセアカシア)の下で「きれいなの一」と、感心していると「なに言いよるんね!! 内(うち・私)の家が燃えよるのに」と近所のおばさんに怒鳴られた。
 でも真っ赤な空ヘマッチの軸のようなのが規則正しく落ちる様は見事であったとしか言いようがない。
 それからしばらくして「内の家に燃え移りそうなけん逃げんさい」といわれて、両城トンネル(JR)の近くの防空壕に、12歳の姉に手を引かれ、10歳の姉と3人で退避した。
 退避場所が防空壕の入り口のほうか中程か記憶にないけど、後の話では壕の奥のほうの子供が窒息死したと聞いたような気がする。
 薄明るくなって内の近くまでに帰って魂消た。道路には電線が垂れ下がり隣の家から先は焼け野原だった。
 東側1間半、北側半間位でよく焼けなかったものだ。漆喰壁で北東側の露出した柱は真っ黒に焼け細っていた。
 焼け残ったのはいいけど消火作業で屋根を走り回ったのだろう雨の日はたらい、洗面器、なぺの大合奏だった。
 二河川がどうなっとるか(何かあるとそれとなく二河川に集まっていた)いって見ると、のんびりと夜釣りをしていたのだろう釣り糸と鈴が4・5本潮の引いた川に置き去りにされていた。又、焼夷弾の不発弾もたくさん転がっていた。
 その日だったか翌日だったか覚えにないが、西本通りの電車通で警防団の人か軍の人か、たくさんの大人が集まって、焼夷弾に点火装置をつけて点火し、濡れ筵をかぶせるだけで消えてしまった。
 又これも当日か2・3日たってか定かでないが、電車通を西六をとおり、五番町小をとおり、二河公園へ行ってみると、二河公園には避難した人で足の踏み場もないようだったように思う。
  記憶に残る空襲時の両城の地図

2、戦時中の思い出

 両城小の裏にある公共防空壕の掘削工事中、発破をかけるのが早かったのか、逃げ遅れて沢山の負傷者が担架で運び出されたような記憶がある。
 発破をかける前にサイレンが鳴り、竹矢来で2ヶ所ぐらい爆風よけがあったように思う。
 ある冬の寒い日でした。数人の人と焚き火をしていると、まだ若い海軍の兵隊さんが「ここらで下宿するところはありませんか」と尋ねられました。
すると近所のおばさんが「Yさんのうちならええわい」と私の家を指差されました。
内の家は玄関1坪、4畳、6畳、3畳の狭い家へ、又下宿人が一人増えました。
東北地方の方でしたけれど、若くして親元を離れ嬉しかったようでした。
 一度その人の弁当を見せてもらったけど中身は「大豆飯」でした。まだ「大豆飯」はいい方だ。
 私たちは大豆の油を絞ったせんべいのようなもの(油粕・大豆の皮が口に残りまずかった)米ぬかを炒ったもの、芋の茎の油炒め、又ナンキンの葉や茎の煮物それにナンキンの種の炒ったもの等、いろいろ食べらされた。
 小学校2年の時、教室の戸棚に収められていた青年学校(?)の教練用の木銃で、クラスの悪餓鬼数名で兵隊ゴヅコをしていて、先生に見つかり大説教を食らった。
 今思えば天皇陛下から授かったもので遊ぶとはぐらいの事だったと思う。
 終戦後の授業もまともでなかった。
 習字道具を持ってゆき、習字をするのでなく、戦争関連の言葉・絵は墨で塗りつぶし、両面が戦争に関連ある文・絵であれば糊付けし、張り合わせていた。
 又、印刷された新聞紙のうな大きな紙を貰い、折って切って、折って切って教科書を作った。折りかた切りかたを間違えれば、ぺ一ジの組変えに大騒動をしたように思う。
 終戦後何日か記憶にありませんが、海岸通8丁目あたりに上陸して、呉駅のキャンプ地へ行く途中、連合軍の水陸両用車(?)から人影を見るとチュインガムやチョコレートを投げてくれた。
 大豆油の絞り滓や米ぬかの炒ったものを食べていたので必死で拾いあさった。
 戦時中は夜回りするのに「米英蹴ってもコタツは蹴るな」とか「鬼畜米英」とか教えられてきた。
 路地という路地には塀を作り、門扉も作り施錠して入れないようにしたりして、進駐軍に対していろいろ対策がとられていたけど全然見当違いだったようだ。
 終戦の詔勅、「今日は何か重大な放送があるんじゃげな」。うちにはラジオのあるような裕福な暮らしではなかった。
 近所の家のラジオの前に沢山の人が集まって放送を聞いていたが「ピーピーガーガー」何の放送があったのかわからなかった。
 ただ大人の人たちが周りを気にせずないていたような気がする。
 その前後だったと思う。当時20歳の兄貴は海軍鎮守府勤務だったので、海軍の兵隊さん2・3人集まって内火艇(小型船舶)を盗んで、瀬戸内の小島で徹底抗戦をするといきまいていた。
 終戦後何日たってか、川原石桟橋のほうへ遊びに行ったとき、小銃を肩に担いだ外人を間近に見た。
 桟橋で海軍の兵隊さんと交渉し通船に乗せてもらって、沖の本船で一日あそばせてもらった。
 一般市民は食ぺるものもないというのに、銀シャリに肉の缶詰をたらふく食べさせてもらった。
 その帰り、兵隊たちを甲板に整列させ「貴様たちのようなものが居るから目本海軍は負けたのだ」というようなことを言われていた。通船には沢山の物資が積み込まれていた。



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