「呉空襲と当時の生活風景」

                                 藤川順子

1、呉空襲

 私は1936年、呉の両城に生ま、呉の畑の水源地近くの借家住まいで4年間暮らし、平和な毎日でした。
 家の周りにはお堀があり、何十匹かの鯉を飼っていました。近くには宮があり、そこへ行っては遊んでいたようです。
 また広っぱに無数の赤トンポがいて、トンポを追いかけては遊んでいました。その後、中畑の仙人風呂近くに家を買い、住みました。
 それから第2次世界大戦が始まったようです。父は呉海軍工廠に勤めていました。
 私は吾妻の国民学校に入学して(電車で通学して)(註・?)いました。広島の原爆が落とされた日は、学校の2階に行ったとき、「パッ」と見た光、入道雲が向こうの空に映り、それから真っ黒い煙がたち、火のてが上がりました。
 それから数日後、被爆者たちが呉の町に訪れては亡くなり、その死体にむしろをかけて行く人などがいて、その後(さだかでないが呉の大爆撃があり)(註・日時が逆転?)二重の被害を被ったようです。
 私は夜中に起こされ眠い目を擦りながら着の身着のままに、10分かかる電車通リの防空壕に走りました。
 その時兄と2人でしたが、私の下駄の鼻緒が切れて下駄を探していたら、兄が私の手を離して一人で走って行きました。
 私は一年生でしたが、泣き泣き一人で火の山を裸足で走りました。その時に、私は一人で生きていかねぱならないと決心をしました。
 又壕の中から家を見ながら伯母が「自分の家が今燃えている」と言われたことか印象に残っています。
 それから空襲警報が解除されて、呉の町の焼け野原に、私宅だけが焼けないで残りました。
 それから従兄弟が来て私の家での大家族となり、寝泊りをしました。私の家は幸いに鉛の大破片が屋根を突き抜けて畳の上に突き刺さっていました。
 学校に通学している途中には何度か停電して電車が止まり、学校に着くとすぐに空襲警報となり、家に婦ることが、しぱしばありました。
 その間母は、毎日家の中で押入れに入って家族の命を祈っていた様です。

2、終戦後の生活

 8月15日、国民の中から勝った負けたの大騒ぎとなった。16目以降、米軍の豪州兵が日増しに増えてきた。
 アーミーが呉に上陸して、米軍のジープやトラックなどの往来と電車道両サイドに鉄砲をもって4〜5メートル間隔で立っていて、丁度英国の守衛さんの如くじっと立ったままですが、その前を幼い私はおびえなから頭をさげて通ったことを覚えています。
又、食料などは配給制で両親は子供に並んで買いに行くように命じたので、朝6時頃より並んで、うどん玉買うのにも並ぴました。
 売り出すのは7時30分頃です。8時頃になってすぐ前で本日の量はこれで売り切れましたりとの報を聞き、がっかりして帰り、翌目はもっと早く並ぱなけれぽと思い5時頃に行きました。
 翌日は家族の人数を言って、うどん玉を買うことが出来ました。それから朝食をして登校したのです。
 又、本通にリヤカーを押して調味料の醤油のもと(もろみ)をバケツに2〜3杯買い、持ち帰り、絞って火入れして、塩で味を調え、お醤油を作りました。
 このまま続くと栄養失調症となり(飢え)を迎えることにならないかと言うことで、田舎に帰ることにしました。〈加茂郡豊栄町〉
 農地改革で田畑をとられたのですが、多少残った田畑で、慣れない百姓を家族みんなですることにしました。
 又、たちまちの食量難で、近くの農家から、母の着物を売り、高い値で米を買って食べました。
 呉の家は幸いに借りたい人が出て、家を貸しておりましたが、時々行くたぴに、物が失くなるのに気づき、盗んでは持ち出されていたようです。それが発覚して家を出てもらうようにしたのです。
 又、行きかう途中で、汽車の中にヤミ米を持ったおばちゃんが沢山いて、検査に来られたら、デヅキより下に落としていたようです。
 又、広島近くでは戦災孤児がいっぱいで、おむすぴを食べようとしたら、真っ黒い手で「ちょうだい」「ちょうだい」の連続です。駅構内では、戦災孤児の、靴みがきをして稼いでいる姿も多く見られました。
 田舎の生活も、着るもの、履くものすべてが配給制で、学校、地城でのくじ引きなどで何時も当たらず、中学校2年生まで、真冬の雪の中でも藁ぞうりを履いて学校に行っていました。2里半の道のりを歩いて通いました。
                                以上



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