「戦災も原爆の延長線にある」    奥川 忠 (73才)

 1945年7月1日、呉市街地はB29の爆撃により焦土と化した。
 私は当日、風早と言う呉より東30Kmの所に疎開していたため、爆撃に直接会ったわけではないが、自宅は全焼し、それから先十数年間も生活はくるってしまった。
 両親も健在であったから、被害者の中では幸せであったかもしれないが、当時の私たちの年齢の者でこのような目にあったものは、せいぜい数%ではなかったろうか。
 それを考えると何か私たちの経験は忘れ去られようとしているので一文を書いておきたいと思って筆をとった。

 当時私は13才で、いつ戦争で死ななければならないかは、絶えず考えていたようである。その意味では今イラクにいる人々のようであったかもしれない。
 戦後の復興で経済的には豊かになったかとも言える。しかし13歳と言う青年前期で、学校で、家庭でも重大な障害を受けた者にとっては人生を変えねばならぬ程の事件であったことを誰が理解してくれるだろうか。
 あのB29で自宅が焼けてなかったら、どれだけ平穏な生活が続けられただろうかと思うたびにアメリカに対するいやな感情をどうしても抑えることができなかった。

 最初に疎開したのは先述した風早だった。かれこれ1時間以上かかる汽車にゆられて風早に降りてから40分位歩かねばならなかった。  それからすぐ後、8月6日に広島では原爆が落ちた時は風早駅で待っている時だった。
 少し曇っていたのでピカっと光った時は雷かなと思った具合だった。間もなくB29の爆音が響くと、待避という駅長の号令があり爆音が消える迄かくれていた。
 そのあと学校(現三津田高校)へ行って見ると、広島から30数キロ離れているのに、障子がそのままの形で天から降ってきた。
 あとから原爆と解ったのだが、大爆発とともに障子から何から全部上空へ飛ばされ30数キロも離れている呉まで飛んで来たのだから如何に大災害であったか想像出来る。

 この様な原爆の陰にかくれて、B29によってやられた戦災都市については忘れ去られようとしているが、路頭に迷った少年がいたことを忘れてもらいたくない。

 戦後、呉中心部も復興したが、当時存在したコミュニティは崩壊し、その当時の同級生が集まりたくても、懐かしい町並みがないのでどうもしっくりしない。
 広島の原爆の後の、戦前の姿を再現する様なことを私達は考えている。人情はその土地と共に培われ私達の生活を心強いものにしてくれるに違いない。  その意味で家は建て替えられても、その土地に根づく心は容易に再現できないことをつくづく感じている。

 呉という町は当時海軍の有数の基地であり、特に敗戦直前には、戦況があやしくなりガダルカナルから命からがらで帰還し海軍病院(今の国立病院)へ収容されるため、
呉基地が最短距離であるため海軍の軍艦は多数入港し、町も広島より賑やかであったとは、今は想像出来ないだろう。
 又海軍工廠で働く人が主に大阪から来ていたので、大阪弁は第2の呉言葉であったように思う。
 又私は今の文化ホール(元の市役所)付近に住んでいたが、朝鮮からの労働者が近所の学校跡に住んでいたのを思い出す。勿論この宿舎も焼けてしまった。
 現在の市営駐車場のところは呉会館と言って海軍関係の劇場があり、戦争に協力するわずかな催し物が行われていた。  又国立病院前の現在の幸宿舎は水交社と言って海軍の士官さんのクラブがあり、当時の戦争慰問の芸能人が来ていて、特攻前の一時を若き士官がすごしていた。

 焼け跡に立って見ると呉市中心部が如何に狭いかを知らされる様だった。家が建っているときはもっと広い感じがしたのだが。
 間もなく敗戦がやって来たが、私は呉一中(今の三津田高校)へ行っていたが、それも焼けてしまい、第1番目に行ったのが、今の国際大学の跡地、2番目が横路小学校、3番目が東畑中学校を経て昭和22年(1957年)4月にやっと現・三津田高校の跡地に帰った。
 その間私達家族は、先述した風早から音戸町を経て1950年、5年目にやっと呉へ住居を構えた。
 その間学校も転々家族も同様であるし、食糧難でもあり勉強どころではなかった。
一番勉強しなければならぬ時にこの様な状態だから、同級生でも戦災にあってない人が本当にうらやましかった。
 今イラクの人々を思う時、同じような共感を持つものである。この様な体験をした我々の世代も次第に死んで行き忘れ去られようとしている。
 そして戦争が、如何に弱いものの人生をメチャメチャにするかが看過されようとしていることに、当時の戦災者として是非言っておきたいと感じている次第である。

 次に軍人とのつながりを述べてみると、私の父が軍医で海軍病院(今の国立病院)に勤務していたので、軍医の方とは一緒に寝たりしたこともあり、別の稿で戦争体験を書いてもらっている。(注・石井 康さんの体験記)
 父はガダルカナルから命からがら帰還した人と会っていたが、彼等は軍人と言うよりは仏さんの様であったと言っていた。戦の極限状態では、本当に人間らしくなるのかと不思議に思った。
 又戦局の転換期となったミッドウエーの攻撃でも艦長連中は慌てふためき軍医にどうしたらよいかと相談したと言っていた。
 又海軍病院では現在の女優森光子が若い姿で慰問の写真に写っている(週刊読売1976年3月10日号)

 次にこの戦争をどの様に思っていたかであるが、米国と戦争をするのは大変なことだと思っていた。
 今のブルネイにパレンバンと言う空軍基地があり、これを日本の落下傘部隊が占領し「神の神兵」と言う歌が生まれた。
 そこには豊富な油田があり、これが内地に輸入されれば戦っていけるのではないかと言う、子供じみた考えを持っていたが、その補給線を空軍で守れるかと言う所まで知恵がまわらなかった。
 しかし日本軍が負けるのではないかと実感したのは呉空襲の直前にB29が呉上空を飛んでいて日本の高射砲が全然違う方向に撃っていたのを見て、これは負けるのではないかと思った。
 私たちの中学生の勉強は1年の2学期までで、それからは動員、戦災につづき終戦後の混乱で高校卒業までに殆ど勉強らしい勉強は出来なかった。

 中国や朝鮮に対する差別意識はたしかにあり、現在の両国の発展を考えると感慨無量である。
 先日も韓国の青年が外国人の中で日本が一番好きとだと聞いて、本当にありがたいことで、我々の差別意識を乗りこえ、このように好意を持ってくれることに、日本人は応えねばならないと考えている。
 又呉は軍港の関係で中国との往来があったせいか、中国服は着物についで洋服より普及していたとは今の人では想像出来ないだろう。
それ位、韓国北朝鮮・中国は呉と密接な関係にあった。

 最後にこの呉空襲に始まる戦後の混乱を通じて当時13才の少年は何を感じたのかをまとめて言えば、誰も信用できるものはないと言う、世間に対する不信感が根付けられたように思える。



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