「呉市における生活体験記」

                                    守屋 優

 私は、岡山県笠岡市で、昭和8年2月11日に生まれ、父が呉海軍工廠に勤務したため、昭和8年から呉市に住んだ。
(呉1中・現三津田高校の正門にあがる坂の上り口近く)、やがて妹と弟二人が生まれ、祖母と6人家族で生活していた。
 空襲当時は、旧制中学1年生でした。

 小学生の低学年までは、まだ物資が豊富にあり、西本通り6丁目(西6)の電停近くには、パン屋、餅屋もあり、
チョコレートやキャラメルも自由に買えだが、昭和16年に、第二次大戦が始まってからはだんだんと物資が不足してきました。
 隣組は、今よりももっと緊密な連携を保っており、「トントントンからりと隣組、格子を開ければ顔なじみ、回して頂戴回覧版、知らせられたり知らせたり」、という歌まであって、結束を固めていった。
 時々、常会が、各家を回り持ちで開かれていた。議題はいろいろあっただろうが、1番印象に残っているのは、
国債の購入の割り当てがあり、誰がいくら買うという相談であった。なかなか話がまとまらなかったようだった。
 その他防火訓練とか、生活物資の配給のこととか、日常生活に密着した事項が話し合われていたように思う。
 今の自治会とは比較にならないほど緊密な関係にあったのではないだろうか。
 物資の配給は、お米が大人一人、1日に2合5勺と決められていた。ほかに南京とか魚などが配給され、隣組で分配していた。
 まだ子供だったので、詳しいことはよく分からない。すでに両親もいないので、聞くすべもない。
 小学校で、たまに運動靴の配給があったが、1クラスに5〜6足位しかなく、くじ引きをしたが、なかなか自分の番が回ってこず苦労した。
 戦況がだんだん悪化するにつれて、物資が不足しはじめ、母は実家の出身地である五日市の奥の田舎にお米の買い出しに行き、祖母は阿賀大入の知人を頼って、魚の買い出しに行った。
 防火演習もたびたび行われるようになっていった。男性は戦地に行ったり、徴用されて工場に行ったため、婦人が国防婦人会を結成して、もっぱらそれに当たった。
 班ごとに防火水槽を作り、水を満たして、むしろを水につけて火元にかぶせて、上からモップでたたいて、火を消す練習をしたり、竹ヤリで敵を突く訓練がなされていた。
 また、各家の床下に防空壕を掘り、また崖に横穴式の防空壕を掘った。これも、婦人と子供の仕事であった。
 つるはしの先端がちびるので、それを焼入れして、たたいて尖ぎらすのは、職人さんが、かかりきりで行っていた。こうした勤労奉仕を子供も駆り出されて行っていた。
 軍需工廠にはたくさんの徴用工が集められ、二河公園に宿舎が建てられて収容されていた。そのため、呉市の人口は膨れ上がり、一時40万人を超えたのではないだろうか。
 呉の町は、海軍の軍人であふれ、中通りなどは、大変な賑わいであった。呉1中に海軍の兵隊さんが駐屯しており、松茸と砂糖を交換してもらったこともあった。
 また、海軍潜水学校(現在・海上保安大学になっている)を見学させてもらったこともあった。
 第5号潜水艇、第6号潜水艇が、校庭に展示されており、6号艇には、佐久間艇長をはじめ、各員の座席に名入りの木札が下げてあった。
 家の床下防空壕には、お米と缶詰などを保管していた。
 この戦争については、日本は神国なので、最後には必ず勝つという教育を受けていたので、子供のことなので、単純にそう思いこまされていた。
 しかし日に日に戦況が悪化してくるにつれ、ただ事ではないと思っていた。
 学校では軍国主義教育が徹底しており、「欲しがりません勝つまでは」とか、「鬼畜米英撃滅」といった標語のポスターを書かされたり、
 国民学校(小学校)でも軍隊調で、道で先生にあったら、必ず不動の姿勢をとり、軍隊式の敬礼をするよう指導されていた。
 7月1日に、近くの柔道の道場に、月謝5円を持って入門した。柔道着は当時手に入らないので、友人のお兄さんのを借りていった。
 その夜中、時間を覚えていないが、警戒警報のサイレンがなり、すぐ空襲警報が鳴ったので、慌てて飛び起きて身支度をして、すぐ下の弟を背負った。
 母は、末弟を背負い、急いで、両城トンネルに駆け込んだ。西本通りの家は、隣まで建物疎開で壊されることになっていたので、3条1丁目にある、叔母の家に一時避難していたからであった。
 トンネルの入り口から外を見ると、市内は一面火の海、真っ赤に燃えていた。しかし不思議に、自分の家が、燃えているという感じはしなかった。
 その時、海軍の軍人が入り口から、中に向かって大声で、「皆ここから出ていって、消火活動に当たれ。今それをしないと戦争に負けてしまう。」と叫んでいたが、誰も怖くて出ていく者はいなかった。
 灰ヶ峰の頂上に、高射砲陣地があったが、そこからの砲声は一切なかった。
 撃ってもB29までは届かず、上空で砲弾が破裂して裂片が落下すると、避難している市民を傷つけるからであった。
 この空襲で、戦争の恐ろしさが骨身にしみた。体がブルブルと震えて止まらなかった。幸い家族に死傷者は出なかった。
 火災は、両城踏み切りの北側で鎮火したので、トンネルに避難した人はみな無事であったが、
翌日、警戒警報が鳴ると、慌ててトンネルに駆け込んだ老夫婦が、列車にひかれて亡くなるという惨事が起こった。
 空襲警報でないと、列車は止まらないからであった。誰か早く注意してあげればと残念であった。
 7月2日に我が家に行ってみたが、もちろん全焼で、焼夷弾の筒が5・6本突き刺さっていた。飼っていた緋鯉が池の中で煮溶けてドロドロになっていた。
 そのほかガラス瓶が溶けて固まっていたり、瀬戸物のカケラが散乱していた。
 この町内に住んでいた人たちは、最初は横穴防空壕に入ったそうだが、このままでは危ないというので、壕から出て二河川に入り、上流へと逃げたということであった。
 ただ、老婦人がひとり、皆については行けないというので、壕の1番奥でうずくまり、タオルに水を浸たして口を覆い、朝まで我慢していて助かったとのことであった。
 この町内の人は無事に避難して、死傷者は出なかったが、東側の山の手の人たちは、防空壕の中で蒸し焼きになって、多くの人が亡くなったとのことだが、現場を見ていないので詳しいことは分からない。
 この空襲を受ける前から、米軍の艦載機がたびたび飛来し、宣伝ビラを投下していた。 軍艦何々の上にかぶせてある、ネットに差してある松の葉が、枯れているので、新しいのととり換えなさいと、人をばかにしたような文面があった。
 戦争については、子供心にも、こんなに大きな被害を受けて、日本軍は何の反撃もできないようでは、もうだめではないかと感じていた。
 7月2日には、炊き出しがされており、おにぎりをもらったが、何しろ暑い日のことでもあり、糸を引いていた。
 焼け跡はそのままにして、叔母の家からすぐ、祖母たちが疎開している田舎へ家族全員が引き上げた。
 学校も全焼したので、やむなく田舎の小学校・国民学校高等科1年に編入したので、また来呉するまでの呉市の状況は分からないが、海軍が焼け跡に木造のバラックを立ててくれていた。
 終戦の日は夏休みで、家に居たが、天皇陛下の放送を聞いた大人から、敗戦を聞き、ついに来るべきものがきたなと思った。
 日本は米軍に占領され、日本人は皆、奴隷にされるのだというデマが流れ、暗澹たる気持ちにさせられた。
 終戦後、父は復員してきて、暫くは一緒にいたが、生活のため帰呉して、叔母の家に下宿して、建築会社に就職していたが、工廠時代の上司に会い、工廠の跡地で操業していた造船所に転職させてもらった。
 しかし、米軍からの指令で、新造船の建造は許されず、もっぱら船の修繕だけの仕事で、経営は苦しく、給料の遅配や分割払いなどで、家計も苦しかったようだ。
 呉市全体が失業やインフレで病んでいた。職についているだけでも、幸いな方であった。 アメリカから、工廠跡地に進出してきたNBCという会社は、日本でタンカーをどんどん建造して莫大な利益を上げていた。そこに勤める日本人は、一般より高い給与を得ていた。
 終戦後、黒人のアメリカ兵が最初に、広駅前の広場にテントを張って駐留した。その後、白人兵、英連邦軍兵、すなわちインド兵、オーストラリア兵が進駐してきたが、それらは仲が悪く、よく喧嘩をし、MPが、ジープで飛んできていた。
 自分も帰呉して元の学校に復学したが、戦災で全焼していたので、広の町田にあった大きな倉庫を改修して授業を行っていた。
 軍隊から復員してきた人も復学し、ずいぶん年齢の高い人もいた。
 とにかく物資が全て不足していたので教科書も新聞紙のような大きな紙に、印刷したものが配られ、それを各自が切って製本して使っていた。
 またノートもないので、印刷された不要の紙をもらって、その裏を使っていた。
 靴もないので、復員してきた父が持ち帰った軍靴を貰らって履いていた。中には、地下足袋を履いてくる生徒もいるといった状態だった。
 オルガンもピアノもないので、音楽の先生はヴァイオリンを弾いて授業をしておられた。
 今の子供たちに伝えたいことは、とにかく戦争はすべきでないということである。
 戦争は全ての物を破壊し尽くす。人の命も物も、人の心も、全てのものが無になり、後には何も残らないということである。
 戦争は勝った方も負けた方にも、何の利益ももたらさない。このことをよく理解して生きていってほしいということである。



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