「呉市史を正すー呉空襲時の吉浦地区の被害と体験」

                               中田文芳(中田テーラー)

一、呉市史を正す

 呉市史第5巻(および広島県戦災誌)によれば、昭和二十(一九四五)年七月一〜二日の呉空襲時の吉浦地区の被害は、「七戸焼失」と記載(山中恵「吉浦町空襲の記録」を引用)されている。
 また、「呉空襲記」(中国新聞社)では、「十三軒とも、十七から二十軒だったともいう。調査はそれらの家の確認も取れないまま現在に至っている。」と記載されている。
 私が記憶を辿りながら、個別調査をすると、これらは誤りで、次のように確認できました。
 吉浦地区の空襲の事実を正確に記録し、後世に記録を残しておきたいと思います。

吉浦地区の空襲被害調査   被災地図

被災地区 (現・吉浦中町三丁目、吉浦東本町三丁目および四丁目)

家屋 全焼 十六戸(川原、鎌井、大年、大年、梅中、中留、大本、橋本、渡辺、
            尾崎、青井、池辺、石原、中田、高橋、楠木)
   半焼  三戸(吉田、山中、棚田)
 合計   十九戸(二十一世帯)
 (其の内、私の同級生で罹災したのは、全焼が男五、女二、半焼が男一、計八軒)

人員 死者  二名(大年・女、鎌井・娘)
   負傷者 四名(梶山・女、鎌井・女、中留・女、吉田・女)
   罹災者 合計 九十二名。

二、呉(吉浦)空襲の体験

 七月一日夜、呉の方の空を見たら真っ赤に見え、呉が空襲を受け焼夷弾で爆撃されて大変なことになっていた。
 親が早く防空壕に避難するように云い、防空壕に着いたと同時に照明弾が落とされるや否や、十三kgもある大きな焼夷弾が落とされ、大きな音がして破裂、爆風が来て、一目散に穴の中に逃げ込みました。姉兄弟三人だけでした。
 両親が来てないので、心細い思いで大変心配している時、 母は、お父さんのおかげで命拾いしたと防空壕に逃げてきました。
 父が家で、母が前の日貰ってきた給料を水屋の中に入れたと思い探していたら、早く出てと急がされて、裏から出たと同時に、雨が降って来たのかと思ったら、焼夷弾が落ちてきたそうです。
 僕は十二歳の子どもでしたので吉浦が焼けているのを防空壕から出て見ることは出来ませんでした。
 六つ上の兄が、焼けている家を見てくると家に帰りました。
 焼夷弾が二発も落ちて、家はアッと言う間に丸焼けになっている、と言って防空壕に帰ってきました。
 朝、帰って見ると、家は焼け落ちていて、ビックリしました。炊事場と便所だけが残っていました。
 家は大きく土間が広かったので疎開の為、呉にいた姉が荷馬車二台、四軒分の荷物を預かっていましたが、跡形もなく奇麗に焼けていました。
 親爆弾が空中で破裂せず、落ちて炸裂したのか、屋敷跡に二ヶ所、大きな穴が開いていました。
 家のすぐ近くの平林川の橋の袂にも大きな穴が開き(直径一m〜二m)親爆弾が直撃していました。少し東側の畑には、六角形をした筒の、子爆弾が沢山刺さっていました。
 この空襲は、B29一機分の流れ弾が、私の家の少し下辺りを中心に、平林川と大川を挟む直径五十mと百m位の楕円形の中に落とされ、
空中で破裂しなかった親爆弾も数発あり、その内の二発が我が家に直撃して爆発し、瞬時に家を全焼させたようです。
 当時、町内で皆さんは、なぜこんな所を空襲するのか理由がわからず、少し上方五十mの所にある変電所を狙ったのではないかと言っていました。
 この空襲での死傷者六名は、全員が女性で、アメリカ軍の非人道的な無差別爆撃の、気まぐれな、とばっちりを受けた不運を思い、
全国で同じように被災し、その後の人生の不幸を背負った人たちの無念さに胸を痛めます。

 空襲後、ウサギと鶏を飼っていたが姿が見えんといわれ、可哀相なことだと思いました。
 今日からどこにも住む家が無くなり、途方に呉れているとき、梅林さんがむすびを持ってきてくださり、有難く食べたのを今でも忘れることが出来ません。
 近くの小林さんの蔵の2階にきて住みなさいといわれ、住むことが出来ました。
 蔵の半分は、味噌の原料の材料の大豆と麦が疎開して有りました。
 その半分の空いているところに、同じ焼け出された鎌井さんが住まれることになりました。鎌井さんは娘さんを焼死され、お母さんも顔と手にやけどされ、兄弟三人で住んでいました。
 七月二日の焼けた日、親戚のおじさんが来てフトンを上げるからと、松葉の親戚の家に母と二人で貰いに行きましたが、お嫁さんが出てこられ。、何しに来たかといわれて、さびしい思いで帰ったのを今でも覚えています。

 七月二十四日の朝六時ごろから十二時ごろまで、八百七十機の艦載機が来襲しました。
 其の時、小林勝美さんが家の縁側で配給のタバコを分けて居ました。艦載機から人が見えたのか、機銃掃射してきました。
 八畳の間で、障子に穴を開けて小林光春(十二才)君は新聞紙で兜に折った帽子をかぶって見ていました。
 本人は無事でしたが、この時、鎌井 清ちゃん(十三才)は、屋根に機銃掃射した弾丸が、顔の前から頭の後ろまで突き抜けて、真っ白い脳みそが出て、即死したと聞きました。
 後で小林光春君は新聞の帽子が一命を救うて呉れたと、家の裏に流れていた川で、血で染まった畳を川につけて洗い流していましたが、一週間ぐらい真っ赤な血が流れていました。この付近の山中さんちにも機銃掃射が有ったそうです。
 この日、僕は防空壕に避難していました。防空壕の上で木に登ってみている人がいて、艦載機が機銃掃射した弾が、頭の上でブスブスと音を立て、生きた心地がしませんでした。

三、戦時中の生活の記憶

 一年の入学の時は尋常小学校と尋常高等科と女子は実業補習学校でしたが、昭和十六年三月から国民学校に変りました。初等科六年、高等科二年、特修科一年と変わりました。
 昭和十五年十一月九日、紀元二千六百年奉祝が有りましたが、小学校の裏門の近くに御真影が奉移して有りました。
 朝礼が毎日有り、国旗を君が代にあわせて掲揚棒に揚げていました。記念日は教頭先導で校長先生が教育勅語をささげ上げ、厳粛な学校の儀式が有りました。式が済み次第帰れたのを思い出します。
 昭和十六年十二月六日、朝、学校に行って戦争が始まったのを知ったのを覚えて居ます。  昭和十七年頃から物は段々と無くなり、配給制度に成り、食べるものがなくなったので、着物と食べる物と換えたりしました。
 先生も国防色の国民服に変わりつつ有り、先生の中にも召集が有り、出征されるのを見送りました。出征され戦死された先生も有りました。
 この頃になると銃後の守りも益々きびしい日々になって来ました。先生も長髪でしたが少しずつ男の先生は坊主頭になり、朝学校に行くと青い坊主頭で恥ずかしそうにしておられました。
 正門を入った学校の横に土俵があり、高等科の男子が風呂井先生と、フンドシをして相撲を元気よく、大きな声を出して取っていました。
 満州義勇軍の壮行式があり、三人が頭に日の丸のはちまきをして朝礼の時、父兄と生徒一同の前で元気よく、勇ましく行ってきますと送り出しました。
 六年生の加藤先生の時、三時間目に塩豆をさかづき一杯ずつ皆に配り、昼に家に帰って食べるようにということでした。四時間目が始まって、先生が豆を食べたものは皆立てと言われましたが、僕一人が教室に豆を置いていたので食べていませんでした。
その頃には、昼の弁当を盗まれて食べられている者がありました。
 六年生のとき、学校に白兎と白いアンゴラウサギを飼っていましたが、夜に野犬に襲われて皆殺されていたのを覚えて居ます。
 その頃に、細谷さんの所からと野兎と思うのですが、茶色に鼻筋の所が白くかわいらしい兎を二円で買ってきて、子供を生ませて増やしていました。
 この頃には食べるものが無いので、山根君、吉田君が農家でしたので、仔兎とサツマイモを、小さな竹かご一杯と換えてもらうことが出来、親に喜んでもらった思い出が有ります。
 もう一人、江草君に、映写機と子供の兎が出来たら交換する約束をして、先に映写機をもらい、家で写して喜んで見た覚えが有ります。
 其のうち兎を渡そうと思っていた所、お父さんの仕事のことで、郷里に急に帰り、渡すことが出来ず、ずっと交換できなかったことを悪い事と忘れませんでした。
 このウサギのことがあり、どうしても探して会いたいと思い三軒ほど、いろいろと聞きに歩き、三軒目にようやく住所が福山倉光と判り、ハガキを送りました。

四、やり直し修学旅行と同期会

 私たちが吉浦国民学校を卒業したのは昭和二十(一九四五)年三月でした。
 当時は戦況が著しく不利で、私たち六年の時から修学旅行がなくなり、楽しみにしていた修学旅行に行くことが出来ず卒業し、まもなく敗戦を迎えました。
 戦後の混乱期を生き抜いてきた私たちも還暦を迎える年になり、同期会の開催を呼びかけ、遅ればせながら、やり直しの修学旅行を計画しました。

 昭和四十七年四月十五日、同期会の幹事に成り、同期会を吉浦の元文化ホールの二階で開催し、男先生五人と女先生四人と男子三十七名、女子二十九名きてもらう事が出来ました。
 六年の時に、八組の受持の先生でした赤坂先生が、二十代校長として来られ大変喜ばれました。十三代土肥校長先生も次男さんが同級生だったので、一緒に呼ぶことにしました。
 土肥校長先生は、同期会に呼ばれたのは初めてだと大変喜ばれました。
 前の日、電話が有り、ハガキを見たが今は広島の会社にいて明日逢えるので喜んでいるとのこと、宴たけなわの時、江草さんと逢い、二人共涙して抱き合いました。
 会が終わった後、家に来てもらい、朝まで色々話し、兎のことを詫び、江草君も覚えていました。
 平成四年三月十五日、還暦を迎えるのを期して四十年ぶりに「やり直し修学旅行」を行い、安芸グランドホテルに於いて一泊して旧交を温める日になりました。
 男先生二名、女先生二名、男子二十九名、女子三十七名、この日は吉浦の駅前から一緒に十二時に出発しましたが、この日は呉ポートピアパークの開園の日で車がつかえて四時過ぎに着き、受付が遅れ、大変忙しかったです。
 四十七年振りの修学旅行になり、六年生になった気分に成り、子供の時の名前で、ちゃんで呼び合い、還暦ですので赤いタオルを首に掛けて記念写真を撮りましたが、肩を抱き合って皆んな楽しい宴会に成りました。
 あくる日には宮島に渡り、還暦のお祓いをしてもらって、昼に宮島で食事をして、宮島港からクルージング船で宇品港に帰り解散しました。
 よき思いでになり六年生が終わった気分でした。

 呉空襲で吉浦でも爆弾を落され、色々と苦しく困ったことが有りました。
 この事を皆さんに伝え、後世に語り継いでいただきたく、六十年前の、十二才で六年の時を思い出しながら書きました。




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