「呉空襲の体験」

信太サカヱ体験絵                信太(しだ)サカヱ

 当時、私は八幡国民小学校の5年生でした。家は和庄通り4丁目で、高日神社の少し下にありました。
 私の記憶の中では、当日昼間の空襲がなかったように思います。梅雨もまだあけきらず、むし暑い夜でした。
 今のように、冷房設備もなく、おまけにいつでも逃げることができるような服装で、枕元に防空頭巾を置いて寝るので、なかなか暑苦しくて大変でした。
 やっと眠りについた頃、「サアちゃん!早よう起きんさい!逃げる用意をしんさいよ。」母の大きな声で目が覚めました。
 すぐに防空頭巾をかぶって外に出ました。空からキラキラ光るもの(照明弾)がたくさん舞い降りて、まるで真昼のように、そこら中の景色が浮かび上がっておりました。
 その中をB29から次々に焼夷弾が落とされてきます。その音はヒューン、ドッカン。まるでたくさんの雷が一度に落ちたように響きわたっておりました。
 母は、「父ちゃんと家が燃えたら、消さんといけんから、一緒に火を消してから逃げるけ、あんたらは、(当時中学1年生の兄)兄ちゃんと日高神社の横穴防空壕入って待つときんさい。さあ、早う用意しんさいと、二人を押出しました。
 私達はただ夢中で、壕の中へ入りました。もう沢山の人が不安そうな表情でじっとしゃがんで居りました。誰も沈黙ままでした。
 多分、下の町内の方からも避難されてきたのでしょう。顔も知らない人たちがほとんどでした。壕の中で一つだけ懐中電灯の灯りが見えて、後は真っ暗だったのが印象に残っております。
 あまり大きな壕ではありませんが、やがて大勢の避難者でいっぱいになりました。しゃがんでいた人達も満員電車に乗った時みたいに、立って、皆が入れるように奥へ詰めていきました。
 空襲もだんだん激しくなり、次々に落下する爆弾の衝撃で、壕の中にも、雷のような音が響き渡り、まるで地震のように揺れていました。
 そのうち壕の周りの家にも、攻撃を受け燃えだしたその煙が、壕の中にも焦げた臭と一緒に入り始めました。
 壕の入口に立っていた男の人の声で、「ここは駄目じゃ。皆、山へ行けえ、その方がええで。」と叫ばれました。
 私も兄も壕の中から、押しつぶされそうになりながら、やっと外に出ました。周りの家は真っ赤なし火に包まれて、パチパチ音を立てて、勢いよく燃えておりました。
 降りかかる火の粉を浴びながら、ただ一生懸命、大勢の人たちの後から必死の思いでついていき歩きました。
 それはそれはもう言葉にもならないくらいの恐怖でした。どの人も声が出なかったのか、私に声聞こえなかったのか、話し声は覚えておりません。
 坂道をドンドン上って、やっと現在の法輪寺の横につながる道路に出ました。
 そこはすぐ上が山になって一番安全な場所でした。そこにも身動きのできない位の人が溢れておりました。丁度そこは呉の市街が一望できる場所です。
 B29からの攻撃は、まだまだ続いて居りました。爆弾が落下するたびに、パッと火の粉が舞い上がり、そこら中大きな炎に包まれる様子が、手に取りように見えました。
 皆一様に並んで、真っ赤に燃えながら、次々と崩れてゆく呉の街を放心したように眺めておりました。子どもだった私達は時計もなく、どれ位の時間が経過したのか。判明はして居りません。
 やがて激しい空襲も終わり、夜が明けて、周りが見え始めた頃、やっと人々の声が聞こえるようになりました。
 「もう日本も終わりじゃのう。わしら、どうすりゃええんかのう。」とか、身内の安否を気遣う声が、あちらこちらで話し合っているのが、見られるようになりました。
 空襲が終わり、火の勢いもだいぶ落ち着いた呉の街は、一面霞がかかったようになり、所どころまだ黒い煙が立ち昇ぼり、炎が上がって、残った電柱がくすぶりながら、半分折れたりしたのが立っておりました。。
 大きなコンクリートの建物は中が黒く焦げて、少し崩れないで立っていたと思います。辺り一面、本当に何もない焼野が原になりました。
そして何とも言えない異様な臭気が漂って、場所によっては鼻や口をふさぎながら、通り過ぎる位でした。
 どの人も、髪が乱れ、顔も煤け、中には服が焦げている人も居りました。また裸足で泥んこに塗れ、目玉だけが異様に光っている人もありました。
 皆、火のなかを必死にれてこられたのでしょう。荷物などを持っている人は、殆ど見かけませんでした。
 日が高く昇り、辺りが明るくなるにつれて、下の町内から、戦災を逃れて、こちらへどんどん人が上ってこられて、まるでお祭りのような混雑振りで、中には泣き叫んで家族を探している人もありました。
 しばらく人々の様子を眺めていた私達も、やっと我に返って、急に父や母のことが心配になってきました。
 兄と二人であちらこちら歩き回っては似た人が通れば、顔を見たりして確かめました。 しかしどうしても見つけることが出来ないので、不安な気持ちでいっぱいになり、泣きべそをかき、立ち止まりました。
 兄と二人で「どうする。どこへ行ったらええんかね。町内会長さんのとこへ行こう。」と会長さんが、居られる場所へ行くと、父も母も私達を探すために尋ねて行たっところでした。本当に嬉しかったです。
 母は、「ああ、えかったね。」と涙をこぼしながら、頭を何遍も何遍も撫でてくれました。
 父も母も髪の毛がすこし焦げて、母はチリチリに舞い上がって居りました。顔も煤で黒くなって居り、父の服もところどころ火の粉で穴が開いて居りました。
 父と母は、家の消火をするためにバケツで体に水をかぶって火を消していたそうですが。爆弾が、次々落ちて途中で危険だと気づき、掛け布団を水で濡らして、二人で頭にかぶり、火を避けて逃げてきたそうです。
 荷物は持ちだせず、少しのお金と、預金通帳を風呂敷で包み、腰に巻いて逃げました。それと、濡れた布団1枚、消火用に使ったバケツだけ持って居りました。
 周りの人達も段々落ち着きを取り戻し、下の高日神社の境内へ集まりました。そして近所の人々の無事を確かめ合ったり、逃げるときの話等をしました。
 そのうち、下の町内で、壕の中で煙に巻かれて亡くなられた人。逃げる途中で爆弾にやられて亡くなった人の遺体が次々運ばれ、境内を殆ど埋め尽くしました。
私は子供心に恐怖心も忘れ、何か珍しい物を見るように、皆と眺めていたように思います。そのうち母が、「ここは、あんたらが見るもんじゃないよ。」といって、呼びにきました。  そのうち胸につけた名札で、身元確認をして、またどこかへ運ばれたようです。八幡国民学校の校庭で、沢山の遺体が焼かれました。
 また、大きな赤十字の旗を持った医師や看護婦の方が見えて、火傷など負傷された人たちの手当をされました。
 そのうち昼が過ぎても、皆、食べ物がなく、ただボンヤリと力つきたように、地面に座って居りました。
 大分時間も経った頃、炊き出しの「おにぎり」がもらえると知らせが来ました。場所は二河公園で、何か入れ物を持って取りに来るようにと言われたそうです。
 皆何もないので、父が消火に使用したバケツに竹竿をさして、近所の男の人と担いで「おにぎり」を貰いに行きました。
 まだ火の消えていない道路で、火傷や怪我などしないように気を使って持ってきたようです。
 「おにぎり」は一人一っ個で、少し大きかった事、中に梅干しが一つ入っていた事を覚えています。
 その日は食べ物がそれだけだったように思います。でも皆黙って我慢したらしいです。次の日は、朝、昼、夕方に1個ずつでも三回食べられたから、皆で話し合って、貰いに行ったのかもしれません。
 それから夜になっても私達の家族は、親戚が近くにないので、四、五日の間、和庄の山でゴザを敷いて(テントがありません)木の根元で野宿をしました。
 この後に、父が海軍工廠に勤務して居りましたので、その関係で、当分、天応に工員の宿舎(バラック)が空いているので貸して頂だけることになりました。
 四道路から、幌もないガタガタのトラックに、沢山の人達と揺られながら乗っていきました。それは暑い暑い日でした。
 私は悲しくて、泣きながらトラックに乗せられた記憶が今でもはっきり胸の中にあります。
 それから先も多くの苦しみがあり、やっと現在に至って次第です。思い出しているとだんだん胸が苦しくなって文がまとまりません。
 楽しい思い出と異なった精神状態になるのでしょうか、本当の私の気持ちがまだ伝わって居りません。


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