「戦争は最大の人権侵害ーー家族と家を焼かれてーー」

                            中下量人

1、一夜にして焦土と化した呉市

 私の家は七人家族でしたが、兄は昭和十九年春に高等小学校率業と同時に広島下祇園の三菱工作所に入杜、工廠や民家への呉空襲が激しくなった昭和二十年のはじめに、当時九歳だったすぐ下の弟が、下宿していた人の兵庫県揖保郡の里へ縁故疎開しました。
 私は十三歳で小学校を卒業し、四月、男子高等小学校へ入学しましたが、姉は海軍施設部へ、父は富国徴兵保険会社へ勤務していました。
 昭和二十年七月一日夜中に空襲警報、間もなく警戒警報でひと安心した時、また空襲警報が鳴りはじめました。
 その時既に、アメリカ軍の飛行機・B29の爆音がウーウーウーと不気味に遠くから聞こえてきました。
 私がとっさに家の芋壷に入ろうとした時父は、「そこは危ない、家の畑に避難せよ」と告げたので、私達家族四人(母・姉・弟)が玄関先に出たところ、雨が降り出したので傘を取りに引き返しました。
 外へ出ると雨は止んでいましたが、濡れた所がぬるぬるしていたので油だと思いました。
 家を出て畑の方へ急ぎましたが、山の麓は一面火の海でした。やむなく後戻りして和庄市場近く(八幡町)の石垣の横穴防空壕に避難することにしましたが、途中B29の翼が一bくらいに見える低空から油脂焼夷弾を投下され、命からがら防空壕にたどり着きました。
 入口は徴用工員でいっばいだったので、壕のすぐ前の二bくらいのどぶ川に入ってコンクリートの蓋があるところに避難していました。
 姉が、六ヶ所ある横穴のうち、一番下のに入れると告げたので、私は頭にかぶって移動中に、どぶ川に落として、ずぶぬれになった夏布団を持って、やっとの思いで家族が防空壕に入ることができました。
 入口は避難者でいっぱいでしたが、奥の方は空いていたので、母に奥の方に行こうと言いましたが、三才の弟を背負っていたため母は入口にいたままでした。

2、布団で生き地獄から命拾い

 聞もなく防空壕の中は煙が充満し、周囲は女・子供の悲痛な叫びと化しました。
 私と姉はもう駄目かと思いましたが、どぶ川に落とした夏布団に口を当てて苦しさを凌ぎました。
 二・三十分も経つと布団は乾ききってしまい、その頃になると、もう周囲の悲鳴もなくなり、私の膝に女・子供が横たわっていました。
 姉と二人、朦朧としながら壕の突き当たりまで追って行って、顔を地べたにつけたまま、うつ伏せになったまでは覚えていますが、その後の意識はありませんでした。
 午前四時頃でしょうか、誰か大声で「元気な者はおらんかー」とおらぶ声が夢の中で聞こえてくるようでした。
 気がつくと、消防団員に防空壕の外に運び出されていました。辺りを見ると、三百人とも思われる死体の山でした。
 姉と私は、母と弟を探しました。母は見つかりましたが、弟は、母が背負っていたはずの弟は、見当たりませんでした。
 母に弟のことを尋ねると、母は煙を吸ったせいか声が出ず、手真似で「苦しくて背負い紐を外したのでは」と涙を流しました。
 私達は弟を探しましたが見当たらず、死体を連れ帰ることも許されないと言われ、三人で畝原町の伯母の家で過ごすとになりました。  旧呉市内は殆ど家が焼かれ、山の麓に残っているだけで、もちろん私の家もありませんでした。
 私は父が元気でいれば伯母の家に来ることを信じて、毎日探し歩きました。その間、親子の焼死体や、電柱が焼けてトランスの下敷きになっている姿を見るなど、子供ながら戦争の悲惨さを強く感じました。
 呉空襲から一週間目に、母が呼吸困難となって亡くなりました。その後も父の消息はないまま十日過ぎた頃、近所の青木のおじさんから、
父は町内の家の消火に当たるために、家にある手押しポンプを二人で持ち出していたが、火の回りが早く、おじさんは石垣を上って山に逃げた。父らはその石垣の防空壕に避難し、そこで窒息死したと聞かされました。

 私達姉弟は、この呉空襲で両親と弟の三人を失い、姉弟はそれぞれ親戚に引き取られて暮らしていましたが、二ヵ月くらいして、姉弟四人が貧しいながらも一緒に暮らそうと、畝原町で家を借りて生活することになりました。

 振り返ってみると、戦争は罪のない国民を殺し、幸せを奪うなど、人権侵害の最大の暴力は戦争です。
 二度と戦争をしないと、世界に誇れる日本国憲法を守るのが政府でなくてはなりません。
 しかし、今また、戦争をする国に変える「有事法制」を制定し、「国を守る」と称してアメリカの引き起こす正義もない戦争に協力しています。
 国民を犠牲にする憲法改悪や有事法制など、戦争推進政策は絶対に許せません。


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