「呉戦災体験記」

                           蔵下一士

はじめに
60年前といえば、6才で荒神小学生1年生の子どもだったため、記憶は断片的で系統だって記述できないことをお断りしておく。

1、戦火を逃げのびる
 人生の中でも、最も恐ろしく忘れ難い出来事である。
1945(昭和20)年7月1日の夜、いつものように夕食を食べて寝ていた。夜半に、警戒警報が鳴った。
母の言葉を借りると、いつものように「芋つぼ」に私を連れて入ったと言うことだ。たいていの場合、それきりで解除になることが多かった。
その時はどうしたことか、近所の人のけたたましく甲高い声が暗闇を破る。「くらしたさーん、早く出なさーい」
当時自宅は、蔵本通14丁目18番地にあった。現在でも、あの時と同じ道が通っている。車が2台ゆったりと通れるくらいの広い通りだ。
急を伝える声にせかされて出る。芋つぼから土間へ、土間から玄関を通り抜け、門を潜って通りに出る。
注意深い人であれば、また、一定の年齢に達していれば、周囲の様子を見てとる余裕があったことだろう。
おそらく、和庄方面は、焼夷弾攻撃を受けて、燃え上がっていたことだろう。
当時は、敵の攻撃に備えて、方々に防空壕が掘りぬかれていた。通りに出た後、荒神小学校の西側の道を上がり、郷町の山本の別荘のある小山の南斜面下の防空壕へ逃げ込む。
これで助かったと安堵していると、外の方が急に明るく防空壕内まで熱くなった。外に出ると、前の家は炎に包まれ、家全体が燃え盛っていた。
不思議なことに、逃げることに必死で、恐怖心は湧いてこなかった。
 次は何処へ避難するのだろう。燃える火の粉を払いのけながら、来た道を少し下り、現在の至心幼稚園下の小道を西に数十メートル進む。
内神の縦道に出る前の小道を右に曲がる。200メートルでも進んだろうか、前述の小山の北斜面に掘り貫かれた防空壕に、また、逃げ込んだ。
今思えば、教育は恐しいものだと痛感する。ほとんどの人が、防空壕に逃げ込めば安全だという神話を信じ込んでいたのだ。
母も、その一人だったのだろう。群集心理から、皆が逃げる方向へついていったのかもしれない。これで安心だと心が落ち着きかけていた矢先に、またまた、近くの家から火の手が上がる。
「みな出ろ」の声にせかされて、防空壕を出る。急坂を上がり切り、左に曲がったところにある家で夜を明かす。
恐怖と睡眠不足から、明るくなっても動き出す気力もなかった。ようやく昼近くになって、東惣付町の母の実家にむかって歩き始めた。
途中通過した西辰川町、東辰川町、畝原町、それに母の実家のある東惣付町は攻撃を受けていなかった。昼過ぎに、実家に到着。
みなが、「よかった、よかった。逃げてくるのが遅かったので、もう諦めかけていたところだ。
「西教寺の大屋根が赤くなって焼け落ちるのを見て、母子は助かるまいと思った。」と祖父が話していた。
「?さんから聞いた話だが、夜中に雨が降ったと思ったが、実は油(ガソリンのことか)だと分かった。それで家がよー燃えたんじゃのー。」
また、「?さんはの、B29が灰が峯の東の方から、よけい飛んできよったわい。和庄の方へたくさん焼夷弾を落としよったわい。」(この二人の人が誰だか。祖父との関係は分からない。)
 その時、荒神小学校1年生だった。その校舎は全焼した。授業が行われなくなった。何日経過したのだろう。辰川小学校で午後の授業を受けることになった。
ほどなく夏休みを迎えた。その日(8月6日)は天気がよく、何処までも青空が広がっていた。にわかに「ピカッ」と閃光がはしり、暫くして「ドーン」という音が静寂を破った。西北方の山の遥か上空にピンク色の雲が立ち上っていた。カメラがあれば、撮影したことだろう。子どもだし、当時カメラを所有している者はほとんど皆無だったろう。
大人たちは、その爆弾を「ピカドン」と呼んでいた。「広島にたいへんな爆弾が落ちたげな。」と話していた。

2、焼けた山小屋を見てパニックに
 秋の収穫時、「やまじ」(灰ケ峯の麓-神山峠下の谷間に広がる水田地帯がかく呼ばれていた。語源は「山地」か)で起こったことを今にも鮮明に覚えています。
当時住んでいた官舎(軍関係者のうち士官の宿舎で、東惣付町には20数軒でもあっただろうか。現在でも数軒は残っている。一戸建てもあり、2軒長屋になったものもあった。)を西に20メートル行くと幅3メートルあまりの舗装道路に出る。
この道は草里町(現在東中央?丁目、長ノ木トンネル西側付近)から畝原町、惣付町を経て神山峠に至るものである。
急坂を上りきり、西惣付町に至る道を左に見おくり、少し上って平坦な道をしばらく行くと、辰川バス終点から西惣付町を貫いて上ってきた道と出合う。
一本になった道を少し行くと、家もまばらとなる。最後の家(今はない)のところで、急坂となる。堰堤を越えた地点で、右に入る小道が伸びている。
祖父母や、義兄姉、母のあとについて歩いていた。小さな流れを越え、急坂を100メートルあまり登りきる。
皆が止まる。そこに農作業小屋があった。それまで、小屋の存在には気付いていなかった。次の瞬間体全体が石化してわっと泣き出した。
あの日、燃え盛る火の中を逃げ回った恐怖の悪夢が蘇ったのだ。そんなことを何度も繰り返していくなかで、徐々に恐怖感は薄らいでいった。
恐怖感の整理には長い時間が必要であったことを付け加えておこう。戦火や地震や津波などに遭遇した人たち(特に子どもたち)が、後遺症で心のケアが必要だと聞くたびに、他人事とは思えない。

3、学校の想い出(辰川小学校)
 8月の夏休みも終わり、朝からの授業になっていた。母が転学の手続きをとったのだろう。辰川小学校の1年生のある組に組み入れられた。
 1年時の教科書のことを記憶している。今に思えば、軍国主義教育を助長したと思われる部分が墨で黒くぬりつぶされていた。ページによっては、ほとんどの全体が黒くなっていることもあった。
 2年時の教科書は、昔の新聞紙のように薄黒いざらざらした紙でできていて、小さな活字がぎっしりと詰っていた。名実ともに、新聞紙のようだった。しかも、鋏を入れて、製本したと記憶している。
 3年時、教科書が配付された。やっと教科書らしきものが配付された。用紙も印刷状況も決してよいとは言えなかったが、それでもまさしく教科書だった。

4、父のこと
1994年7月7日、父は口腔底癌にて死亡。
 退職記念に購入した小型カメラで孫たちを撮り始めた。旅先へでも、そのカメラを持参しては、記念撮影していたようだ。死の数年前は、休みの日には様子伺いのために訪ねていた。
アルバムに貼つけていた写真を剥がしている姿を見かけたこともあった。今思えば、死を覚悟しての写真整理だったのだろう。
そんな父が捨てかねた書類綴じが土地購入の契約書とともに出てきた。父がいかに大切にしていたものかわかった。
今回の手記を書くことで、改めて開いてみた。中には従軍関係書類がある。この記録は父が語ろうとはしなかった空白の数年間を物語ってくれるはずだ。想像も交えて、その空白を埋めてみよう。

4−1、父の綴じ込みー「戦友名簿」
 書類綴じを開くと、大見出しで「戦友名簿其他/陸軍一時恩給裁定通知書」と記されている。つぎに、「戦友名簿」がある。名簿の大きさは、B5判で21ページからなっている。
 「本籍地/現住所/官等/氏名」がガリ版刷りされている。父が配属された第3中隊が組織された時に作成されたものか、南方への出征が決まってから作成されたものか定かではない。いずれにせよ、「官等」の欄が設けられているところから判断すると、戦時中であることは間違いなかろう。
 戦後60年が経過しようとしているのだから、風化が激しくやっと判読可能の状態も仕方ないことだ。残されていただけでもよしとせねばなるまい。
 初めにお断りしておくことがあります。それは、判別しがたいので、読み間違いがあるかもしれないことと、百分率を出すのに四捨五入したために、全体が百%になってないことです。
 戦友名簿に記載された名前は300筆でした。出身県別に見ると、広島県が130人(43%)、山口県が90人(30%)、島根県が40人(13%)、その他の県が25人(8%)、判読不能が1ページ分あって15人(5%)である。

4−2、父の綴じ込みー「履歴書」
 次に「履歴書」について見てみよう。項目の最初の欄に「昭和17年12月1日、第2国民兵役の編入」と記載されている。この時の父の年齢は30才であった。
 第2欄に、「昭和18年3月18日臨時・・・・隊に応召、第3中隊配属」「同年7月15日広島宇品港出発」が続く。
 父から聞いた話。台湾を目指して航行していた3隻の輸送船のうち、最後尾を進んでいた輸送船が魚雷攻撃を受けた。
 前を進む2隻は救助にも向かわず速度をあげて逃走した。戦意高揚の映画を見る限りでは、そのような時には攻撃を免れた船が救助に向かうシーンが映し出された。
 現実は異なっていたし、戦友たちは命拾いして胸を撫で下ろしたと言っていた。
 台湾(昭南港)、東南アジアの諸港を経由して、「昭和19年6月14日ケイ諸島ケイ島ララットに上陸」、
終戦を迎えたあと、「昭和20年12月8日ララット出発」「ケイ諸島ウ゛ロワ到着」「昭和21年ウ゛ロワ島上陸」「昭和21年4月27日ウ゛ロワ島出発、トアル島着」「同年5月29日乗船、30日トアル島出発」「同年6月10日和歌山田辺港着」
 本土に到着してどんなにか嬉しかったことだろう。その後数日して呉に帰着したはずだ。呉駅に降り立つと、焼野原に呆然自失した。
 遠方に大内山(日本酒醸造所)の煙突が見えた。家は焼け落ちてしまったことだろう。妻子は亡くなっているかもしれない。自宅のあったところに行くと、やはり、跡形もなく、バラックが建っていたと言う。
 バラックは、戦災で家を失った人たちのために急ごしらえされた屋根だけと言ってもいいくらいの粗末な家のことで、当時市内のいたるところに建てられていた。
 当時を振り返る母の言葉を借りると、父は北向きで日当たりの悪い家だったので、「焼ければいいのに」とこぼしていたと言う。
後に残された母と子二人は病弱だった。母の話によると、応召前に、妹と私は百日咳にかかり、近くの医院に通院を繰り返していたという。
母のために、蔵の上に今でいう「テラス」を作りかけていた時に、広島へ、続いて戦地に行ったと言う。病弱な3人を残し、テラスを作りかけの状態で故郷を離れて行った時の気持ちは想像に絶するものがあったろう。
 そこ(蔵本通り14丁目)から、ほど遠くない内神町に長姉が住んでいた。そこを訪ねれば、妻子の消息も分かるだろう。二人が生きていることを知って、姉に連れられて、惣付町の母方の実家に到着。

4−3、父の生還
 父が戦地から戻ってきた時には、惣付町に住み始めて1年経過した頃だった。1日中家の中に閉じこもって生活していた子どもが、田畑や山の広がる環境の中で遊ぶ元気で腕白な子どもに変身していた。
 父がいなかった約3年間に、短い言葉で表現すると、「青びょうたん顔」から「元気いっぱいの日焼け顔」に変身していた。
 そんな訳で、父が惣付町の母の実家に着いた時に、そこいらを駆け回っている子どもたちの中からわが子を見分けることはできなかった。
子どもの一人が「かずっちゃん」(私の名前が一士であることから、そう呼ばれていた。)と呼ばれた子が、やっとわが子だと分かったと言う。
 この時から、父が亡くなるまで50年間生を共にしたことになる。

4−4、父の綴じ込み-「マラリア罹患證明書」
 つぎに、「マラリア罹患證明書」がある。第5師団衛生隊本部発行したものある。
「本籍地・・・、陸軍衛生上等兵蔵下昇、右ノ者は昭和20年4月8日「ケイ」諸島 高「ケイ」島「ラハリン」ニ於テマラリア(三日熱)ニ罹患セシコトヲ證明ス
 昭和21年1月15日」と師団衛生隊長と師団衛生隊醫長の氏名と証明印がある。
 マラリアについての挿話を二つ紹介しよう。
 1)帰郷した父は、ふっくらとしていた。元気な父が時に苦しむことがあった。それはマラリアの発作であった。ついさっきまで全くの異常がないのに、次の瞬間には、がたがた寒気を感じ始めるのだ。夏でも、震えていたのを記憶している。
 そんな折、戦地から持ち帰った「白い粉」を飲んでいた。白い粉はマラリアによく効く「キニーネ」だと教えられた。
 数時間もすると、発作がまるでウソだったかのように治まる。子ども心に、おかしな病気があるものだと驚いたものだ。日本の環境に順化していくにつれて、数年でなおったように記憶している。
 2)戦地でのことは話しづらかったのだろう。多くを語ってくれなかった。そんな父から繰り返し聞かされた話を紹介しよう。
 従軍中に、マラリヤにかかったことがあった。ひどい熱が出て臥せっていた。近くで戦友が「もう蔵下は駄目だ」とささやいているのが聞こえた。
 「なにくそ、こんなところで死ぬわけにはいかない。生きて帰る。妻や子に会うんだ。」と念じ続けたと言う。九死に一生を得た辛い経験だと思われる。
 戦地での辛酸をなめたことが父の「やればできる」の精神を培ったのだろうか。もともと器用な人だったのだろうか。
 たとえば、家を新築したあと、門を入り玄関先、前庭に至るまで鉄平石(?)を敷き詰めたり、ブロック塀を自力で積み上げたりと専門家に聞いては実行した力は何処から来たのだろうか。
 父は、口癖のように、「戦地に行って教えられたことが二つある。一つは喫煙、もう一つは”やればできる”ということだ。」と言っていた。

4−5、父の綴じ込みー「認識證書」
「認識證書」が出てきた。これはいったい何だろうか。「第1976號 認識證書 陸軍衛生上等兵 氏名」で始まっている。
 つぎに、「右の者戦地軍隊二於テ傷者叉病者ノ状態改善に關シ條約ニ依リ専ラ群隊ノ衛生勤務ニ従事シアリタルコトヲ認識證明ス」続いて「昭和20年8月15日 鰹第5191部隊 印」で終わっている。
 昭和20年8月15日とはは太平洋戦争最後の日(終戦の日)だ。だとすると、この證明書は、各兵員の戦争中の任務を証明するもので、占領軍による軍事裁判を用意する基礎調査だったのかもしれない。

4−6、父の綴じ込みー「身分證明書」
 「身分證明書」(昭和21年6月9日調べ:この日は、和歌山県田辺港到着の前日に当たっている)の「健康状況・既往症の欄を見ると、「強健、マラリア」と記されている。上述のように、マラリアにかかっても死なずに済んだことやブロック塀や鉄平石で小道を作ったりしたことも頷ける。

4−7、帰還後の父の仕事
 上述の身分證明書の「入営応召「前職業」欄には「市役所書記」と「希望職業」欄には「農業」と記されている。
 父は農家出身であったこともあり、帰郷後は先祖伝来の、その時点では他人に貸していた土地を返してもらって、農業に専念しようと思っていたのだろう。ところが、終戦後の食糧事情の悪さから、土地返還を迫っても、誰も返してくれなかった。
 土地は返してもらえないし、食糧事情に改善の兆しは見られないし、困った父は、阿賀の畑までサツマイモ作りに出かけて行った。
 父が市役所に勤務していた役得のためか借り受けられたのだろうか。そこは、現在の阿賀北にある原から横路へ抜ける坂道を上がった左側にアパートが建っているところだ。
 当時は、だんだん畑があった。(戦前は、避病院があったと聞いている。)父自作の荷車に「こえたご」2本を積む。「こえたご」は糞尿等を入れるための木製の容器(桶)だ。  こえたごの中には、糞尿を8分目入れるのだ。前を引く父は力仕事を引き受け、後を押す私(当時小学生)は「昔懐かしい匂い」の攻撃を受ける。
 惣付から涼屋まで押し上げる。涼屋から西畑までだらだらと下る。国道に出ると、呉越を越え、阿賀の原で右に折れ、横路に通じる急坂を上りきる。
 避病院は戦災にあったのだろうか。そこいら一帯は山畑と化していた。畑に着くと、父がこえたごを器用に担ぎ上げ、イモ畑にかける。そのままでは濃いので、水に薄めて撒いていた。それでも。2本分の肥はすぐなくなる。
 ひと休みして、帰路に着く。帰路は、往路より登坂部分が多い。荷重がなくなったとはいえ、長道を帰ることを思うと、気が滅入る。借り受けていた畑全体にまくには、2本分では間に合わない。
 翌週も、同じことの繰り返しだ。季節が移り、収穫の時期がやって来る。往路は軽く、帰路は重い。糞尿運びの逆だ。往路に例の臭いがないだけでもましだ。
 父が掘り上げる。大きく実ったイモを詰め込んだ袋を数個運ぶ。夕刻、母が天ぷらに揚げる。蒸かしイモにする。ご飯の上にのせて、一緒に炊いた御飯はおいしい。収穫の喜びを満喫する。
 数年後、畑を貸し与えている人から、土地は返さないが物納すると話が決まったので、阿賀の山畑行きは止めになった。物納の作物は、ジャガイモ、サツマイモ、ダイコンであった。年に3回、その時期になると、日取りが決まっては、物納の収穫物を運んだものだった。
 また、父が帰郷して間もない頃だったろうか、近所の人たちと竹原の方へ「濃塩水」を求めて行ったことを記憶している。当時、生命維持活動に欠かせない「塩分」を主として供給する塩も欠乏していたのか。
 また、現在の光熱のエネルギー源は、「電気」か「ガス」に決まっている。当時は、炊飯や湯沸かしから風呂炊きまで火力によるものだった。
 幸い、二河に一定面積の山林があり、そこへ松を切り出しに行ったものだ。この仕事は相当期間続いた。プロパンガスが復旧する昭和?年

4−8、父の綴じ込みー「身分証明書」
 「引揚証明書」「氏名、生年月日、本籍、で始まっている。次に、住所の欄があって、「引揚前」「トアル島」「引揚後」「本籍地ニ同ジ」「職業」「上等兵」
 次に「右ハ昭和21年6月8日和歌山縣田邊港ニ娘陸セルコトヲ證明ス 厚生省 田邊引揚援護局長 印」
 「給與金品記載欄」の「品目と支給數量」の欄には、「外食券5枚、乾パン1袋、握り飯1食分、生パン1食分、靴下・毛布各1枚」支給者は、すべて田邊引揚援護局となっている。
 乾パンで思い出すことがある。父が母の実家に戻ってきた時に、荷物の中から出てきたものの中に乾パンがあった。
 当時、菓子というものを口にすることなどなかった。父の掌にのった乾パンを食べた。口に入れて噛み砕く。小麦粉の甘さがしみる。なんとうまかったことか。惜しむように食べても僅か数日しかもたなかった。
 この用紙の右側4分の1のところに切り取り線があって、2枚のうち1枚が切り取られている。1枚だけ残されている。
 それは、「應急用味噌醤油特配購入券」である。それには、配給基準量1人當(5日分)味噌30グラム、醤油4勺5」と記されている。
 山畑を返してもらえず、農業を始めるわけにもいかず、已むなく応召前の市役所勤務に戻っていった。昭和24年9月30日付けの「確認書」がある。
 これは、日本共産党やその支持者を公職から追放するための確認書だ。「第26207號」に続いて「確認書」は始まる。
「住所、氏名。生年月日」のあとに、「本文」が続く。「右の者は、その提出した昭和22年勅令第1號(公職に關する就職禁止、退職等に關する勅令)第7條第1項の調査表により審査したところ、
昭和21年1月4日附連合国最高司令官覺書公務従事に適していない者の公職からの除去に關する件に揚ぐる條項に該当する者でない者であることを確認する。」
 日付のあとに、確認責任者「廣島県 楠瀬常猪(当時の県知事名か) 公印」、「備考」に「この確認書は、本人の提出に係る調査表に虚偽の記載があり若しくは事實をかくした記載があったとき、
又は調査表に記載されていない事由に因り覺書に該当する者と認めらるに至ったときは、その効力がないものとす。」と記されて確認書は終わっている。
 確認書右下の空欄に「確認書交付年月日 24.11.28 広島県総務部地方課」と朱印が押されている。

4−9、父の綴じ込みー「裁定通知書」
 最後に残った書類は、「裁定通知書」である。「現住所、氏名」に始まって、「総理府恩給局長とその印」「下記のとおり恩給法により給する。」
          裁定年月日:昭和52年10月24日
           恩給種別:陸軍一時恩給
           番  号:第465066号
           給與金額:15、150円
          支給郵便局:辰川郵便局
備考が三項目ついているが省略します。。
 父が貼りつけたメモ風の紙を見ると、給金を受け取ったのは、昭和52年12月1日となっている。西暦で言えば、1977年に当たっている。
 あと2年もすると30年経過することになる。現在のお金に換算するといくらになるのだろうか。その年には、私の年齢は35才だ。およそ10年前に就職していた。初任給が、14600円だったことを忘れていない。
 父の戦地で過ごしたことに対する一時恩給は、15、150円だ。大学での初任給の1ケ月分にしか当たらない。昭和52年の大学卒の初任給は、バブル期で急上昇していたはずだから、父の一時恩給は大学卒の初任給よりも少なかったかもしれない。
 何ということか。3年3ケ月もの間従軍していて、家族と離れた生活を余儀なくされ、娘に先立たれ、持ち家まで焼かれるとは何たることか。
 酒好きな父が深酒をした時などに時折、「わしが死んでいたら、お前らの人生は変わっていたろう」とこぼしていた。私も若い頃は、父のこの言葉に反発して口答えしていたものだ。
 静かに考えると、大学へは行かれなかったことだろう。高等学校卒業後は、就職して病弱な母を経済的に支援する必要があったろう。父の言葉の深い意味が胸にしみる。
 妻と結婚し子どもが二人でき、ささやかな幸せな家庭が出来てみると、父の言葉の意味が胸に蘇ってくる。
 父が戦地に赴いた時は、年齢30才で、病弱な母と子ども二人(私と妹)を残して呉の地を離れたのだ。
 戦地にいた3年3ケ月の間に、生まれて間もない妹が百日咳がこじれて母の献身的な看病も実らず、1年数カ月の命を閉じた。
 現在であれば、医療環境はよくなっており、百日咳くらいでは死亡することなかろう。
 戦場や攻撃で直接的に死亡する以外に、栄養不良や疾病で間接的に死亡した例も膨大な数にのぼることだろう。それを伝える母の手紙で、この娘の死を知った父の悲しみはどんなだったろうか。
 私自身も、葬儀の時だったのだろう、大泣きに泣いた記憶がかすかに残っている。子どもながら尋常でない事が起きたことに気づいていたのだろう。
 戦争がなければ、夥しい数の命が無駄ににされることはなかったはずだ。間接的な死も防げたはずだ。戦後、まだ60年しか経過してないと言うのに、戦争犠牲者の上に作り上げられた「憲法」改悪の動きが活発化してきた。
 憲法があっても、日本の現状はどうだろうか。税金/介護保険税/医療費などは高く、生活が圧迫されている。


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