「自分史上にみる戦災記」

                           村田隆子

 私は職業軍人の父と専業主婦の母の長女として、鹿児島県で妊娠腎の母から生まれた超未熟児であった。
 呉に定住したのは、私が小学校5年生の時で、長迫町20番地に住んだ。
 呉は温暖で物価が安く生活しよいと母が言っていた。
 私は14年4月女学校卒業すると同時に上京した。昭和15年11月紀元2600年の祝賀会が皇居前であり、友人と銀座に押し出した若い日の歓喜の一時であった。
 昭和16年3月、神宮外苑で、青少年学徒に賜りたる詔勅を拝受。角帽、ゲートル、銃姿の男子学生達を私達女子学生が見送った。
 国民勤労協会令で、(男子14歳から40歳、女子未婚14歳から25歳)までの勤労奉仕義務化が現実のものとして打ち出された。
 昭和16年12月8日。学校長から日本海軍が真珠湾攻撃し、日米は戦争状態に突入した事と色いろの訓示があり、服装の華美にならぬ事、和装の時は長袖を禁止。洋服はスーツ、いずれも紺または黒ということであった。
 昭和17年学校の農園で自由学習中、アメリカの飛行機が私達の頭上を低空飛行。空襲警報が鳴ったのはその後であった。
 昭和17年9月30日、私達は繰り上げ卒業で学業中途で卒業した。
 昭和17年10月、日比谷公会堂にあった海軍省外郭団体「くろがね会編集部」へ出勤。
 退役海軍中将上田中将のもとで、出征兵士への恤兵雑誌の原稿を集める為に、作家、作曲家、画家の自宅訪問。大日本印刷への収集に廻ったり、校正事務に当り、月1回水交社で、これらの人達の一層の協力をお願いする晩餐会が行われた。
 昭和18年7月23日。次兄が戦死。呉に帰る。
 昭和18年9月から19年8月、召集された先生の代わりに教鞭をとる。
 警報がなれば夜間でも鉄兜を背負って飛び出して行く。警報解除になると母がカンテラを下げて迎えに来てくれる。ほとんど毎晩で、体をこわす。
 昭和二十年になると、呉の周辺の高射砲の音があまり聞こえず、B29の高度まで被弾することが出来なかった。
 軍港の軍艦には植木などで偽装されていると聞いたりすると、寂しかった。日本は負けるんだなぁと……
 私は昭和二十年1月から終戦まで、日本通運に勤務。
 昭和二十年3月19日、グラマンF艦載機80機が編隊を組んで飛来した。
 学徒出陣の従兄で、寺の息子で兵学校で砲術の教官をしていた彼が訪ねてきて、相手の顔が見える位近くて、「南無阿弥陀仏」も口に出なかった」と真剣に話していのを覚えている。
 昭和二十年5月5日、広の11空襲がやられる。従妹が挺身隊で行っていたので心配で、疲れ切って帰って来た姿を見ると思わず泣いてしまった。
 昭和二十年6月22日、海軍工廠中心の爆撃の時は、友人のことを思い無事を祈る。
 私達も警報の時、飛び込む地下壕の中で中で、ズシッズシッという音を聞きながら、このまま埋まってしまうのかと思うと、寂しくも淋しく感じた。この日は129機だったとか。
 昭和二十年7月1日、23時50分から7月2日2時30分頃、80機のの無差別じゅうたん爆撃で、我が家を含む市街地の大半が焦土と化した。
 耳の傍を焼夷弾のシューという音。我が家も西南部の方に4発落ちた。中風で、体の不自由な父が寝ていた所だったので、蚊帳を引き外し、布団と父を反対側の防空壕まで引きずりこむ。
 火は先ず蚊帳に燃えうつったが、叩いて消えない火ではなかったが、不覚にも水道にホースを接続してなかったし、バケツの位置が遠かった。
 隣家の火の粉は飛んでくる。家族の安全が第一だと、防空壕へ飛び込んだ。
両親、従妹に私、隣保の人3人。入り口の方にいた私は、煙に巻かれて窒息してしまった。  飛行機が去った庭に母は私を引きずり出し、口にウイスキーを割り込み、頬を叩き、連呼してくれた。
 早く返事をしなければと、返事をしようとしても声が出ない。やっと薄目を明けると、母の噛みつくような顔が目の前にあった。
 夜が明けようとしていたのだろう。呆然とした人が座っているが見える。
 私は母が引きずり出してくれた時、庭石の上に寝かされていたらしく、お尻に火傷をして痛くて立てなかった。
 1番の落第点は水が無かったという事であった。
 防空壕の近くには井戸もあり水道もある。この思い込みがよくなかったのだ。
 防空壕は入り口半間、奥行きは一間、右に約1.5畳を掘り込み、入り口の左側のポケットには塩、砂糖、醤油、梅干し、油と、とっさに使える鍋、米、ウイスキー等を少しずつ入れ、お皿等は土を掘って埋めてあり、現在も使用している。
 奥1.5畳には木製茶箱、布団袋2、柳行李6個、なのに水が入れてなかった。
 防空壕の中では、醤油をタオルに浸し、鼻を抑えたのだから、なんとも大変だったことを思い出す。
 はるかの市街地がまだ燃えていた。母がおくどにしかけておいたご飯が出来ているというので、焼け出された隣保の人にも、少しずつ梅干しと塩を振って食べて貰う。
 水道は出ない。井戸は綱が焼き切れて用をなさぬ。お水の大切さをつくづく思った。
 犬のエムは放してやったが、結局自分のハウスに死んでいた。可哀相なことをした。
 上長迫、鹿田方面は何事もなかった。夜は上長迫の知人の家でお世話になる。
 もう一つの失敗は、焼け跡に残った五右衛門風呂の利用方法であった。男手がない。これも悔いの一つである。やむを得ぬ事だが。
 訓練の時の焼夷弾の処理は、訓練である。恐怖心と頭巾、モンペでは話にはならない事だった。
 中風の父のお世話。これから考えなければならない問題の一つであると思う。
 (母あって、私の命はあるのだと思う。没日の焼跡に佇つ母偲ぶ)

 昭和二十年8月6日。この日私は広島の比治山の会議に行く為、呉駅に立ち、遅れてくる汽車をイライラしながら待っていた。約1時間。
 その時、敵機1機頭上を通り魚見山トンネルあたりでパッという閃光。思わず皆一斉に目で追う。
 警報が鳴り、列車が到着した。いわゆるキノコ雲である。何んだろうと騒然とする。消防団の人が、この列車は天応までしかいけない。今広島方面から挺身隊が続々帰って来ているという事で、吃驚する。
 この汽車が遅れないで来ていたら、私は間違いなく駅のホームで被爆しているのだと、ゾッとする。
 会社に帰ると、今迄にない爆弾で、今広島は大ごとになっているらしい・・・という事だった。私は幸な事に、被災者を見ることはなかった。
 昭和二十年8月14日。四国の友達から火傷の治療に来いということで、船に乗って、中村という島まで来たら、突然、敵機が一機飛んできた。
 この海に死ぬかと思うと、思わず身を縮める。ところが何事もなく飛んでいった。助かったと思って、その晩は久し振りで、何んにも混ざらない白米を食べて、こんなにも美味しかったのだとつくづく思い、西瓜を頂く。
 翌15日、天皇陛下の玉音を聞くために、ラジオの前に正座する。12時、雑音に混じったが、ポツダム宣言を受諾する。
 忍び難きを忍び、耐え難きを耐え・・・あっ、日本は負けたんだと思った。私は色いろの物をもらって帰ったのを忘れない。
三角兵舎入居
 国破れて山河あり。いまさら自分の土地に家を建てる力もなし。
 気力をなくし、下に建てられた家に住み、野菜を作ることとする。
 母は痩せて背をもむ手にも痛々しい。白っぽい毛虱を殺す。
 (毛づくろいする猿にも似たる母子愛)
 二十年8月30日。母交通事故で死す。
 崖下のKさんの息子さんが帰って来るというので、せめて広の大川に行き、貝でも拾い、幸い油はあるし、天ぷらにでもしてあげようと、T家の小父さんと母と従妹が、朝出かけて行った。
 私は会社で昼食をしようとしている時、小父さんが、母の死を知らせに来られた。
戦争で何もかも傷んで、電車は満員の客を乗せたまま、呉越からブレーキが利かなくなったらしく、元の9丁目の派出所の前、折り返し電車に追突し、停止したとか。
 非力な母は前へ前へと押し出されて、圧死したようだ。
 負傷者は阿賀の芸南病院に移送された。病院に駆けつけたら10人余りの患者は椅子にかけ、母は廊下に横になっていた。
 私は病院に、母を別室に移し、状況説明をしてほしいと言った。母の胸に耳を当てると、何か音がする。
 私に医者は、母は円筒形のブレーキに押し付けられて、胸部が複雑骨折したのだと言う。 私は言いようのない怒りがこみ上げてきた。怒鳴りつけてやりたい行き場のない気持ち。  モンペ姿で、白髪の母が哀れで、一時も早く家へ連れて帰りたかった。父がやってきたのそれから暫くしてからだった。
 その日に死亡したのは母だけだった。終戦になったのにと悔しい。翌日も事故で一人死亡されたようだ。
 隣保の人も、2、3人しかいない。淋しい通夜をすませ、翌日、交通局の職員二人が棺を運び、小父さんが木の箸を作ってくださり、鹿田墓地で火葬した。
 遺骨を抱いて帰り、初めて涙が出た。惨めで淋しくて、哀れであった。すぐ側に母が居るように思えて、つい母の姿を探してしまう。
 昭和21年9月17日。枕崎台風。我が家の前面、自治会が横穴を掘ってあったので、そこを中心に約10メートル、お隣までにかけて、崖崩れする。
 市街地は二河川に家屋の流出など被害が酷かった。
 9月26日頃から占領軍の進駐が始まり、家の周りを黒人がウロウロするので、日通さんのお世話で、防空壕の荷物を鹿児島の伯父に宛て発送。この荷物が一行李届かなかった。
 柳井から闇船が出るというので、従妹と出発。闇の黒い海を見ていると吸い込まれそうになり、思わず胸が気持ち悪く吐いたら、何んと回虫であった。雑草に近いもの食べたり、手洗いが不十分なためだったのだろう。
 荷物は、鹿児島本線は門司港で積み換える為に災いに遇ったらしい。良いものは頑丈にと言うのは、反対であることを思い知った。
 昭和21年12月20日。私の知人のお世話で、市役所に入ることができた。父の恩給の停止、新円切り替え、銀行封鎖など商才があったらと思う事だらけだったので、ホッとする。
 昭和24年9月13日。折角入れた市役所住宅がキジア台風のため、父の寝ている部屋の壁は落ちるし、瓦は飛ぶし。大変であったが、友人が大工さんを連れて来てくれて助かった。
 私は戦争は有ってはならないと思っている。まして核戦争においておやである。
 政治は政党同士の討論の上で決定すべきであり、今回の戦争のように、政治に軍部が介入すべきではないと思う。
 今回の戦争で、原爆がなかったら、私達は生きていなかったろうと思う。しかし、それは竹槍戦争においての話であって、肯定するものではない。
 戦争で失ったものの大きさを、国はよく考えてほしいと思う。


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