「勤労動員と呉空襲の体験」

                        小川宮三

1、旧呉海軍工廠に勤労動員

 工員寮が安芸郡大屋村字天応の時代は汽車通勤だった為、朝は4時半に起床して点呼の後、朝食でした。
 給食当番で割烹所に行ってみると、なんと蝿が黒山の如くおり、ワアーツと飛びたっていた光景は今でも忘れられません。
 天応駅から呉駅までは貨車にすし詰めの立ちどうしで、トンネル内を通過する時は、異臭の黒煙が入り込こみ降りた時は衣類は黒ススでした。
 履物は藁草履の裏に板を打ちつけ、ゲートルを巻いての通勤姿でした。
 メガネ橋を潜り、海軍衛兵の厳しい検閲を通り抜け、暫く行き、各自の日給を書いた職札を取る場所で更に工廠守衛の検閲を受けていました。
 30分ばかり歩いて工員会食場に、7時半までに職札を所定の位置に掛けないと、時間を過ぎると扉が閉まり鍵が掛かっていました。
 昭和20年春頃からは工廠内には、昼間に度々爆弾攻撃を受けましたので、至る所に4メートル〜10メートル位の大穴があいていました。
 特に屋外の船台にトンボグレンの大きなのがありましのが度々爆弾攻撃にあっていました。作業中の履物は地下足袋でしたが、なかなか配給が無いのでいっもボロボロを履いていました。
 工廠内の防空壕は巾約3メートノレ高さ約4メートノレの横穴式で約10メートルおきに5・6個並んでいて、内部は網目になっていたので市街地よりかなり安全と思いました。
 又工廠は敵の的なりだしたので部品工場や倉庫を廠外へ建て始めだした頃、大工経験の私は、二河川の左岸の松林の場所に、松の木を其の儘にして、溶接棒保管倉庫を建てる様にと命令がありました。
 其の作業中には度々敵機の機銃射撃を受け、機銃の弾がすぐ目の前の川端の石ころ当って火花が川上より川下に真一文字続いていました。
 公休日の或る日、中通のお菓子屋さんで1人1袋の菓子を長い行列で買った。中身は糠だんごでしたが空腹でしたので全部食べました。
 又宮原通りの海岸側は高さ2メートルぱかりの板塀で、軍港が見下ろせない様に覆ってあり、少しでも立ち止っていると直ちに憲兵がぞろぞろやって来て尋間する様な、うるさい場所でした。

2、7月1日、呉空襲の体験

 旧呉海軍工廠の工員寮が二河公園にありました時、呉空襲に出会った当時の記憶の儘を 筆に執りりました。
 昭20年7月1日の夜12時前、警戒警報のサイレンがやんでまもなくして、空襲警報のサイレンが不気味に鳴り響きました。
 こんな事は度々の事で慣れているので、貴重品とドンゴロスの地下足袋を枕元に置いて寝ていると、突然、窓が異様な真赤になりました。
『それ空襲だ』と叫んで着のみ着のまま二河公園の山際の防空壕(幅約1メートル高さ約1メートル)をめがけて走りました。
 その防空壕は、行止りの横穴式で真暗でありましので、這って行ける所まで行き、しゃがんでいました所へあとからあとから家族づれも詰めて来ました。
 子供は泣く、大人は我が家の安否の話声で、ざわめいていました。時間が経つにつれてだんだんと空気が薄くなるので息苦しくなりました。
 このまま眠むってはならないと思いながら5時間ばかりして、外がだんだんと明るくなるにつれて入り口の者から外に出る気配を感じました。やっと私も外に出ました。
 そして先ず驚いたのは公園の向こうの市街地は火の海でありました。民家がある山際の防空壕には、煙が中に舞い込んだ爲でしょう、多くの人が窒息死しているのを見て、初め て私が生きているのに気が付きました。
 その夜は、敵機が約70機呉上空を旋回して、空中に照明弾を落として明るくしては、建物めがけて焼夷弾を落として、市街地を焼き払ったのです。
 その日からも、二河寮より工廠まで市街地を対角線に毎日歩いての通勤なので、至る所 で遺体を見ました。
 つれなくも母と子が共に並んで焼死していたり、家の前にあったらしき深さ2メートル足らずで畳1枚分位の地下式防空壕の中で命を絶った人、既にこもで覆ってある人、様々でありました。
 見渡す限りの焼け跡には大型の金庫と大木の幹と、石門のみ残っていました。
 雨の夜は遺体の上を火の玉が飛んでいるのも見ました。又敵機は低空飛行で機銃射撃す る事も度々ありました。
 三角兵舎(仮設住宅)が建ち始めたのがこの頃からです。

   昭和20年2月工員時代の工員時代の小川宮三、旧呉市内の写真館での写真

(屋外で写真撮影しているところを憲兵隊に見つかると即連行されて、軍法会議に回される時代でした。
 それで風景写真がありませんので、こんな写真をお送りいたします。





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