「戦時中の思い出」

                           真苗チヅ子

 あの頃を思い出すだけでもぞっとします。
 昭和二十年六月三十日、当直明けで家に居ました。主人が、「今夜は来るかもしれんから、ちゃんと用意を」と申しました。
 やっぱり予感通り、空襲警報のサイレンで飛び起き、戸を開けたら、三条通りの平地は、あちらでもこちらでも火の手が上がり、上からは焼夷弾が雨のごとく降るのです。
 義母と3歳半の次男は、主人が負い、私は一歳二ヶ月の娘を背負い、外に出て防空壕のある所へ走りました。
 私達は六月十五日までに立ちのくように、建物疎開の命を受けて、此処へ来たばかりでした。
 ですから、隣組の方たちのお名前も、お顔もよくわかりませんし、まして防空壕の掘るお手伝いもしていませんから、入り口でうろうろしていました。
 その時、一人の男性が、女の方の名を呼んで、「ここは危ないから早く出て来い」と叫ばれました。
 それを聞いた私達も、また必死で、高い方へと走りました。
 背の幼児が、母親の恐怖が分かるのでしょう。泣きもせず、声も出さないのですが、胸の鼓動が母の私の背にドキドキと伝わるのです。
 何とも言いようのない、つらいつらい時間でございました。
 そのうちに明け方になり、攻撃も終わり、そろそろ我が家のほうへ向いて帰りました。  防空壕の前のお家は丸焼けでした。このまま皆さん、壕にいたら、蒸し焼きにされたはずです。
 我が家は、上の家がやられて、燃え屑が屋根にたくさん落ちていましたが、焼けずに助かっていました。

 その頃は食糧事情が最悪でした。主食は勿論、副食物も一切が配給です。衣料品も切符制度でした。
 私達が建物疎開をした町は、海岸一丁目の半分ぐらいだったでしょうか。商店街で、とてもにぎやかでした。
 カフェーも3軒あり、仏壇店、大きな菓子店、呉服店、下駄店は二軒、肉屋さん、本屋さん、提灯屋さん、洋品店、風呂屋、パン製造会社(行列で買ったものです。)ビリヤードもありました。
 化粧品店も二軒、そのうちの一軒が私方でした。向こう三軒両隣、親しい方々ともチリジリになりました。
 時には懐かしい方に会うこともありましたが、近頃は同時代の方に先に逝かれてしまって淋しい、悲しい日々でございます。
 申し遅れましたが、私達には長男が、いるのです。次男より4歳上でした。小学生の3年生以上が、学童集団疎開か、親類があれば、縁故疎開をせよとのことで、私の実家の方へ預けていました。
 今では、昭和十二年生まれの長男と、昭和十九年生まれの娘が、九十歳の私を幼い時と同じように、母ちゃん母ちゃんと親孝行してくれます。
 身近には空襲で亡くなった人はいないのですが、主人の親友のお母様が防空壕で亡くなられたのを覚えています。
 終戦で嬉しかったのは、電気を明々とつけられたことでした。
 戦争は二度と嫌でございます。


募集体験記目次に戻る

トップページ総目次に戻る