「呉空襲を顧て」
                                 戸田貞子

 昭和一六年十二月八日、第二次大戦勃発以来、年々戦争状況が激しくなって参りました。
 軍需生産加速のため、昭和十七年十八年にかけて、各地から徴用された男性が呉に続々と集まってきました。(徴用工員)と呼ばれていました。
 それ等の人々の生活の場として、各家庭に寮が設置され、集団生活が始まっていました。休日以外は自由行動は許されていなかったと聞き及んでいました。
 朝の出勤時と帰寮時は、必ず点呼が行われ隊列を組んで行動していました。
 当時私の家は、呉市蔵本通り八丁目32番地、ちょうど角に位置しておりました。
 毎朝二河公園から通う徴用工員の集団が、蔵本通りを通り駅前筋に下って、ガードでの海兵団入口を通過して海軍工廠に向かっていたと聞かされていました。
 その頃から呉では徴用工員の女性犯罪が多発しておりました。町内では婦女子は注意するよう回覧板まで廻されていました。町で工員風の男性を見るとまるで異物を見る思いでした。
 私の父の職業は和菓子製造業でした。当時は四、五人の弟子を連れて営業をしていましたが、その内1人二人と召集され、皆んないなくなりました。
 当時、菓子組合が海軍納めの饅頭や羊羹を作っていたので、両親は朝早くから夜遅くまで忙しい毎日でした。その頃に私の家では徴用工員に関わる事態が起こりました。
 昭和十八年夏の夜の出来事です。

 当時私は十五才の女学生でした。その夜も両親は遅くまで仕事をして一家で遅い夕食をすませ両親や幼い妹や弟たちは眠りについていました。
 その夜は、誰言うとなく私(長女)二女(照子)三女(好子)の三人で階下の部屋に寝ようと話が出て、それじゃ、くず湯を作って食べようと申し合わせ、それ々の役割分担をジャンケンできめました。
 私は庭の倉庫にある砂糖と片栗粉を取りに行くことになりました。二女はガスでお湯を沸かし、三女は三人の床敷きと役割がきまりました。
 早速各自の行動が始まります。私はくず湯に砂糖をたくさん入れて甘くして食べよう等と思い、 静かに庭に降り階段の下にある砂糖桶の蓋を開けようと思いながらも、見るとはなしに足下に何か袋のような丸いものがあるのに気付きました。
 気にもせずその上に上がって砂糖桶を開けようとした途端に足がつるりと滑ったその感触が異様なものに思えました。
 気味悪くなって足が震えだした。顔面蒼白になるのが自分でも解った。やっとの思いで部屋に戻ったものの身体が膠着して声が出ない私の様子に気付いた二人の妹は吃驚した様子で「どうしたん、どうしたん」と問いかける。
 私は、ゼスチャーで早く二階に上がるよう促す。二人は不思議そうな顔をして互いに見合わせながら競うように上がっていった。
 私は今しがた自分の足元に感じた異様な感覚に震えながら、這うようにしてやっとの思いで十一段を昇りきった途端にホッとして元気が出た。
 早速父を起こして、しどろもどろの口調で手真似を交えて事態を告げると、父は飛び起き身支度をして静かに階下に行った。
 一度現場を確認すると素早く会長さんを呼んできた。近所の人たちが何事かと三々五々集まっている。
 店内に燈がつくと砂糖桶の下には背を丸くした男性が蹲っている。すでにお巡りさんも二人来ていた。お巡りさんが引きずり出すと、両腕を抱えるようにして連れ去った。
 集まっていた町内の人達が口を揃えるように「無事でよかったね」と言ってくれた。私は心の中でかわいそうに思い、早く逃げればよかったのにと、ちょっぴり後悔する気持ちが出た。
 時計は午前一時を指していた。何度思い出してもぞーっとする出来事であった。

 昭和十九年に入ると戦は激しさを増して行った。国は物資難を象徴するかの如く、各家庭にある鉄類や貴金属類にいたるまで没収を始めた。
 また国民学校児童の集団疎開が強制されるにいたり、嬰児や幼児を連れた人は田舎に疎開を強いられる時代にまで緊迫していた。
 また大学生は慣れない軍隊教練を短期間に終え、戦場に赴かされる時世へと変わって行きました。今にして思えば当時の日本政府は次の世代を支えなければならない大切な人材をその場限りの考えで国が滅ぼしていったのだなと思いました。
 この大戦は年を追って緊迫の度が加わっているにも関わらず、当時の大本営発表は全く逆の内容が発表され、寧ろ除な声は国民を沸き立たせる事実とは異なる内容だったのです。
 国民は戦いによって受ける苦しみを至同生命、御国のためと我慢して頑張っている心情を欺きつづけて来たのです。
 何事もお国のためにという言葉は、幼い子供達にも侵み渡っていたのです。軍国主義の怖さを思うに当たり現在の北朝鮮の在り方は残念です。
 早く自由の素晴らしさに目覚めて命を大切に生きていける国民になってほしいと願うものです。
 日一日と戦時色の濃くなる当時の生活形態は、町内には一定の間隔で大きな防火用水が設置され、水が満々と水を漲ってありました。
 町内会長の指示により毎日防火訓練がくり返され、バケツリレーの練習が行われました。一日でも不参加すると非国民呼ばわれしていました。
 また長い竹の棒を各家庭に備え、師範役の指示によって掛け声も勇ましい「エイーエイー」と敵を突く練習を行ったものです。
 今にして考えれば馬鹿らしいと言うか、寧ろ恥ずかしい思いがします。

 立派な風土・文化を持ちながら、自由な発想に生きることの出来なかった時代ではあったけれど、
この事も歴史として刻まれ、過去を教訓として新しい時代の移りに生きる人達は、次なる若き世代の人達に強く伝えて行くべき責任を強く感じました。

 軈て(やがて)昭和十九年に入っては女子挺身隊、また六月には学徒動員され、鉛筆・ノートを切り替え、各部署の軍事工場へと配属されることとなり、
私達学徒は毎朝予定の時刻までにはガード下に集合して、隊を組み本部近くの電気設計部に通ったものです。
 後になって電気設計は警固屋に近い山の上に移転しました。

 私の家では昭和二十年五月、父に召集令状が来て九州の佐世保に入隊いたしました。残された家族は不安な日々を送ったものです。
 その後、小学三年生以上には集団疎開が始まりました。その時母は、故里の叔母を頼って愛媛県の小島に、小さな妹や弟を連れて疎開しました。
 長女の私と二女(昭子)は女学校へ、長男(弟治)は高等科に通い、学徒動員だったので、三人で蔵本の家に残り、毎日それ々の職場に通いながら、不安な日々を過ごして居りました。
 この時は朝の来るのが嬉しかったです。夜が明けると早朝より、三人のお弁当を作り、救急袋と防空頭巾を肩に交わらせ、モンペイ姿の妹と二人、弟は足にゲートルを巻き、戦闘帽子を被り、三人でそれ々の仕事場に出かけます。
 一度外に出ると多くの人に出会え、仕事場では大人ばかりの中で、学徒として特別な扱いで、やさしくして下さるので、家にいる不安は何時の間にか忘れ去っていきました。

 昭和二十年に入ってから、呉では初めて広海軍工廠第十一海軍航空省がB29による爆撃を受け、壊滅的な打撃を受けました。(昭和二十年五月五日)
 次の呉空襲は六月二十三日、今度は呉工廠でした。主に造兵部(兵器工場)が集中的に攻撃の対象となりました。
 B29の去った後、造兵部には挺身隊の人が多く配属されていました。挺身隊の人々の遺体が、積まれるように箱に重なって、電気設計部の山に運ばれていきました。
 運ばれた遺体は一度に荼毘に付されました。夢かと思う一瞬の出来事にむなしい思いが胸を突いた思いは今も忘れるものではありません。


 思い起こせばこのときの空襲では警報が鳴って、追われるように壕内に逃げ込みました。
 間無しに兵器工場が爆破されたときは、一山隔てた距離があったにも係わらす、その爆風で耳は閉じられ、顎が飛んだかと思うくらい凄まじい爆風に、壕内は一瞬黙して語らず、静まり返って居りました。
 気付いた折には足が震えて歩けなかったのでした。初めて知った爆弾・爆風の怖さは、暫し皆んなの語り草になりました。

 私達の成長の過程では、「日本は神風の国だから負けることはない」という思い込みがあったので、当時を考えれば、知らない者の怖さを改めて認識させられました。

 やがて四度目の空襲に出会います。この時が、呉市街地の空襲でした。
昭和二十年七月一日23:50〜二日2:30頃まで集中焼夷弾攻撃となります。

 この夜は良く眠っていたので目覚めた時には、空襲警報のサイレンでした。
 何となく、ばた々と走り去る外の騒がしさを気にしながらも、何時もと違った雰囲気を感じつつ、支度を調えると、妹と弟は何時もの防空壕に急いだ。
 私は町内の伝達を待つべく家の中から、外を走り去る人々の地響きを感じながら、様子がおかしいと思い、外に出ようとした時、道路向こうの池田米店前に照明弾が落ち、辺りが真昼のような明るさに見えた。
 其處此處と落とされる照明弾に、辺りははっきりと照らし出された。すかさずバラバラと音がして雨が降り出したのかと思い、大雨が降れば良いのにと思っていると、すかさず焼夷弾が所かまわず落ち始めた。
 向かい側の家々は炎を吹き出した。見る見るうちに、ばりばりと音を立て、軒下を飛び出すように炎が立ち上り始める。家の前を走る人々は驚きと泣き声で走り去る。
 いったい何が起こるのだろうと茫然と佇んでいると、隣の越智洋服店の小父さんが来て「貞ちゃん、もう良いから早く逃げー」と異様な声を出して走り去った。
 私は促されたように外に飛び出したが、町内は猛火に包まれ、強風に煽られた炎が顔面に吹き付けて、髪の毛がジリジリと音がする。
 幸いなことにまだその時点では私の家には火がついていなかった。
 その間もあちこちで焼夷弾のシュシュシューと落ちてくる音、炸裂する音が、耳を劈く恐怖感と孤独感に、自分を見失いそうになる。
 気づいて外を見ると、誰も通る人はない外の様子から、到底走っても、岩方の防空壕までは行き着くことは不可能だと思った。
 風は以前より、強く炎が舞い狂って車道が何処だか見分けも付かない。ふと入口を見ると自転車が目に入った。
 この自転車は父が菓子を配達するときに側にリヤカーをセットして、大きな犬とともに引かせながら、商いに廻っていたので、車体が長く重量感があって扱うのには女性の力では大変だった。
 幸いにも私は二ヶ月ほど前からやっと乗れるようになっていた。咄嗟に思いつき「よーし、これに乗って行こう」と決心した。
 自転車を押して外に出たものの、熱気が強く顔を上げる事が出来ないので、再び家の中に後戻りした。咄嗟の思いつきで水道栓を開いてみた。勢い良く水が飛び出した。
 「助かったー!」と思い、防空頭巾の上から水をかぶり、全身びしょぬれで急ぎ自転車を押して道路の真ん中に出て、乗ろうとしたが全身が震えてペタルに足を踏み外して、自転車と共にアスファルトの上に叩き付けられ、再び起き上がり、三度目にやっと中心を取ることが出来た。
 火は強風に煽られ、風は益々火を煽り上げ、風の轟音は、焼け落ちるバリバリと崩れ落ちる音、飛行機の飛び交う音、焼夷弾はいまだあちこちに落とされている様子だ。
 弾の炸裂の音を聞く度に全身が竦み上がる。濡れた頭巾を深く被り、俯き加減の姿勢で必死になってペタルを踏む。
 飛行機の飛び交う音が、頭上を掠めるように近づいては遠くなる。その都度、もうだめか!もうだめか!と思いつつも足は懸命にペタルを踏んでいる。
 暫らくすると、何気なく様子の違っている事に気づき、目前を見ると、盛り土式の防空壕が其處彼處に点在し、小さな出入り口が目に入った。
 飛行機の音も遠くに聞こえる。振り向くと蔵本筋や市の中心部は火の海だった。
「助かったー」と胸の中で思わす叫んだ。自転車を乗り捨てると一目散に目の前の防空壕に飛び込んだ。

 壕の中はいっぱいの人だった。皆んな言葉はなく息遣いだけが聞こえていた。側にいた小父さん風の男性が不思議そうに問いかけた。
「あんた今頃になっ、て良く怪我もせんと来られたね。どこから来たんよ。」と問いかけた。
「蔵本から自転車で来たんよ。」と答えるのがやっとで、その場にしゃがみこんでしまった。疲れと気緩みで怖さを忘れそのまま眠りこんでしまった。

 どのくらい眠ったか、周囲の騒がしさに目を覚ますと、壕の入口に夜明けの青空が覗いている。朝の未だ冷んやりとした風が壕の中に流れこむ。
 熟睡したらしく気分ははっきりしているが、全身に痛みを感じる。一人二人と外に出る。私も後に続いた。五時間程前に全身びしょ濡れだった衣服がすっかり乾いているのに吃驚した。
 外はすっきりとした何時もと変わらない青空の下で、思いきり深呼吸をした。気分の良い朝だった。

 五、六時間前の悪夢のような出来事が、嘘かと思うほど清清しい朝だった。でもやっぱり本当だった。
 乗り捨てた自転車は壕の側にある。私は思わず有難う、と心の中で手を合わす気持ちだった。
 目の前は見渡す限り焼け野ヶ原で、町中はいまだ燻って白い煙が立ちこめ、あちこち小さく火の手が見えている。
 岩方の方からでも川原石の海が見えるのには驚きました。土地だけになると意外に狭く感じる。
 この時改めて呉の地形はすり鉢の底だと聞いていた事を思い出し納得させられた。
 焼け跡の熱気が町中全体をかげろうの如く包んでいる。
 道路を歩くとアスファルトが溶け、てやわらかくなっているので、靴の裏に貼りついて靴が脱げてしまう。
逆に足の裏を火傷するほどな状態なので暫らくこの場所に留まる事にした。
 周囲の大人たちはそれ々の怖さを、身振り手振りで語っている。不思議なことに皆んな笑顔はない。昂奮未だ冷めやぬ表情だった。
 皆んな知らない人ばかりなので、離れた場所で腰を降ろし、朝の青空を見上げていると気持ちが落ち着いて来た。
 その内誰言うとなく和庄の防空壕が全滅で、多くの死者が出たらしい。話が口々に流れ出した。
 忘れていた妹と弟のことを思い出して心配だった。二河公園に向かって逃げたのだから大丈夫だと、心の中で打ち消した。

 やがて人々は目的の場所に向かって行動が始まった。
 自分の家の様子が気になっていたので早速行って見ることにした。途中熱気を受けながらも歩ける状態だった。
 焼け跡に立って驚いたのは、飴を練る釜と、逃げる際に着替えを入れていた電気の饅頭を焼く釜が、そのままの姿で残っていた。
 私は早速蓋を開けてみようとしたが熱くて手を触れることが出来ない。周辺を見廻すと側で格好なアルミ棒を見つけた。
 片端をタオルで巻いて、先端で蓋を開けると、途端に顔を覆う熱気で、思わず顔を外向けた。
 よく見ると、逃げる際に中に入れて置いた、着替えの包みがそのままの状態で、全く焼けてなかった。
 嬉しさについ大声で「よかった。」と云いながら、その包みに手を触れた途端に、パラパラと崩れ落ち灰と化した。
 この現象には驚いて声が出なかった。猛火の熱で蒸し焼きになっていたのだった。当然のことだと納得できた。
 焼け跡の前に立って、つい六時間程前の猛火の中を自転車で走る自分を思いながら、今私は現実に生きているのだと喜びを感じながら、片や不思議だった。
 よくまあ弾の直撃を受けなかったものだ。逆の事態であれば、今頃は路上の残骸、黒焦げで自転車と共に人の口上になっていたかもしれない。
 これこそ不思議な出来事だと、夢の中を彷徨しているように茫然と立ちすくんでいた。
 その時誰かに肩を叩かれ、我に返った。見ると妹の笑顔が目の前にあった。共に感激の涙で目が潤み、共に歓び合った。暫らくすると、心配していた弟の姿を見ることが出来た。
 三人全く怪我をせず、元気な笑顔を交わし合う事が出来た。この時私は、「運」と云う言葉を心に強く感じた。

一、返り見て 後なき命(よ)とは思えども 二世代を歩(ゆ)く生活の智恵

一、長らえて 重ねし年をふり返(む)れば 六十年前(むそとしまえ)の記憶新らし

 長い間、誰にも話す気持ちがしなかった、六十年も過去の人生の実態でした。
 或る時、ラジオからの投稿募中を聞き、この機を得たるを嬉しく思います。



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