「阿賀町での空襲」

                                  Sさん・匿名希望

 阿賀町での空襲

 私は、大正15年生まれ、今年79歳になります。戦時中のことと言っても60年も前のこと、断片的にしか思い出せません。
 ここに書きました広工廠・第11空廠の空襲の時のことも、正確なものかどうか、よく分かりませんが、書いてみました。
 原爆の時も、八本松の火薬庫が爆発したとか、広島駅に停車していた爆弾を積んだ貨車が爆発したとか、いろいろな話が出ていたので。

 空襲前

1、阿賀町
2、父が、病弱だった為、母が働きに出ていたので、私は家にいました。
 働き手の長兄は昭和14年1月、次兄は昭和17牢2月、現役召集で出征していました。
 昭和18年5月、長兄はソロモン群島で戦死、19年1月父も他界しました。
 私は19歳、戦時下で家に居られないので、阿賀駅前にあった軍需工場(ビス・ナット等を作っていた)へ働きに行く事にしました。
 (その頃、阿賀尋常高等小学校の高等科の生徒さんも学徒動員で働いていました。)
3、隣組を通じて、戦時貯蓄債券を割り当てられ買わされました。戦後それは皆反古となりました。(今も家には5,6枚あります。)
4、防火演習には、1軒から1人は出なければならなかったので、いっも防空頭巾を肩からさげて、私が出ていました。
5、母は下士官兵集会所に勤めていました。海軍の兵隊さんが、親から慰問袋を送って貰ったのだが、かきもちが入っていて、焼くことが出来ないので、おばさん食べて下さいと、菓子箱に入ったかきもちを貰って帰ったことがあります。
(その夜、母と、昭和14年、長兄が広島5聯隊に入隊した時、母と2人で面会に行った時の事を思い出しました。
「ちらし寿司、餅、キンピラ牛蒡などなど」兄の好きな物をもつて、行きました。
 その時、兄は、「おかあさん、軍隊と言う所は、辛い所だね」と言って涙を流しました。残った餅を、母は兄のズボン下(軍隊のズボン下は足首の所が紐で括るようになっていました)の中に入れて、
「夜食べるように」と、一一 あれは食べられたかね、などと思い出し 一一 兄は、それっきり私たち家族の所へは帰って来ませんでした。
6、私たち庶民には何かを考えるとか、言うとか、出来ません。ただお上の言う通りにするしかありません。

 空襲の状況

7.1945年、空襲警報が鳴ったのに逃げ遅れ家のなかで布団をかぶっていました。
 窓から首だけ出して覗いていると、アメリカの飛行機くB29ではなかったように思う?)が大空山の上から大入の方向に急降下で飛び降りていました。
 大空山の砲台からは大砲は打ち上げられていましたが、ひとっも命中していませんでした。 (でも命中しなくてよかったのかも命中していたら阿賀の人家にも被害があったとおもいます。) これは呉港の軍艦が攻撃された時だと思います。
 大入、冠崎の沖にも軍艦は停泊していたと思います。艦上にいた海軍の兵隊さんが機銃掃射で沢山亡くなられたと聞いています。
 1945年5月、阿賀駅前で、空襲警報に遭い、近くの盛り土待避壕に入りました。凄い爆音と、壕の入り口の戸が、倒れるかと思うほどの爆風で、皆生きたここちではありませんでした。
 外に出て見ると広の方は、もうもうと煙が出ていました。あれが夜だったら火も見えて怖さも増していた事でしょう。
 その時の話では広工廠・第11空廠が爆撃され、虹村の重油タンクが爆発した為に爆風がひどかったのだろうと云う話でした。




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