「爆撃と『タコツボ』」

                                       佐々木茂

 爆撃と「タコツボ」

 昭和13年と思っていますが、島根県松江市で、志願して広海軍工廠に入りました。 造機部溶接工場に配属になり、製缶工になりました。
 昭和14年には学徒動員、徴用工が入ってくるようになりました。私はそのころより、素人に仕事を教えることになり、指導員の立場になりました。
 昭和16年に、戦争が始まり、私は学徒動員の宿舎の小隊長も朝夕勤めました。そして昭和20年に、結婚することになり、島根県に3月19日に帰りました。
 この日は米軍の空襲があり、初めての、通称「たこつぼ」に入り、その合間を見て、火消役をするつもりでしたが、私は休んでいたので、代わりに組長が入りました。
 爆撃で、そのつぼの上に泥がかぶさり、窒息状態になったが、他の人が棒で突付いて、タコツボを見つけ、泥をのけて助かった、と田舎から帰ってから判りました。
 次からは、この「たこつぼ」は使わなくなりました。

「タコツボ」と空襲について
 空襲に備えて「タコツボ」を造り、防火体制をとっていました。
 1、焼夷弾などで火災が起きたら、まっさきに地上に出て火を消す。
 2、竹ヤリに、縄の塵払いのようになった物、3、竹ヤリに箒を取り付けたもの、
 4、バケツ(水掛用)、5、格納してあるホース、を準備していた。
 造機部溶接工場(50m四方くらい)にタコつぼは三つ掘ってあった。
 タコつぼは、軍艦の煙突(直径は1.4m位)を2メートルぐらい溶接で切って、土の中に埋め、上部は鉄板を溶接で、蝶番に止めていた。
 爆撃で、組長の四宮静夫氏は、爆撃で泥をかぶり、窒息していたが、掘り出して助かった。
 もう一つのタコつぼでは、爆弾で大きな穴ができ、海水が入ったところに、頭を打って脳しんとうおこし、浮いていた工員がいた。
 もう一つのタコつぼでは、爆弾の破片で負傷し、傷が浅かったので助かった。実習生の羽奈正雄である。
 1から5の備えや道具は、実際には目的を達成できなかった。



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