「工場死守のためタコツボ入り」

                               四宮静雄

1、広海軍工廠の空襲

 昭和20年空襲で年明けし3月19日、350機の米機が来襲で、広海軍工廠施設を機銃掃射で多数の死者が出る。
 その後、我が溶接工場製缶部で3ヶ所にタコツボを埋めて、工場死守の命が私四宮静雄に決定した。

   タコツボ配置図

 外の工員は工場外の岩樋に横穴防空壕に逃げ込んだ。工場内には、大型機械が多く、疎開できず、工場死守痛恨の日がやってきた。
 5月5日、大豆入りの弁当が運ばれた時、空襲警報が出た。
 弁当を横目で見て、取りもとりあえずタコツボに入ったとたん爆弾が落ち始めた。
爆風でタコツボの上蓋が閉まった。直撃弾はすごく、シューン、キューン、ドスンの音の繰り返し。
 タコツボは、直撃弾が落ち、タコツボは上下横揺れ、眼球が飛び出すようで、思わず耳と目を手で押さえ、屈み込んだ。
 体が跳ね上がり、内臓が掻き毟られるようで、ショックが続いた。
約35分位、音がする毎にもう駄目かと、蓋部からごみや音がする毎に落ちてくる。
一寸音が止みツルハシやスコップの音が聞こえてくる。九死に一生で瓦礫を取り除き、 工場内に出てみると、すぐ横に10m位の池が出来ており、
トタン張り屋根の横張りトタンは吹き飛んで、鉄骨がぶん曲がり、よく助かったと思わず涙が出る。
 掘り出して戴き、夕方まで工場内に在って、歩いて電車道を和庄の我が家に帰る。
女房が、今日、ラジオで広海軍工廠は全滅であったと話してくれました。
 よく助かったねと言われました。一度死んだものが現在まで生きております。
今年、90歳に成りました。
 呉には、昭和7年8月より昭和28年まで居住する。戦後、進駐軍に勤める。

   広海軍工廠歌
一、広湾端の朝日影、津久茂が浜の潮ざえに 力をこむる槌の音
 すめら御国を守るべく 至誠奉公一筋に 尊き使命いつくさばや
二、朝したに星をいただいて 夕べに月の影ふみて いそしむ技にこもれるは
 すめら御国を守るべく 世界平和のそれぐえに 尊き使命いつくさばや

   広海軍工廠配置図

2、私の戦中・戦後体験の追伸

 不況の開幕した昭和元年底無しの不景気。4、5年の金詰まり、深刻な年、6年。失業者30万人とも、80万人とも、
満州事変。日中15年戦争、本格的な全面戦争は、銃後の国民全体を巻き込んだ。総力戦。

 私は小学校5年始めより、中国新聞を配達しておりました。福山東尋常小学校高等科2年、後、就職する。
 福山上西側に、シボレ自動車工場に通いました。友達二人で、数ヶ月で他の鉄工所に変わり、父地勤務の町工場で働いておりましたが、不振のため、工場閉鎖に追い込まれました。
 新聞配達は、福山を出るまで続けました。同じ職場の先輩の方が、少し早めに呉に行かれて、海軍工員募集に合格し、便りをいただき、
長年生活した福山を父子二人で、呉に知人を便りに呉市和庄通り4丁目、高日神社下横に訪ねて、
同居する父と、私二人の願書を提出しましたが、18歳以上で、私はまだ17歳でした。父は、砲熕部にて試験を受け、合格した。(日給1円95銭)
 父の公休日を利用して、二人で広海工廠に出かけて、募集表を見まして、造機部製缶工2名募集表に早速願書を提出しました。
実地試験あり、他の人は、家庭持ちの普通の職人で、二人試験を受け合格しました。 他の人は、藤田さんで、日給1円60銭でした。私は1円でした。町工場時代の給料の2倍です。採用は11月10日でした。
 通勤は電車で9丁目から長浜行きに乗り、三門前で下車。さすが海軍工廠です。町工場に比べ、いろいろな部署ありで驚きでした。1カ月後家族を呉に呼び寄せました。
 呉市和庄通り4丁目3でした。広工廠内の青年学校に入学する。工員養成所、ひもとけば、涙と、汗のあの日あの時が鮮明によみがえる。

 昭和6年の満州事変以後、拡張され、昭和7年11月までの不景気風も、12月より、年明けで希望を持って暮らせる目標が立った。
1日も早く次の臨時職工になるのが待ち通しかった。そのため、毎日の勤めが大事で、真面目に一生懸命働くのが近道で、他の人に負けぬよう、年に2回の昇給も五銭、十銭から十五銭です。職夫の間のボーナスは無しです。
工廠内に青年学校ができるとのこと、二年間、学科の由。
昭和9年10月21日、嬉しいニュースが入ってきた。職夫より、臨時職工に進級する。昇給は年2回あり、これで一人前になった。
少しずつレコードを集めをしてみた。歌は世に連れ世は歌に連れで、10年には徴兵検査があり、どこも悪いところがないのに、丙種合格で銃後の第一線のみ。
12年には通常工員になる。昇給も十五銭からで、家で生花、尺八を習うようになる。
12年に、ディーゼルエンジン工場が増設され、続々工員が増員された。
 14年7月、国民徴用令が公布。
15年には伍長進級で部下を貰う。呉海軍工廠造機部に、ジゼルエンジンの本体造に実施研修一ヶ月の出張があり父、弟三人で呉廠通勤も楽しかった思い出になる。
 16年には、主タービンの大馬力を作り出す。世界的にも珍しい陸上での実験装置を新設する。
復水器治具考案で、海軍記念日に表彰を受ける。他1回。次は組長進級でした。部下28名領かる外に、呉港中学・学徒も実地試験等で週3回面倒を見る。
 昭和は、私の人生そのもの、苦労の多かった昭和も、今ではやはり懐かしい。

3、7月1日の呉空襲

 7月1日、豊後水道から呉上空にB29が来襲し、午後11時40分ごろ、亀山神社方面に照明弾が落下、次から次に、私の家にも焼夷弾が無数に落下してきた。
 家々から猛火になり、火の中を妻と二人で布団をかぶり、高日神社横上に上りました。
 山手も猛火になり、青葉の茂った木の下にいましたが、朝は明るくなったので下山してみたら家はなく、まる焼けでした。
 床下穴に、ジャガイモが焼けており、二人で食べました。市役所に行き、配給課で握り飯を戴きましたが、
帰る家がなく、畑の友達宅に二晩泊めて頂き、原の友達の家に行き一晩世話になった。
 工廠総務課に行き、事情を話して、大広に徴用工員用の家に入ることになりましたが、
 8月9日の福山空襲で、母と妹二人が福山中市町の中心部で死亡していた。
 8月15日に、妻と二人で、福山の知人宅を探すが判からず、芦田川土手で焼いてあった。胸の名札で分かった。

《メモ》

 製缶工場隣にアスベスト(石綿)工場があり、船の断熱材に使用する。女子従業員十数名が仕事をしておった。
 工場では、軍艦のボイラーやエンジンの部品に、断熱材としてアスベストを張り付けていた。
ジゼルエンジン  復水機と石綿

 女性工員が、手製のマスクをかけ、アスベストを素手でちぎっては束ねて、座布団の大きさにまとめていた。
 窓を開ければ、人が一人通れる間から、アスベストが飛んでくる。その細かな繊維が体内に残存する。吸った多数の工員は、20年から50年にて発病する。
 数カ月で、呼吸困難で死亡するケースが多い。肺がんや中皮腫が多発し、中皮腫の発症率は全国平均の約10倍に上っている。
 腹膜などにできる悪性腫瘍の中皮腫が効率で発生している。異常に高い石綿がん死が現在続いている。
 私と家族の履歴書
 大正4年5月20日、福山市長者町生まれ、 旧・呉市和庄4丁目42-2に福山市より移籍
 昭和7年11月10日、広海工廠。造機部職夫に採用(呉志技1016号)海軍工員。 昭和7年11月ー昭和20年、広工廠。
 9年10月21日、臨時職工に雇い替え、12年4月21日、通常職工に雇い替え、
 15年4月21日、先任伍長になる。18年4月21日、組長に雇い替え、後に分隊長
 20年3月15日、任海軍2等技術兵曹、予備役編入、20年8月31日、依願解雇、
 父は呉工廠に通っておりました。砲熕部仕上工、昭和17年8月28日、胃かいようで入院。呉海軍共済病院で、1週間で死亡する。49歳。
 昭和20年はじめ、母と妹が福山に学童疎開で行きました。



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