「「タコツボ」に生きる」

                           住原哲二

 東洋有数の軍港都市と謳われた呉ーー
ここに生きた少年たちの小さな胸に何かしらの誇りがうごめいていた輝かしい日々があったーー
 だが、それ故に空爆の標的にされされた悲惨な歴史を背負うことになったのも事実である。私もこの激動・受難の時代を生き抜く為に必死にもがいた少年の一人であった。
 昭和二十年、初めて空襲警報が発令され、美しい呉の空に敵機が閃光を引き現れた!腹をえぐるような爆弾の破裂音と無数の光粒が飛び散った。
 今まで体験したことのない道なる恐怖が、少年たちを襲った。ーー
 当時、私は、呉三中(現広高)のか弱い中学生の一人だった。あまりよく整備されていない。運動場と校庭に、個人用掩体壕(通称、タコツボ)が十数ヶ所点在し、
ほかに、ペンペン草が生えた掩蓋壕(指揮所用で十人程度収容可)が1ヶ所、これが防空避難施設の全てであり、全校生徒が血豆をこしらえて掘った苦心作であった。
 常日頃、対空訓練が次のように指導されていた。
「いつか空襲、敵機が飛来したら、爆風で飛ばされないよう身近のタコツボにとび込め、
そして両手の3本指で、目玉が飛び出さないよう、目を押さえよ、小指を鼻の穴に突っ込め、親
指で鼓膜が破られないよう、耳の穴を塞げよ、そして口は一文字にしっかり結び」、と。
 そして実際にこの訓練が試されるつらい日がやってきた。
 敵機の見えない警戒警報に慣れっこになっていたが、この日、突如、空襲警報が発せられ、校舎裏の山際から暗い点が黒い塊りとなって降り注いできた。
 敵機だ!?間髪入れず、パン、パン、パーン。タン、タン、ターンと機銃掃射のけたたましい音が校舎近くの畑を揺るがせ、名田、長浜方面の海軍工廠地帯をめがけて襲撃を加え、通り魔のごとく飛び去っていった。
 タコツボから這い出した私の目に映ったものは、爆弾投下により校庭の一隅にえぐりぬかれてできた小池の凄さと陽光を遮えぎる砲弾煙幕と舞い上がる砂塵がつくった暗い空であった。
 二度とこんなことがないよう祈った。そんなに長い時間ではなかったかも知れぬが、この恐怖に耐えた身には気の遠くなるほどの長い時間に感ぜられた。
 タコツボの中の私は、よく訓練されたポーズを取り、最小限に身を縮め、サッカーボールのように背を丸めて小さくなり潜み、息を殺していた。
ーー蛸壷の入り口から約30センチ直下に私の頭があり、この危機一髪の状況下、私の頭何を考え、何を願っていたことか。
 確かに爆風から逃れることはできたが、この私のタコツボに爆弾炸裂の鉄の破片が降ってきたら、もし運悪く機銃弾が命中したら?、致命的な恐怖におそわれた。
 タコツボに入ったことが悔やまれた。身動きのできない、「逃避」できない我が身がもどかしく震えた。
 この頭上30センチの空間がとても気がかりとなり、怖かった。1ヶ所しか無い掩蓋壕に入れてもらえていたら、こんな心配もしなくてすんだのに、恨んだりもした。
 でも一つのひらめきが湧いてきた。教科書の入ったカバンは相当な厚みがあることに気づき、それを頭の上に置き被った。30センチの空間のおののきがホッと緩んだ。
 今流行りの危機管理のノウハウの小さな一つの知恵であった。私はかすり傷一つ大事もなく、タコツボから無事脱出、そして生還できたのである。
 タコツボは私にとって、実に窮屈で、恐怖の穴であったが、こうして生き抜く力を与えてくれた感動を溢れる生命の恩人であった。
 やがて中学生にも学徒動員令が下され、私達は名田、長浜地区にある海軍工廠で働くことになった。
 旋盤の操作やグラインダー回し方を教えられたが、まもなく工廠裏の名田の山に防空壕を掘る作業に廻され、連日、血豆をこしらえながら、小さなスコップで掘り続けた。
 この山に穴をしかも頑丈な横穴壕だ。力がみなぎった。校舎のタコツボに比べ、安全度数千倍の威力を保証してくれる穴だ。
 竹の根が縦横に走り大樹が枝を張った自然の大掩蓋壕がここにあるのだ。そう思うと、血豆もなんのその命ぜられた長さ以上のもの掘ろうと頑張った。
 一方、建設機械で構築された巨大な横穴壕があり、そこを見学させてもらった。煌々と電気に照らされた旋盤やフライス盤が、休みなく鉄を削っていった。
 意気軒昂な工員さんたちが、「今度、敵機が来たら、ここに入れよ!何トン爆弾だってへっちゃらだ。びくともしないぞ!」と励ましてくれた。
 涙が出るほど嬉しかった、安堵の気持ちが溢れた。平和という甘ちょろい言葉は一度も語られなかったが、どうしても!生きたいと願う心の言葉が少年たちの胸の中で語り合わされていた。
 昨秋、私が久方ぶりに呉れを訪れ、長浜の坂道を歩いてみた。11空廠跡付近の山端に横穴式防空壕が残っていた。
『11空廠付近の防空壕跡』
ーーここで頑張って生きてきたのだ!だからこそ!今日の平和があるのだと思われた。
 注 呉を離れて半世紀になりますが、
   多感な少年時代を過ごした日々は
   現在も鮮明に生きています。


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