「奪われた青春、戦(いくさ)忘れない」

                                       広本 積

1、艦載機の空襲

 3月19日、朝から快晴の青空だったが突然、空襲警報のサイレンが鳴りつづき、グラマン艦載機の大編隊が、空が真っ黒くなるくらいに灰ヶ峰を越えて、超低空で攻撃してきた。
 呉港に繋留されている軍艦から撃つ高角砲や、機銃が猛烈に火を噴き、上空が見えないほどの弾幕を張った。
 しかし艦載機はまるで鳥が舞い下りるように、一機ずつ港の軍艦に向かって機銃掃射をかけて飛び去る。
 機上の若いパイロットはまるでスポーツ感覚で、白いマフラーをなびかせながら降下していく。
 住んでいた東辰川町の家の庭の、防空壕の入り口から空を見上げている私に向かって、瞬間、トンボ眼鏡の兵隊が笑顔で手を振るのが見えた。
 怖かったが何か心が和んだ。艦載機の大編隊、パイロットの白いマフラー、手を振ったトンボ眼鏡のアメリカ兵の様子は、今でもありありと目にうかべることができる。
 庭にはレーダー妨害のスズの金属片がシュルシュルと落ちてきた。家の隣の地蔵堂には時限装置の付いたような小さい爆弾が落ちて、近所の皆が騒いだが不発弾だった。
夕方、潜水艦の将校さんから戦況を聞き、尊い人命がたくさん犠牲になったことを知り、戦争とは悲惨過ぎる悲劇だとおもった。
 翌日、本通小学校の講堂だったと思うが、米軍の艦載機の破片や、落下傘、パイロットの肉片などが展示されていて無惨な光景がみられた。

2、呉市街の大空襲

 灰ヶ峰の中腹に段畠がかさなっていて、その麓に狭い横道が東西に長く続いている。
 昭和20年7月1日の晩、空襲警報が鳴り響き、多くの市民や軍人、徴用工員等が狭い横道に溢れるほど避難して来ていた。
 私は当時14才で、末の妹を背負い弟の手を引いた母と共に、父が一生懸命に掘った段畠の、横穴防空壕に退避した。
 夜中から早朝にかけて、米軍のB29爆撃機約80機が、高度3,OOOメートル位の上空を編隊を組み、ゆうゆうと飛来してきた。
 その光景は恐怖と憎しみを持って見上げる目に、整然として美しくさえあった。
 照明弾が投下され、あたりは真昼のような明るさになった。
 すぐ猛烈な爆風と共に、ザーザーと空全体から、雨、霰のように焼夷弾が落ちてきた。高度300メートル付近で親爆弾が炸裂し、子爆弾が落下してくる。
 六角形の弾尾にみどりの短い布をつけた焼夷弾が落下するのだ。
 市内は忽ち火の海になり避難の人々が次々と山麓に逃げてきた。
 母は海軍工廠にいる兄の安否をしきりに心配し続けたが、消息を知る手だてもなく涙はとまらなかった。
 段畠には、はずれた焼夷筒が幾本か落ちてきて、子供ながら手を震わせ砂をかけて消した。
 狭い横道は大勢の人々であふれるほどであったが、若い徴用工員が「帝国海軍軍人は下山して消火活動に従事して下さい」と、連呼しながら避難の人をかきわけて歩いていたが、軍人で下山した人は見あたらなかった。
 暗い小道の隅で海軍の将校らしい人が、煙草を吸う赤い火が点いたり消えたりしていて、子供心にこの戦争は勝てないと痛感した。
 辰川小学校のすぐ近くにあった我が家は、屋根に落下した焼夷弾を父の素早い処理で火災をまぬかれた。
 明け方、荒神小学校付近まで行くと、火勢が強く、懸命に消火作業をされている人々に感動した。
 一夜で焦土と化した市内をさ迷いながら歩いた。二河川には不発の油脂焼夷弾や、焼夷筒がたくさん落下していて驚いた。
 市内にどれほどの焼夷弾が投下されたのだろうかとおののいた。
 罹災から一週間位経つと焼け跡にバラックが急造され、日暮れには庭で、男の人が裸になって、行水している異様な姿も見られた。
 焼け野原の街に、食料が不足していて、鉄道草や、芋の葉、脱脂とうもろこし、それに砂糖で作ったカルメ焼などを常食した。
 物物交換で母の着物などほとんど無く、米やさつま芋などは、遠くの田舎まで買い出しに行ったが、ゆずってもらえる物は少なく、徒労におわることが多かった。

3、原爆、枕崎台風

 8月6日8時15分、呉の西側山稜に閃光が走り、窓が音を立ててゆれた。広島に原爆が投下されたのだ。広島の街は全滅したとの噂がたった。
 午後3時頃、近所の娘さんが全身に包帯を巻いた姿で帰ってこられた。女子挺身隊として広島駅で被爆されたらしい。
 死体を担架で運んでこられた男の人の顔に涙が流れていたのが印象的だった。
 私は当時、勤労動員で、国鉄の広島機関区に行っていたが、機関車の連結棒が足に落ち、自宅で療養していたが、永くなったので一度職場に行こうと思っていた。
 8月15日、被爆直後の広島はまだ瓦礫の山ばかりだった。焦土と化した街を彷徨しながら敗戦を知った。
 9月19日、戦災で壊滅的打撃をうけた呉の街に、枕崎台風が襲来した。台風の余波がいたるところで山津波を起こし、私の家も庭の前を鉄砲水が流出し、上流の人や壊れた家、家具などが押し流されていった。
 若い女の人の裸体に、一筋の鼻血が流れていたのを鮮やかにおぼえている。水死の遺体3体がトタン板にかさねられ、河原で茶毘に付される様子は、まるで地獄絵図のようだった。
 戦後の混乱期、飢餓に苦しみ、物資の欠乏に耐え抜いてきた青春の日々が懐かしく、微々たる体験記を書いてみました。




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