「呉空襲と父の死」

                      小瀬利治

 「西部軍管区情報、西部軍管区情報・・・・多数の梯団よりなる敵小型機が、愛媛県南部を北進中ー」

 昭和20年3月19日朝、我が家のラジオが緊追した声で敵機襲来を放送した。私は直感的に、今度は呉だ、呉に来ると思った。
 間もなく、空襲管報のサイレンが鳴った。
 2,3日前から、米海軍58機動部隊が、土佐沖を遊弋しているとの報道がなされていたので、その名称はしっかり頭に入っていた。
 昨18日のこの機動部隊の動向と、今朝(3月19日)の酉部軍管区情報を重ねると、多数の梯団とは大編隊、小型機とは艦載機に違いない。
 つまり、58機動部隊の空母から発進した艦載機の大編隊が、豊後水道を北へ向かっているのだ。小学校6年生の私も、戦時下で生きていく中で、自分なりにそう判断した。
 昭和20年1月以降、時折呉にもB29が偵察に来襲し、その度に空襲警報のサイレンが鳴った。然し、敵機は1万メートルの上空を、1機で飛んで来たので、余り危険を感じなかった。
 其の頃から他の主要都市は次第にB29の本格的空襲に見舞われ始めた。
呉もやがて、大規模な空襲を受けるだろう。なにしろ、呉鎮守府の軍港だからなあと、新聞を見ながら考えていた。

 当時の我が家は、父が古物骨董の売買、土地建物の仲介業を営んでいた。母は海軍工廠物資部に勤務、姉は海軍軍属としてジャワのスラバヤに派遣されていた。
 3月19日の朝も、母は5時半に家を出て海軍工廠に行つた。私は、艦載機の大編隊が来襲するのだから、今迄の空襲とは違うぞと覚悟した。
 敵機も速いはずだ、早く避難しなければと考え、サイレンを聴くと直ぐ父に「防空壕に早く行こう」と強く言った。
 明治24年生まれの父は、気が強くて、逃げるのは卑怯者のする事だと思っている人だった。私は、一刻も早く危険から逃れて欲しかづた。それで、逆効果にならぬ様、言葉を選んだ。
 然し、生来の強気の上に、海軍の防備の強固な呉軍港には、そんなに易々と敵機も来襲出来ないだろうとの思いこみがあったに違いない。
「お前は先に行っとれ、わしは後から行く」と慌てた様子もなく答えた。そうこうする内に、近所の人達は、防空頭巾を被り、手に座布団や避難袋を持ってどんどん防空境へ急いでいる。
「そんならぼくは先に行くよ。直ぐ来てよ」と防空頭を被り家を出た。それが父との今生の別れとなった。

 防空壕は家から100メートル位の場所に在り、3、40人くらいは収容出来る横穴式の壕だった。
 中に入ると、奥の方は灯りが薄すらと見えたが、私の周囲は人の顔も見分けがつがず、声だけが頼りだった。お互いに名前を呼ぴ、無事を確かめ合っていた。
 私は新聞紙を敷いて、黙って腰を下ろした。20分か30分位経った頃、急に「ダダーン、ダダダ、ダダーン、ダダダ」と猛烈な対空砲火の音が、壕内に響いて来た。
 四方八方から射っている感じだった。息急き切って、数人の男の人が、壕内にころがり込んで来た。
 然し、その中に父の姿はない。どうしているんだ、こんなに大砲や機銃を射っているのにと不安になった。
 今迄、言葉では胸さわぎという表現は知っていたが、この気持ちがそうなのかと実感した。今は戦争なのだとひしひしと思った。

 5分か10分位、対空砲火が続いた頃、「ドガーン」という物凄い爆発音がして、防空壕の天井から砂が「ドサッ」と落ちて来た。
 薄っすらとした灯りも消え、壕内は真っ暗になった。外は「ダダーン、ダダダソ」という対空砲火の響きが、益々激しくなっていく。
 私達は、全員黙ってしやがんでいた。灯りが又点されて、ほっとした。砲声がまばらになった頃、又、2、3人の人が壕内に入って来た。
 その中に、我が家から3、4軒向かい側の、田中の貞ちゃん(小学校の同級生)のお父さんがいた。
 私は急いで、「父を見ませんでしたか、まだ防空壕に避難して来ないのです」と尋ねた。 貞ちゃんのお父さんは「なあーに、心配せんでもええー、ちょっと怪我をしとるけえー、学校へ行った」と話して呉れた。
 私はああー、怪我の手当に学校へ行ったんか、それで防空壕へ来なかったんだと気持ちが落ち着いた。
 午前11時、敵機が去ったのだろう、辺りが静かになった。間もなく警防団の人から、私達の隣保班の者は、全員帰宅する様にと通知があった。
 壕の外へ出て見ると辺りはシーンとしていて、私達以外、誰も歩いていなかった。我が家の方角を見ると、周りの様子がまるっきり変わっているではないか。
 2,3時間前に家を出る時は、バス道路に面して我が家と数軒の家は、軒を連ねて建っていた。今見ると無い。どうなっているんだ。一瞬、全く訳が判らなかった。
 日ごろ見慣れた風景は、数軒の家と塀を境に、4階建ての小学校の枝舎が親子の様に立っている構図だった。
 今は、それが校舎だけ淋しく立っている感じである。近づくと被害が鮮明になった。
 我が家に面した鉄筋コンクリート校舎の壁面が2メートル位の円形に吹き飛び、内部が剥き出ていた。4階の講堂の床の一部は折れて、3階の教室に垂れ下がっていた。
 我が家や他の家ほ木造だったので、家の内部が吹き飛ぴ、屋根がその上に覆い被さっていた。ああ爆弾が落ちたんだと判った。
 防空壕でしゃがんでいると、「ドガーン」と物凄い音がして壕内が揺れた時があった。あれが爆撃の瞬間だったのだ。まさか我が家に爆弾が落ちるとは…。何と言うことだ。
 父はどんな怪我をしたのかと、又不安になつた。どうしようと、周りをウロウロとしていると、母が海軍工廠から帰って来た。
 私の姿を見て母は「お父ちやんが死んだんよ」と言いながら、父の死亡診断書を見せた。それには「小瀬音八即死、死亡時刻、昭和二十年三月十九日午前九時五分」と書かれてあった。
 壕内で、貞ちゃんのお父さんが、「怪我をしたので学校へ行った」と返事をしたのは、 私を心配させまいとする咄嗟のウソと気付いた。
 私は、急に力が抜けてしまった。体がフワフワして、何も考えられなくなった。宮原小学校1階のコンクリートの土間までどの様に行つたのか、全く憶えていない。
 我が家の瓦礫の山のシーンから、次の映像が抜け落ちて、いきなり、菰を掛けられて横たわっている父の遺体のシーンに変わった感じだつた。
 菰を除けると、防空頭巾を被ったまま、顔を血だらけにした父の顔が目に入った。  遺体は、国民服に巻脚半の服装で、叭(かます)の上に寝かされていた。何故か、左足の靴が脱げていた。駆け付けて来た親戚の人が、学校からバケツを借りて来て呉れた。
 母は私に「利ちゃん、一緒にお父ちゃんの体を洗おう」と言った。最初に防空頭巾の紐を解いた。
 頭巾を脱がそうとして内側を見ると、ドロッとしたどす黒い血が大量に溜まっているではないか。私は怖くなり、手が動かなくなった。
 「血がいッパい出とる。ぼくはようせん」と母に任せた。
 母は気丈に頭巾をそっと丸め、付いている紐を縛ったうえ布切れにくるんで処理した。 国民服や下着も全部脱がせて、遺体を水で洗った。
 血だらけの頭や額を丁寧に洗うと、普段と変わらぬ父の顔になった。
 よく見ると銀歯がのぞいて、「二コッ」と微笑んでいる様に見えた。母も「お父ちゃんが笑っている。楽に死んだんじゃね。良かったね」と言いながら父の体を洗った。
 爆弾の破片は防空頭巾を突き破り、頭を貫通していた。
 小学校の防空演習では、空襲警報がなったら必ず防空頭巾を被って退避しなさいと教えられた。
 然し、防空頭巾は何の役にも立たなかった。敵に向かって竹槍の訓練をしたのと同じことだったのだ。
 破片は左足の膝を貫通し、足がブラブラになっていた。他に、右の太ももに一箇所小さな傷があった。結局、父は頭の貫通が致命傷だったのだろう。
 隣保班の人の話では、敵機の落とした爆弾で、父を含め4人が死んだとの事だった。
 気の毒なのは、その中の15才の娘さんのことだった。首がちぎれとぴ、両親がその首を探したが見付かっていないらしい。
 其の晩は急場のことでもあり、泊まる場所もない。死んだ4人の通夜は、宮原の正円寺で行うことになった。
 警戒警報発令中でもあり、真っ暗な中での通夜になった。4人遺体は、本堂の回り廊下に安置された。
 翌朝、父の棺桶の下を見ると、隙間から滴り落ちたのだろう、廊下にべっとりと血がついていた。急いで布で拭いたが、血の跡がなかなか消えず困った。
 他の方の遺体はどうなっているのだろうと思い、そっと娘さんの遺体を見た。
 ちぎれた彼女の首の部分には、薄茶色や灰色がかった緑色等の何種類かの布地を丸めて、顔の形に調えられていた。
 悲惨な死に方をした彼女の御両親は、さぞつらかったのだろう。せめて首の代わりを拵えてでも、葬りたいとの親心が、ひしひしと感じられた。
 合同の葬儀は、通夜に引き継ぎ、正円寺で行われた。親戚の住職も参列読経して呉れる等盛大だった。後の空襲の場合に較べて、有難いことだったと思う。
 其の後は暫く、親戚の家に母と2人で世話になった。次いで、近くの家を借りることが出來、やっと落ち着いた生活を取り戻せた。
 其の間に聞いた人の噂では、私の家の親戚と名乗る者が、離れた場所に疎開してあつた我が家の品物を、爆撃のどさくさにまぎれて大八車で、運び去ったそうである。
 親戚の人々に真偽を確かめたが、誰もそんなことはしていなかった。結局、事実は判らず仕舞いだった。もし事実とすれば「火事場泥棒ならぬ、空き巣泥捧」も現われたのかと、一人苦笑した。
 私は3月19日の空襲後、学校に登校していない。今だに卒業式がどうなうたのかは知らない。多分行われなかったのではないかと思う。卒業証書も受け取っていない。
 いまさら宮原小学校の卒業証書を貰っても仕方ないとは考えるが、一抹の寂しさは禁じえない。



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