「呉初空襲」

                                       竹本博治

 この日、昭和20年3月19日朝、私は当時、広第11海軍航空省、飛行機部の「40工場」にいました。500メートルくらい先の海岸は、呉海軍航空隊でした。
 突然、空襲警報が鳴り響いた。一瞬、鳴りをひそめた。不気味でした。
 裏に出て、ふと見上げると、野呂山の上空に黒いものが、からすかな、とんびかな、と見ているうちに、ぐんぐん大きく迫ってきた。
 まだ実感は無かった。いつも目の前で、水上機の離着水訓練が行われていましたから。  だが色が黒いパイロットの顔が見えるぐらいになった。
 その瞬間、シューと2発のロケットが赤い炎の尾を引いた。とたん、空襲と頭をよぎる。  ド-ン、もう足が地につかない。小さな退避壕に殺到。ひしめく人々の膝はがくがく。声も出ませんでした。
 続く爆発音、機銃掃射に不安でいっぱいでした。空襲の合間をぬって、黄幡山の随道工場に走り込みました。
 空襲警報解除になり、戻ってみると、前の工場の入り口付近の鉄骨は、ひんまがり、トタンも吹き飛び、ぶら下がって、風にパッタン、パッタン。初の体験でした。
 広湾の黄幡沖の海岸に、撃墜されたグラマンの濃紺の残骸が放置されていました。
 呉・広地区の初空襲は、呉航空隊の庁舎、水上機、格納庫の第1弾からと思っており、あのシューと赤い炎は戦争、そして数次にわたる被爆の悲惨さを忘れることなく、今でも鮮明に覚えています。


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