「飢えていた私達」

『江田島兵器庫で火薬の装填』                    奥本美和子

 私の小学校、女学校、青春時代全て戦争と関わっていました。爆弾・空襲にも遭い、幼い弟を体の下にして伏せ、B29から逃れたこともありますが、書き切れないので、飢えていた事を主に書きます。
『家族』

1、母と妹や弟の飢え
母は私を頭に、年子を含めて7人の子を持っていました。私が小学3年生頃にはもう食べ物がどんどん少なくなってきていたのでしょう、母は何か美味しいものが手に入っても、食べようとしなかったので、
「大人は甘いものが嫌いなんだ…」と長い間勘違いして、子共たちだけで分け合って食べていました。
私達小学生の「おやつ」は、野山の木や草で、食べられるものは、何でも口に入れていました。
今、食べられるものとして皆が食べている果物はもちろん、次のようなものが当時の「おやつ」です。
小学二年生くらいの時には、まだ少しは、甘いものがあって、祭りにはハマグリへ入れたニッケイや赤いひょうたんビンに入った砂糖水等を買ったように思います。
その中、支那事変が始まり、遠足の弁当は「日の丸弁当」ということになりました。梅干し一個ではおかずが足りないので、隠して二個にした女親いて、その頃からずるい女親の方が、子共にとって得だった事が後になると分かりました。
『遠足』
「欲しがりません勝つまでは」、「生めよ、増やせよ、子宝を」
国策で奨励しながらその子宝に飲ますミルクの配給は段だんと無くなり、横流しで赤ん坊の口まで届かなくなったのです。乳の出ない母は、一握りの米を水に落とし、薄白い、重湯を作って赤ん坊に飲ませていました。卵も牛乳も果物も野菜も何もない。
あの頃、女親は一体赤ん坊に、何を飲ませることができたのでしょうか。しかも、ひもじがっている子がその上に6人もいたら、…。
『貧しい食事』
幸いと言うか、女学校の寄宿舎に入った長女の私は、同室の者にいじめられながらも、口へ入れるものはどうにかありました。
母にとっては、口が一人減ったわけで、後の6人のために、多分、あちこち頭を下げた違いありません。一人娘で育った幸せな女学生の頃の着物を米と取り替えたのかもしれません。
戦局が拡大するにつれて、配給はますます少なくなり、「麦ごはん」の中は良かったのですが、米がほとんど配給されなくなると、「おかゆ」になり、しまいには、水ばっかりの「おも湯」それから、「草入り雑炊」、「ヨモギの干したのが主食」となりました。
当時、ちゃんと食べていた人も居たらしく、「お百姓さん」と呼ばれる生産者から、いくらでもヤミ米、ヤミ物資の手に入る特殊な人びととか、野坂昭如氏氏の「蛍」を見ると、その頃の田舎の様子がよくわかります。
この「分けてやるわい」、という感じは、戦後もずーっと残っていました。
7人の子供のうち、下の3人が男の子で、どこの家でも国防の兵士になる男の子は大切にし、女の子は仕事をしっかりやらせて、男の子には真っ先に食べさせ、我々女の子は残り物を食べるのが普通でした。
それでも男の子の栄養は良くならず、1番下の赤ん坊は、眼ばかり大きくて、ある日、母親の留守の間に、小学3年生の妹がおもゆをチューチュー吸わせていて、途中で吸う力がなくなり、ポトッと口から離して、そのまま死んでしまいました。
『弟の死』
私がおも湯を温めてやらんかったけん、貴博が死んだ、と泣いて妹はその後も、ずっと心の底で思い続けていたらしく、我が子に貴の一字をとって貴子と名付けました。
あれからもう62年、ひもじかった事もだんだん薄れましたが、決まってやって来る捨て犬が、やせて尻尾をたれ、おどおどと私を見あげるのを見ると、哀れで、何んとか「殺処理」から救ってやりたくて、しかも、子犬を生んでいたりすると、もう辛くてなりません。7人の子を抱えて飢えていた、あの頃の母の姿と重なるのです。

動員の私達の上、飢え死に

家族の「飢え」のことばかり書きましたが、動員に出ていた私も同じに、ひもじい毎日でした。
お弁当のおかずは、芋のつると言っても葉柄でなく横に這っている硬いほうのつるでした。芋のつるの中にご飯粒と大豆の搾りかすで、太い茎以外には、おかずは無かったように思います。
塩味だけでも飢えていて、しかも食べ盛りの私達には、十分美味しかったのですが。問題はそれがとっても少なく、木で作った丈夫な弁当箱の厚さが、学徒のは3センチ位しかなく、一般のは、それより一センチ以上厚かったので、中身はうんと違いました。
中尉さん、少尉さん達は「トンカツやオムレツなんだ」と、弁当を船で運んでくる係の人から聞き、でも、それは当たり前と思っていましたが、工員さんのことは、同じ場所で同じ仕事をしているのに、と時に思うこともありました。
しかも、学徒は高い月謝を払って、学問のために来ていて、労働させられ、その上、お金は一切支払われずに、何処かへ貯金してあるということでしたが、終戦後、「取りに来るように」と通知があった時には、ひどいインフレで、お金をとりに行く汽車賃金の方が、貰うお金より多くつくので、ばからしくて誰も行かなかったのではないでしょうか。
『大久野島毒ガス作業』
我われ学徒が危険な毒ガスの島大久野島から、これまた恐ろしい爆薬の島江田島へ通って、トロッコで運び出しては、図面を見て装填し、これを30センチ以上から落とすと手首がもげる、と言われる程の危険な目にあっていた時、不思議に女の先生の姿の記憶がないのです。
20代の若い先生が多く、工員さんたちと一緒にさせてはいけなかったのかも知れません。
この「腕にイレズミをした怖い工員さん」と思われていた人達は、見かけによらず優しく、面白い人達で、トロッコから火薬を下ろし終えると、よく休憩させてくれて、話を聞かせてくれました。顔がやけどを負ったような工員さんの話は特に面白く、懐かしく思い出します。
『江田島兵器庫で火薬の装填』
江田島兵器庫で、火薬の装填をする第3装填の他に、第二装填、第一装填、会計と分かれていて、第3が1番重労働で、危険な仕事だと工員さんから聞かされ、何んとなく、あらくれた感じのする人が多かったせいもあって、私は、その分け方を先生方に聞きたいと思っていました。
成績の良い子が会計に行って、後は順にということで、我々第3装填のものは、1番頭のよくない、体力だけではある者か、或は親が出す米や物資を持たなかったからかだ、などと囁き合っていました。
実際、百姓でいろいろ持っている家の子は、その頃、見ることも出来ないような甘いものを持っていたり、お芋のゆがいて干したのを持っていたりして、我々をうらやましがらせました。
寮での食事は、茶碗に一ぱいの大豆カスご飯で、大事に大事に食べてもすぐなくなるくらい軽く盛り付け、量に差が無いように、当番は気を配りました。
ある時、「泉に沿いて、茂る菩提樹・・・」と歌が聞こえて、見ると、それは姉さんが専門学校に行ってるという子が歌っているのでした。私は体がビリビリとふるえたようになりました。なんという美しい神々しいような歌なのでしょう。今までこんな歌は聞いた事がありませんでした。
「その次は?、その次を歌って」、するとその子は、「知らん、教えん・・・」と意地悪に黙ってしまって、何度もしつこくに哀願する私に、イク、「「今晩のご飯をくれたらね。」と、見下ろした様子で言いました。
今の人達にはばかばかしい話で、笑ってしまうでしょうが、あの頃どんなに飢えていたか。働いて帰っての大切な「1膳飯」だったか。結局、その夕食の代わりに、曲の続きをさっと一回歌ってくれて、それで終わりでした。
飢えていたのは、体の食べ物だけでなく、心の方も同じで、終戦後は、さーっと、何か自由な光が差し込んできたような、解放された時代がしばらくあって、食糧難は依然として続いていましたが、心の方は幸せでした。
私達の憧れは、凛々しく若々しい少尉殿で、朝行進して仕事に就くとき、たまに出会うと代表が、「歩調とれ!」「頭右!」と声をかけます。すると私達は一斉に頭を少尉殿の方に向け、敬礼しながら、足を高くあげて歩きます。
すると彼は日に焼けた、引き締まった顔をすこしほころばせて、白い手袋の右手をすうっと美しい角度で、紺の軍帽の前びさしに当て、キリッとしまった横顔とあごの線を残してすれ違って去ります。
やがて神となられる方とのただ一瞬の出会い、それだけでい私達はとても幸せでした。

天空に散って行った少年の思い出
ある夏の日、小学校5年生の妹と、海辺の家に来ていた時、追いかけっこの笑い声が聞こえて、背の高い少年が現れました。
遠い岐阜県から、兄のいる呉市近くへ来ていたのだと聞きました。当時は、若い男女は話してはいけない時代だったのですが、私達キリちゃんという子と3人で、波止場に行き、文学、美術、いろんな話をしました。
『青春の一時』
「荻原井泉水」という名前を「せいせんすい」と主張する私。「おぎはらい、せいすい」だという少年、遠く盆踊りの大陸が聞こえて、夜光虫がキラキラと輝いていました。
何ヶ月かたって少年は、卵をいっぱい詰めた箱を持って、私の家を訪ねて来てくれました。
航空隊へ入ることが決まって、お別れにきたのでしょうが。ちょうど肺炎で入院していた私は、会うことが出来ませんでしたので、少年は、4里の道をまた帰っていき、その後、航空兵になったと聞きました。終戦になっても便りがなく、きっと若い命をお国に捧げたに違いありません。
飢えていた幼い弟や妹に、卵は宝で、少年はどうやって、その貴重な卵を手に入れたのでしょう。
今、私の手元には「世界美術全集」が2冊とトルストイの「復活」とが残っています。次の歌と共に、彼のくれた大切な形見です。
「寄る波を 石もて砕きし秋の夜の 夜光虫の光 懐かし…」
76歳になった私の胸の中に、今も決して消えない姿

飢えた子を抱えて苦しむ母の姿
若い命を大空に散らしたあの少年の最後の姿(想像のみ)
私はそれをテラコッタとして、この世に残しました。
「ひとすじに思い定めて君は今、幼き命 天空に断つ。」

動員中及び動員後、私のかかった病気は次の通りです。
1、江田島動員中ジフテリーで入院、2、急性肺炎で入院、3、腸チフスで入院、4、肝炎、5、腸結核で入院、6、しょう紅熱で入院、7、慢性気管支炎で通院、8、結核性腹膜炎で入院、9、糖尿病、10、白内障、11、くも膜下出血で入院、12、椎骨脳底動脈流不全で入院、13、左顔面麻痺で入院。
大久野島での毒ガスの作業が、その後のこんな病気を引き起こしたのか、どうか分かりませんが、イペリットやルイサイトとだという、丸い袋に塗りつけたのはシンナー系の臭いでした。


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