「戦争中の生活体験」

                            西迫マツ子
1、身も心も捧げて、
 今日よりは、顧みなくて大君の醜の御盾と出で立つ我は、あぁすめらぎの昔より、いかに神風吹かざらん。困苦はものの数ならず、必ず勝たんこの戦。
 高らかに一生懸命歌った日々。あのオウム事件で初めて聞く言葉マインドコントロール、十六歳の日々の天下未曾有の学徒動員時代、あれから六十年、歳月は瞬く間であったと思う。
 あの苦しく厳しかった日、昨日の事のように、脳裏に焼き付いている。そしてやっと今年の農閑期、一冊でも多くと、男達の大和、鎮魂戦艦大和などに始まり、戦艦武蔵、信濃、陸軍、満州の引き揚げ、シベリア抑留など、多くの戦記物を読むことができた。
 あれ程一心に作った軍需品も届かず、また皇軍の食料が送られず、餓死した英霊たち。何と何と悲惨な戦争だったことか。そして生きたくても生きられなかった数多の犠牲者。
 幸いに、健存のクラスメートは集まって、呉海軍墓地慰霊式に参加することに回を重ねている。
2、訓示と出発
 昭和十九年、さあ、最高学年、頑張るぞと、張り切って進級した女学校四年生の六月始め、校長は、或る日、国家の現状に鑑み、今日は皆さんに学徒動員令が下った。
 六月十二日は出発。行き先は呉海軍工廠と伝達され、翌日身体検査。そのまで残留の者、動員の者と決まり、寄宿生の私達は直ちに荷物を整理し、帰省してくるよう伝えられ、
急急ぎその日のうちに友と山越えして、翌日モンペを作るための母の嫁入りの時の縞の着物を解いて、急ぎ帰校。
 家庭科先生の指導で、モンペを縫い上げ身につけて、先生方、残留の方、下級生に見送られ、大きな工廠のトラックに乗り、呉海軍工廠狩留賀(現・吉浦中学校)女子寄宿舎に到着。
 夕方までに県内外の各校の学徒続々と、あまりの多さに驚きながらもお国の為に負けないよう頑張らなくちゃぁと、緊張のうちの入舎となった。
3、動員生活
 寄宿舎では一斉に起床ラッパに始まり、点呼、清掃、朝礼、国旗掲揚、東方遥拝、食事片づけ、整列、出発。
 全て軍隊式で、海軍マークの桜に錨の縫いつけた白い鉢巻きをキリッと締めて、舎監をはじめ、職員方の見送りは、歩調とれっに始まり、校名、何名と、隊長報告。
 各校毎に隊列を整え、学徒動員の歌、数々の軍歌を歌いながらの行進で、夕方帰舎も同じでした。

 初日、本廠の大講堂で、女学生、中学生合同の入廠式、講話、適性検査、廠内見学。特に初めて見る大きな工廠、大勢の人々に驚きながらも、国の為に働ける事を喜び、頑張ろうねと話し合い、また、心引き締まる思いでした。
そ れから配属は射的場、ミシン場、切串火薬工場と二転三転したが、呉海軍工廠火口部、第二装填切串火薬工場が長く、最後の職場でした。
 火工部の営門を入ると、波止場まで行進、乗船、うるめ島を廻り、切串工場の波止場に到着、下船。
 また、朝礼があり、点呼訓示と東方遥拝、高い土手に囲まれた○印の作業に入り、手榴弾、棒地雷に火薬をつめるのが女学生の仕事で、
危険な為、常に上官、上司が見廻られ、緊張の連続の作業で、女工さん、徴用工員さんにも慣れてくると手足を真黄色にして働いておられるの垣間見て、尋ねてみました。
 大きくて、ねずみ色のは爆雷で、敵潜水艦を沈める弾で、棒地雷は敵戦車が上陸してくるのを爆破し、手榴弾は敵をやっつける為で、皆、そーっとこうして理由を聞くと、なお一層、お国の為、この聖戦に勝つ迄は、本当に一心不乱、火の玉となって働きました。
 弁当は長方形の斑点のある汚ならしい木箱で、米は数えるほど、麦、高粱入り、塩昆布、鰊、平大根、少々のたくあんが、あったりなかったりの、
いつも空腹で、「先に水を一杯飲んで、それから弁当を食べる」などと話し合ったり、それでも「欲しがりません、勝つまでは」と、身も心も捧げ尽して働いた事は、今日まで生かされてきた中で、他にないと今も思っている。
 今も思い出す朝の言葉「御陵威ノモト我等ガ赤誠ヲ込メテ、一発轟沈ノ弾トナシ、百戦不沈ノ艦トナサン」
 学びながら兵器を作ると云う最初の方針は、野外授業が二度程で、七月頃からすっかり実行されなくなった。
 学校とのつながりは、正規の先生も見えなくなり、四,五回学校に帰ったが、いつも修養、士気高揚。そして叱られたり、その中、音楽の先生の僅かの時間の授業、久しくぶりに在学中の気分に浸る。
4、昭和二十年一月一日
 輝かしい元旦の朝、鼓笛隊では横笛担当。八幡社に行き、必勝祈願。宿舎に帰った時は、腕が動かなくなっていたが、午後、宝探し、そして各校の合唱など、…また明日から国の命に従い、頑張ることを心新たにする。
 クラスメートの死
共に頑張っていた級友のMさんが病気で亡くなり、特にミシン場の時は隣り合わせで、色白き美人の上に心やさしい友で、皆悲しい思いであったが、
葬儀には参列できず、通夜には許可が出て、皆徒歩での往復。父上の泣きながらの挨拶しに共に涙する。
 後日、帰校の知らせで、土曜日の夜、徒歩で帰り、それぞれ我が家へ。私ども寄宿生は下級生が迎えてくれて家には帰れなかったが、下級生との一夜の思い出、今も昨日の事のように鮮明である。
 翌日、本堂で旧友Mさんへの読経を全校揃ってする。
5、出征兵士を送る
 男工員さんは、遠く、石川、京都、滋賀、山口各県下の方が多く、初めて接する異国の人のようで、言葉のアクセントはそれぞれ国なまり。
 面白く楽しく、今で言う心のレクリエーションにもなったが、「今日は、O君に、招集令状が来て、送別会をする。」と組長さんから聞くと、食堂は俄に送別会場となり、私ども女学生も一緒だった。
 軍歌を歌い、励まし、祝い細やかな見送る会が終わると、そのまま波止場まで行き、赤襷で手を振られる姿が、見えなくなるまで武運長久を祈りながら見送るのが常でした。
 明後日、お里の連隊に入られるそうなと云う風であった。
 その頃は、たいてい南方方面へということが多く、戦雲急を告げるようになり、ご無事なら良いはねと、そーっと友と話し合ったけど、戦後、風の便りに南方戦線で戦死されたと聞いた方三名ほど。こんな事で、海軍墓地に足が向いているのです。
6、皆で大和を送る
 その日、その時間、必死で火薬を詰めていると、「今、大和が行くんです」と自転車で事務所から知らせくださり、厳しい掟もなんのそのとばかり、皆一斉に岸壁へとびだしていました。
 潜水艦、駆逐艦、巡洋艦に前後を守られて、ひときわ大きな大和が、もう眼前です。そして甲板からマストから前後左右、ぎっしりと白い服で整列し、白い帽子を皆こちらに向いて、懸命に振っておられ、私どもも、男女工員さん、中学生と一緒に「我が大君に」と出征兵士を見送る歌を声も届けと一生懸命歌い、手を振りました。
 広島方面に見えなくなった時、「もう大丈夫よね。大和が行ったんだもの。皆頑張ろうね。」と、なお一層励みました。
7、呉空襲
 ガダルカナル、サイパン、アッツ各島、そして沖縄までも熾烈を極め祈りもむなしく玉砕と知る。もう何度か警戒警報や解除のサイレンには慣らされていたが、食べ物も少なく、心身の消耗からか。
 疲れやすくなり、活字を追うこともなく、少しお喋りするとすぐ寝入ってしまっていた。空襲があっても寝ていようね、友と……
 昭和二十年七月一日夜半、「一人足りんと思えば、Uさんじゃが。焼け死んでええんね。」と呼び起こされ、ガバッと跳ね起き、枕元の防空頭巾と救急袋を引さっげ、駆けて行くと、
もう最後尾の者は門を出る所で、寄宿舎の西側へ一生懸命走り、やっと追いついて、防空壕へ入ろうとした時、「あれを見て、あの赤い空」と誰かが叫び、振り向くと市内の上空は真紅の色。
 そして次々と落下してくる照明弾、焼夷弾。あの夜の真っ赤な空の色は今も瞼に焼き付いている。
翌日、T先生、旧友五名は、罹災され、迎えにより退舎され、次つぎに入ってくる状況は、多数の死者、家屋の被害であり、なお一層米英に憎しみを増し、それからの作業にもまた一層心をこめて働きました。
 狩留賀寮から吉浦寄宿舎には、本年二月転舎していて、市内ではなかったことが幸いしているが、後日談が書ききれないほど状況を聞いている。
8、工廠空襲
 七月二十四日朝、いつもの様に軍歌を歌い、隊列を組み、行進でえ営門を入って間もなく、空襲警、即退避の指令があって、我が校左手防空壕へと指示してくださり、すぐに駆け込んだが、一番小さい私は最後尾。
 最早敵機は頭上に急降下してくる危機一髪であった。壕の中には、ずらっと機械が並べられ、一人一人、皆真剣に頑張っている学徒たち。
 ほっと一息、赤い毛が見えた、青い目だった、本当に鬼畜だねと言いあった。そして凄い地下工場に、私達も絶対負けないぞと話し合う間も、いつになく長く感じていたが、解除になり、波止場に行くと、呉湾に停泊していた軍艦のあちらこちらから煙が上がり、海には無数の魚が腹を返している。
 毎朝夕、船から江田島側に偽装していた艦(榛名と聞く)は横転していて、それはそれは空爆の凄さを伺がわせ、無残な様に涙こぼれ、「大丈夫なのかしら、神風はもう吹かないのかね」と、皆泣きながら話しました。
9、原爆投下
 八月六日朝、平常通り作業始めのエプロンの紐を後に結んでいて、ピカッと光り、ドンと鈍い音がして、あれっ、何っと皆作業舎からとび出して、広場へ走って行くと、
広島方面の空に、むくむくと煙が上がり異様な感じ、見ている間に散るのではなく、きのこの様な形にまとまって上がっていく。
 何かね、と口々に云っていると、工員さんが事務所から自転車で、「海田の火薬庫が爆発したそうな」と知らせて下さり、
「大変ね」と話しているところへ、「広島へピカドンと云う弾が落ちたそうな」と、第二の伝令。
 矢つぎ早やに、第三の伝令は、「新型爆弾が落とされ、広島の街は大ごとじゃ。」と、「怪我人が大勢呉の方へもぞろぞろ向かっているそうな」、「肉親が居るものは直ちに広島へ行くように」、と上官の命令を聞く。
 それでも誰一人早引きせずに「鬼畜米英をやっつけなくては」、と手榴弾、地雷に、尚士気を高めて火薬詰め作業に精出しました。
10、八月十五日
 午前中の作業を終えると、「正午、重大放送があるので、全員宿直室へ集合せよ。」と伝達があり、事務所職、男女工員方、中学生、女学生、巡邏、上官方が超満員。
 正座でぎっしり緊張してるとラジオのスイッチが入れられ、ピーピー、天佑を保有しガーガー、シャーシャー、忍び難きを忍びピュージャーよく聞こえないが、
初めて聞く天皇陛下の声に、誰も無言で真剣でした。しばらくして女工さん達がしくしく泣き出し、何となく終戦敗戦をその場の様子で感じたが、
急に上官が、「学徒は直ちに乗船せよ。」と言われ、その足で波止場へ乗船。誰も黙して語らず。
 また四列縦隊の行進で、吉浦の寄宿舎に帰ったが、放心状態で荷物の整理をし、「明日、本当に家に帰れるのね」と、ほっとし、
十六日早朝、友と吉浦駅に行き、やっとまた、満員列車に乗り、広駅で下車。七キロの道、友は十キロの道を、お互いに母が待つ我が家へと歩きました。
11、あとに
 人それぞれにドラマを抱えて、あれから六十年の歳月がたちましたが、あの動員時代ほど厳しく辛かった事は無い。天下未曾有の有事と言われる所以である。
 衣食住みな不自由で、特に食糧欠乏は耐えられず、気も狂わんばかり。
 それでも或る夜は、講堂に座し、「ソ連の婦人でさえ草を喰み、また糠パンをかじって頑張っているのですぞ。大和撫子が負けてはなりません。」と講演を聴き、
二十年三月の卒業式は、工廠の大講堂で各校から届けられた卒業証書を全学徒一斉の授与式。  若しや、ひょっと家に帰れるのではの、密かな望みも、「四年課程の卒業式は終了したが、国家の現状を鑑み、明日より専攻科生として動員、引き続き、なお一層、心して頑張るように」、工廠長の厳かな言葉であった。
 「欲しがりません勝つ迄は」と、なお、心を新たに決起した事、原爆投下の日、保健婦受験の級友二名の即死を後で知らされたこと。
 出産して我が子を抱き、「なんと我が子って、どうしてこう可愛いのだろう」。「この子を戦場に送るような事があってはならない。
 その時は、母として絶対立ち上がらねば」と、出征兵士として送られたお母さんに想いを馳せたものです。
 戦後三十三年ぶり、手を尽くして探した上官方とクラス会をもち、「今日、こうして元気で会えることは、夢ではないよなっ。
 あの詔勅を聞いた直後、手榴弾を下さい、私達は死にますと言ったので、この学徒達は、これ以上ここに居ては何をするのか分からない、折角、今まで命あったものを」と、我が身の危険も感じ、直ちに乗船退廠を命じたのだ。
 「また元気で、いつの日か会おう。さようなら、の一言も言えず、今日まで胸につかえていたのだ。」と、H中尉殿。
「皆美しくなったなぁ」と、F少尉殿の感嘆の第一声に一同泣いたり笑ったり、本当に生きていて良かったと喜びあい、感激のクラス会でした。
 身も心を捧げて、一心不乱に働いた十六歳の戦時下の日々。厳しく苦しい動員の時を経たが故に、この平和の六十年が尊く、ありがたく思われる。
 満州事変、支那事変、太平洋戦争。常に戦争と共に明け暮れた軍国少女の若き日々。総じて無知で純粋で勇敢であったのだと、ある紙上で読んだことがあるが、本当にそうであったのだと思う。
 あまたの犠牲の上にある平和に心馳せたい。
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