「県立竹原高等女学校勤労動員」

                       田中 眞左子(旧姓亀尾)

 私達女生徒に学徒勤労動員令が下ってもう六十一年がやってくる。昭和十九年女学校の4年生は動員学徒として呉の海軍工廠製鋼部の鋳造工場へ配属された。
 先ず、呉市在中の人以外は寮に入る事になり、私達は昭和十九年六月十二日、母校に昇り、壮行式の後、呉線竹原駅から先生方・町の有志の方・父兄・下級生に見送られ吉浦の駅に降り立った。有田先生、半田先生に引率され狩瑠賀へと趣いた。
 狩瑠賀寮での初めての寮生活。不安と期待と生産戦士になってこれから微力でもお国の為に頑張ろうと気迫に満ちた私達を襲ったのは、寮の部屋に一歩入ると両足にも触れ着いた蚕の大軍だった。モンペを捲り上げ、大騒ぎし、蚕が居なくなるとやっと畳の上に座ることが出来た。
 次は南京虫の襲撃。点呼を終え、やっと眠りに入った私達は、まされる事となった。夜半に目が覚めた人がパッと電気をつけ、皆が針を持って畳の合せ目や、板壁の継ぎ目に潜む南京虫退治をして再び眠りについた。
 入寮式、入廠式、身体検査、知能検査、体力テスト、作業能力検査等があって毎日が過ぎてゆき、その後作業部署の配属があり、各班に分かれると勉強会等が何日も続いて、先輩達の間に配られ、仕事をさせて頂くようになった。
 入廠初めの通勤は、吉浦−呉間は汽車で、あとは全部徒歩で職場まで通った。呉駅から眼鏡橋をくぐりそこからは南へ呉港に副って海軍工廠の本部の少し先の鋳造工場や、検査場等へ通った。
 廠内に小さな汽車があり、女子学徒もその内乗せて頂くようになった。速度は遅くても一里の道程を私達は乗せて頂いた。でも終戦まで甘えさせて頂くわけには行かなかった。又その内徒歩になった。
 入寮一ヶ月すると、両城の女子寮へ移る事になり、高台の両城中学校の校庭の東に移った。  この頃になるとたまの日曜日には付添いの、有田先生の音楽の授業で
 「山の彼方の空遠く 幸い住むと人の云う ああ我人ととめ行きて 泪さしぐみ帰り来ぬ 山の彼方の空遠く 幸い住むと人の云う」とカールブッセの詩の歌を唄ったりした。
 中山先生は竹原高女学校からはるばる私達の為に授業に来られて国語の授業が始まった。先生のお話しが遠くなったり近くなったり、目はカッと開いているのに本を持った手がゆるみ、本から手が開きとじの背表紙が机に倒れ“コツン”と音を立てる。
 それがあちこちで聞こえる様になると、中山先生は「可愛そうだからやめましょう」と言われ、それで国語の授業は終わった。
 職場から帰ると夕食後、希望者は笛等の音楽の練習があった。竹原高女からも四,五人加わったけれど、笛はスーというだけで音も出なかったので、二人くらいしか続けられなかった。
 校庭で盆踊りがある事もあった(八月十五日)。狩瑠賀寮より明るい感じだったが寮は高台なので、そこまで辿り着くまで随分曲がりの多い坂道が続いた。常には唄い乍らの行進も途切れ途切れだった。  大分仕事になれた頃、今度は夜勤が始まるから、工廠の中の工場に近い所へと又移る事となった。八月二十日に宮原通り十三丁目の宮原女子寮へ移った。
 眼下に工廠の工場が建ち並び、金属のカンカンという音、真白い蒸気を吹き出すシュッシュッという音、色んな音が上がって来る。
 その向こうに呉湾が広がり、船の行き交う音、遥か向こうの海沿いの山々の重なりに夕陽を見、今日一日の疲れが吹き飛び、呉から竹原まで各自の故郷の風景を想い、郷愁の思いに浸った。
 三度目の寮に入ると、いよいよ夜勤が始まった。女子は一日を三つに分け、一と二との作業をする。
 早出の日は夜景を頂いて暗い早朝の風が冷たく頬をさし、夕食前に寮に帰ってくる。暗くなるまで、海の方の土堤に腰をおろし、今日一日を思い遠い戦地に思いを馳せ故里を思った。
 最初の狩留賀女子寮ではこういう共同生活をした事のない私達は些細な事にも驚いた。親しい友が「来て見て、Nさんの食器洗いの早い事」という。
 友人と二人で目を瞠り、愕然とした。私達はろくに家事を手伝っていなく、「今度からはNさんのようにしようね」とこれからの寮生活に緊張した。
 二度目の両城女子寮では、工廠で身体検査があり(その内夜勤が始まるためかしら)、何人かの人達が動員解除になり女学校へ帰された。
 三度目の宮原女子寮は入った時は二十七畳に二十人余位が一部屋で急増の二階建てで、中央に一本大きな廊下があり、左右に二十七畳の部屋が十か十以上並んでいた。
 私達の学校ではざっと百余名いたが二十七帖に三室に分けられていた。夜勤が始まり、甲班と乙班と昼専の三組に分けられた。
 大空寮は長いバラック、朝日寮は元技術員養成所の教室に真ん中に座敷、左右に二段ベットがあった。
 部屋は入口に横引きドアが四枚、その下は下駄箱の為の空間があり、三十七、二十七畳で押入れと床の間があり、座机と足の高い机がいくつかあった。
押入れに荷物と床の間に敷き布団はそのまま、掛け布団は縦二つ折りにして皆のを全部重ね上げた。
 宮原女子寮は季節が変わり春になると、布団の側布を解き、大きな敷き布団の綿が竿に干してあり、綿は夜露をとるとふっくらと何日か干していた。セーターは解いて編み直し、まるで家の日常生活が寮に引越ししてきたようであった。
 そのころ親達は、大豆の炒り豆をせっせと運んできた。それは異郷の子の空腹を満たす為の幸せの豆だった。
 どういう選別だったか私は、昼専のグループになった。体の弱い人は昼専ということだった事しか覚えていないが、宮原寮に行ってから程無く早出、夜勤が始まった。
 女子学徒は深夜業はなく、一日を三分し、早出の起床は朝またぎ、食事の当番は暗い夜道を朝食のバッ缶を取りに行った。
 重さは重く、道程もあり、バッ缶の数も御飯(大豆又はドングリのかす入り)と、おつゆ(芋蔓の葉入り)も一部屋に何個だか何人で取りに行ったのか朝のあわただしさと、重くつらい思い出だけが残って思い出せない。
 食後すぐ工廠へ出動。大空寮の寮官室の東に集合。各学校の生徒・挺身隊が続々と隊伍を組み出発した。赤松原林の守衛所の前で守衛さんに敬礼し山の中腹から下へ降りていった。
 一時山の尾根がカーブになった所を通り、明け方の大きな空を眺めたら夜明け前の星の輝きに九月の気配を感じたら今度は左手に松や広葉樹の切り開いたばかりのマサ土の山道を下り右手の講堂の真横に下りて行く。
 そこからは舗装した坂道で眼下には工廠の様々な建物が沢山見える所であった。
 その頃はまだ、毎日工場の現場の入口へ入る所のスピーカーは大戦果を報じ、私達の意気を鼓舞していた。
 この坂道も尾根の下につれられ東には手摺があり、軍歌を歌いながら毎日通う道であった。  十月十一日になると夜も明け難くなり、朝は冷え冷えとしてきた。そしてだんだん夜明けが遅くなり、尾根のカーブを下る頃は、満天の星を眺め夜明け前の風は冷たく頬を震わせるようになり、講堂の横の坂道は松瀬を開いたら足元に舞う落ち葉を踏みしめるようになった。
 宮原寮に行って暫くして引率の有田先生が学校に帰られ、交替に眞田先生が来られた。
戦局も厳しくなり、下級生たちも半分は大久野島で風船爆弾の風船張り、半分は仁方辺りの工場へ学徒勤労動員で出向いていったようである。
 全校生徒が動員されるようになって、半田先生や眞田先生の交代の先生はなかなか呉には来られない日々が続いたと思う。
 先生と引率の先生方は本当に大変で、ご心配を掛けたと思う。
 学徒は、下痢が日常茶飯事で共済病院に入院したり、生理不順で医務部の注射に行ったり、肺浸潤で寮の医務室へ入室したり。
 また、金属のとろとろに溶解したのをるつぼへ入れ工員さんが運ばれる時、るつぼが割れ、学徒の仕事をしている後ろで、それが流れ出し火の海となり、数人の人が飛び散る金属の火の玉で大火傷をしたり。
 電動車に足を引かれたり、木型でのノミでの怪我で二本の指の骨までとどき、工廠の医務部へ私も付き添っていったり。先生方も大変御心配だったと思う。あの頃の事を思うと感謝に耐えない。
 それまでも度々空襲警報は鳴り響いたが、昭和二十年になると頻繁になってきた。その頃は中山先生と眞田先生が引率の先生だった。
 中山先生は甲班の先生で、昼専も夜勤の組に入れて頂き、寮に帰って早出の時は、夕食後寮の前の土堤に友人と座って夕焼けの晒の空を眺め、きらきら輝く海や蒸気でかすむ交渉を眺めていた。
 工場にも出征される方が次々にゆかれ、私達女子寮の谷を隔てた東南の男子寮から壮行式の風景が遠く眺められた。風を渡る歌声もはっきり聞き取れる。
「足音も高らかに 高らかにいざ行かん 初陣の空は晴れたり 緑なす母校の森よ
 なつかしの師よ友 さらばさらば競えこぞれ ああ栄えある学徒ああ学徒」
学業半ばに勤労動員され、今又兵役に。私達は無言で感慨無量、彼の君の御無事を願った。
 暮れなずむ谷間をふるわせて渡ってきた低い歌声は何時までも何時までも心に残り惜別の思いを深くした。
 夜の点呼が終わると、床に着くまでの二十七畳での三三五五お喋りが始まる。毎日、中山先生が部屋を訪ねられ、皆に一言何かを話して帰られる。
 女の小学生の子供さんが二人居られ、物静かな奥様を残して呉の工廠での生活は何となくお寂しそうで侘びしく見えた。
 ある夜、先生はポケットからハーモニカを出され、私達の為に吹いて下さった。よく知っている曲で、私達は一生懸命聴いた。
 真面目一筋の先生がハーモニカを吹いてくださるとは驚きであった。一曲済み、次はベースを入れると言われ、金属のピカピカした小さい筒をハーモニカにセットされ、吹き始められた。
 何時か何処かで聴いたと思っても思い出せないが、いま目の前で素敵なベースが入っているハーモニカの演奏を聴いて、私達はビックリ。あまりの美しさに我を忘れて聴き入った。
 先生の優しさがひしひしと迫る一時であった。吹き終わって「御休み」といって帰られた。
 夢のような一瞬であった。周囲との遠慮からかそんなに長くは吹いて下さらなかったけれど、六十余年たった今も昨日の事のように思い出せる。
 何時の頃か眞田先生は学校へ帰られ、中山先生と安永先生になった。
 三月十九日、五月五日、六月二十二日と、すごい空襲で不発弾で九死に一生を得た私達鋳造工場の学徒は、その頃、四国沖に来た空母からの艦載機の空襲に夜毎空襲警報が鳴り、それに備えて着の身着のままで布団にもぐり込んだ。
 夜中に響き渡る警報で飛び起きて枕元に置いた靴を履き、一階の部屋だったので、窓から飛び出し防空頭巾をかばんに下げ豪へと走りこんだ。
 三月頃になると進学の入試が始まり、七月までバラバラに進学。父上が出征され船舶要員、農業要員、日赤の看護学校へ、科学技術員養成所へ、小学校の助教に、女専へ、女子師範学校へ、広島女子高等師範学校へと次々と動員解除になって工廠から離れることになった。
 私達の班は中山先生に解除の手続きをして頂き、町の宮原通りの米穀配給所へ米穀通帳を作って頂く為に工廠から寮に帰り、それから又同伴してくださり、手続きをして頂いた。何人もの人が一々お世話になった。
 そして私の場合解除が決まって色々な手続きをして頂き、動員解除の日までの間、あの呉市街の焼夷弾空襲に遭った。
 空襲が頻繁になって今まで走りこんでいた現場のピットから、木型工場の奥の山を削岩して作った防空壕に入らせて下さる様になった。
 夜勤の現場の方や男子学徒も交替でハンマーを振るい細長い穴を何本も掘り、昼勤の人が一番にその穴に火薬を詰め爆破して奥に掘り進み、崩した岩石をモッコで前後を肩に掛け皆で外へ運び出した。
 の空いた人は交替でそれをし、私達も呼ばれると喜んで参加した。
 やがて土佐沖の米空母から艦載機が編隊で飛んで来る様になり、三月十九日の呉工廠の大空襲となり、乙班と昼専が日出勤で、防空壕に走り込んだ。
 心の中を一瞬駆け抜ける風の様な遠い遠い悪夢のような出来事が、ふっと昨日の出来事のように心の底でうずく。
 加齢と共に涙もろくなり、涙する事柄だが、絶対風化させてはならないと心の底でのたうちまわる。
 楽しい事も苦しい事も一杯ある生活の中で、あの戦いの日に私達を襲った苦しさはもう二度と子や孫に味遭わせたくない。
 人の命の尊厳を忘れず、戦争は絶対にあってはならない。綺麗な地球を守り、戦争の悲惨さを語り伝え、世界の人に真の平和になってほしい。


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