「竹原高等女学校 学徒動員について」

  狩留賀寮                木原芳枝

竹原高等女学校 学徒動員
 動員数 百三名
 狩留賀寮へ入寮 昭和19年6月12日
 配属場所 呉工廠製鋼部鋳造工場、木型工場

1、寮生活の不安と期待を襲ったのは、蚤の大群と南京虫だった。
1、1カ月後両城の寮へ。
  錨マークの鉢巻きを締め、工廠への行き帰りに、学徒動員の歌、軍歌を歌う。
  帰途の坂道は暑く、足がだるかった。
1、8月20日、宮原寮へ。
  粗末な食事、地味な作業服にて「欲しがりません、勝つまでは」の合言葉に頑張った。
1、昭和20年7月1日、B29により、宮原寮炎上消失。
  日頃の一致団結と、機敏さにより、一人の死者もなかったことがありがたい。
  再度、狩留賀寮へ8月15日終戦解散。
  学徒として1年有余生死を共に乗り越えた絆は深く、バラの青春ではなかったが、
  心の通じ合うたくさんの学友に恵まれたことに、感謝しながら心豊かに
  余生を過ごしている。

 女子動員学徒記念碑建立 女子動員学徒記念碑

1、昭和16年、女学校入学の年に、太平洋戦争勃発
1、19年6月、学徒動員令の下、呉工廠へ慣れない作業空襲など、
  生死を超えて一年有余過ごした。
1、平成7年5月、狩留賀に寄宿した島根、広島両県12校200名が、
  学徒動員50周年大会を警固屋公民館にて開催。
 この大会を機に、寄宿舎跡に記念碑をと言う事になり、小笠原市長配慮のもと、5カ月後に、記念碑建立が可能となり、題字も市長により、ご揮毫を戴き、現在の吉浦中学校校庭寄宿舎跡に4000人の元女子学徒の熱い平和への祈りを込めた碑が、静かに時勢を見守っています。

  「碑文」
 この地は、昭和19年6月から、同20年8月、終戦まで、広島、島根、愛媛三県の女学生(現在の中学2年、高校1年)約4000名が、学業半ばにして、呉海軍工廠に動員された際の寄宿舎跡である。
 私達女学生は、学徒動員令の下、何の疑心も抱かず、困苦に耐え、真摯な努力を傾けた。この事は、教育に及ぼす影響が大きなることを痛感させる。
 よって、平和教育の一助となることを願いここに記念碑を建立する。
                             平成7年12月

 短歌 「動員学徒碑によせて」

  五十年の歳月流れて古希近き 我ら発起せり学徒碑建立を

  「ああ紅の血は燃ゆる」隊列を組み、意気揚々工廠への道高らかに唱いし

  学び舎を離れて軍需工場へ 狂気の国策に操られし思春期

  兵器増産に、死線徨いたる日もありき 学徒碑建立す五十年経しいま

  今此処に成りし学徒碑の綱引きぬ 三百余名の熱き瞳を背に

  半世紀経て女子動員学徒寄宿舎跡 確かなる証の自然石なる碑

  錨マークの鉢巻凛々しき亡き友の 面影偲び仰ぐ学徒碑

  師走半ば寒空の下胸熱く 途切れつつ唱う学徒の歌を


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