「学徒動員と二度の空襲」

                           福岡都喜子

  花も蕾の若櫻 5尺の命ひっさげて 国の大事に殉ずるは、
  我ら学徒の本分ぞ ああ紅の血は燃ゆる (学徒動員の歌)

 昭和十九年(1944年)学徒動員令によって、私達女学生も、兵器増産のため軍需工場に学年ぐるみで、動員されました。
 当時、呉市広町の広海軍工廠に配属されたのです。
 6月5日より1週間の軍事教練を受けて12日、各職場に割り当てられ、黒い作業服を渡され、それ以後は制服にお別れを告げたのです。
 左腕には菱形の布に、「学校報国隊」と「学校名」を書き入れ、胸に氏名の名札を付けて、頭に白鉢巻き、一目で動員学徒と分かるようになっておりました。
 今こそ、筆をハンマーに変えて・・・、と勇ましい文句に押されて、苦しい現場作業にも必死で耐えて行ったのです。
 先生は毎日職場を見廻りに来られ、「貴方達は学徒です。学生の誇りを忘れてはいけません」と、ともすれば環境が変わって、投げやりになり勝な私達を叱咤激励されて、その言葉に気を入れかえて頑張ったものです。
 昭和二十年になり、戦争が不利になりだした頃から、日に何回も、敵機が来るようになり、警戒警報、空襲警報、退避命令と生産もままならぬ毎日で、工員も学徒もへとへとになって行きました。
 忘れもしません。昭和二十年3月19日朝、7時、外で朝礼をしている時、突然高射砲の音がして、上を見るとカラスの群れのような艦載機が真っ黒になるぐらいの編隊で、旋回しているではありませんか。
 間を置かず、退避命令が発令されて、私達は防空壕に逃げたのです。
 防空壕は、道路(広交差点から長浜に通じる道)を隔てた小高い山に掘られた横穴です。現在も穴口をふさいで、そのままあると思います。
 広い工場の敷地から道路の向こうまでの距離は長いものです。ましてや敵機が上に舞っているのですから。
 走って走って、息も切れんばかりでした。途中死んでもいいから休もうかとも思いましたが、やっと壕にたどり着き、明かりの全然ない壕の地べたにペッタリと伏せて息をのんでいたのです。
 私達の入っている横穴防空壕の山の上は、高射砲台になっているのです。そこから敵機に向かって弾を打ち上げる度に、振動で土地ごと舟のように揺れるのです。
 敵機が落とす爆弾と高射砲の炸裂する音で、命の縮むような時間を過ごしました。
 昼頃でしょうか、退避命令が解除になって壕から外に出ました。その光景は筆舌に尽くしがたい惨状でした。
 それでもこの被害は後のB29の爆撃に比べれば、ほんの小さなものだったのです。
 当時広工廠では、戦艦を作っておりましたが、アメリカでは軍艦の戦争より、航空機の戦争の方が有利なのに気づき、いち早く日本の攻撃は飛行機に切り替えていたのです。
 遅ればせに気付いた日本は、軍艦の製造をやめて、急遽、航空機の製造に切り替えようと、当時、広工廠の南部に新しくできた第11海軍航空廠と、私達の勤務していた広工廠と合併し、全部を第11海軍航空廠としたものです。
 以後、私達の作っていたスクリューや軍艦の部品は、アルミ類の部品に変わって行きました。
 サイパン島が玉砕して、米軍の航空基地になり、直接日本へ爆撃機B29が、往来できる様になってからは、空襲の規模は、艦載機とは比べものにならない程大きくなり、被害も日本全土に広がりました。
 第11空廠もB29の標的になり、5月5日、10時半ごろと記憶しております。空襲警報から退避命令になり、例の横穴防空壕に避難した直後、それはそれは大地を揺るがす様な爆撃が始まったのです。
 B29から落とす爆弾は、1トン爆弾だと聞いておりました。
壕になっているこの山が、何時砕だかれるか、何時吹っ飛ぶのか、今考えても身震いがしてきます。
 女子学徒の中には、「お母さん、お母さん」と泣き叫ぶ人もありました。
 実際の爆撃時間は、1時間位だったと思いますが、敵機が去っても、後から後から、時限爆弾が破裂するので、壕の外へ出ることは出来ません。
 2時過ぎに退避が解除になり、外へ出ると入り口には負傷した人が寝かされており、私は視線をそらして、負傷者を避けて通りました。
 3月19日の空襲の時には、壕から出て、一応職場に帰ったのですが、この度は、とてもそういう状況ではありません。
 目前は火の海で、私達はそのまま家に帰りなさい、という命令でした。
 広駅には出ましたが、もちろん汽車は運行しておらず、私は川尻町の家まで歩いて帰りました。
 峠越しは遠いので、鉄道線路を伝って、、最短距離で我が家までたどり着きました。 後から聞かされたのですが、相当の被害で、多くの工員さんや軍人さんが、亡くなられたそうです。
 その当時は、被害の状況は全て秘密で、絶対公表してはいけなかったのです。
 「我が方の損害は、きわめて軽微なり」と言うラジオ放送で片付けられてしまったのです。
 あくる日は異例の休日になり、1日おいて、5月7日に出勤しました。さすが復興作業は目を見張るものがありました。
でもバラック建てで、壁面も簡単にトタンを打ちつけたものでしたが、どうにか仕事は続けることが出来ました。
 こうして8月を迎えたのです。8月14日の午後、明日は大事な放送があるので聞くようにとの報道が流れた流れ、いよいよ15日の正午、役付以上の人が広場で、ラジオ放送を聞くため集められました。
 帰ってきた人の顔は誰も浮かない表情で、良い話ではないことは分りましたが、内容については、はっきり致しません。
 しかし小さい声で、どうも日本は戦に負けたようだと囁きが伝わり始めました。そういう話は絶対口に出すことは出来ない、当時の軍の方針でしたから…。
 ただ、朝から敵機の襲来が一度もないのは、何か不思議で、気味悪い感じはしておりました。
 明16日は普通に出勤しましたが、工場はシーンとして作業の音も、グレンの音も全然耳に入ってきません。
 やはり戦争は負けたのかと私は思いました。受け持ちの先生も来て、何とも言えない当惑な色を顔に出して居られました。
 しばらくして、学徒は焼け跡の広場へ集合する様に通達があり、学徒全員を集めて、廠長(当時の海軍中将)が壇上から、
 「学徒の皆さん、本当に長い間、ご苦労さまでした。学校に、家に帰ってください。あれ程会いたかった両親のもとに帰ってください。
(当時、寮生活の人が大半でした。)
 それからまた何かあったら召集をかけますので、すぐに馳せ参じて下さい。」と、敬礼され、私達の学徒動員は終止符を打ったのです。
 3月の卒業式も、正式にはなく、4月からは、そのまま専攻科生との名目で、8月15日まで来たのです。
 この体験はほんの短期間で、一部の学生のみが経験したことで、ましてや動員中に空襲を経験した学生も、またその一部ではないかと思います。
 私の記憶にある終戦前の約1年間の思い出をたどりながら、したためてみました。
 子供や孫達には、こんな経験はさせたくない。絶対させてはいけないと、今更気を引き締めて、語り伝えていかなくてはならないと思いつつ、結ばしせて頂きます。


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