「学徒動員中の呉大空襲」
                                粟村英子
 昭和十九年六月二十八日。私たち松永高等女学校四年生は、学徒動員され、第十一海軍航空廠、呉市広町横路での生活が始まりました。
 木造二階建て十四中隊ある寄宿舎には、比治山高女、三次高女、河内高女、島根県浜田高女の人たちが思い浮かびます。
 太鼓の合図で起床し、初崎神社前の寮から西大川を渡り、広警察の前を通り、交差点に出て、十一空廠まで、防空頭巾、鞄を肩に軍歌高らかに隊伍堂々と往復したものでした。
 そして飛行機部品検査係として主に購買部品の検査に励んでおりました。
 二十年頃になると、何となく慌ただしさを感じるようになり、上空を飛ぶ偵察機に届かない高射砲に悔しい思いをしたものです。
 そしてほどなく、二十年三月十九日。艦載機グラマンの来襲。機銃掃射、小型爆弾での容赦なき攻撃で、戦争の怖さの初めての体験でした。
 が、それにも増して、五月五日の大空襲のことは、六十年経た今日までも目のあたりに思い出されます。
 黄幡随道入り口のバラック建て同然の職場で、何時ものように仕事をしていると、突然の警報のサイレンの音で、すぐさま退避しました。
 学徒挺身隊、工員の順に…。まもなく、ドーン…ドーン…耳をつんざくほどの爆弾の音。  頑丈な防空壕も潰れてしまうほどの轟音。爆風に飛ばされそうになる壕の扉。隙間から入ってくる熱風。
 機械と機械の間に退避している年少工(十四、五歳)の女の子の「お母ちゃん、お母ちゃん、助けて」恐怖の中の悲痛な叫びが聞こえる。
 阿鼻喚叫とはこの様な有様を云うのであろう。
 どのくらい時間が過ぎたか、ずいぶん長い時間でした。
 ようやく壕を出ると先刻まで働いていた職場は…鉄筋建築の総務部も、いらか並んだ飛行機部も、発動機部も、殆んど全てというほどの壊滅状態でした。
 長浜行きの電車も空廠前で黒焦げの儘でした。
 次の日、爆撃され、なすすべもない職場に出勤し、無念の涙で、「海行かば、水漬く屍」を合唱し、勝利を祈ったものでした。
 その時聴いて話によると、五月六日の入隊を目前にして、故郷へ帰ることになっていた同じ職場の篠原さんが亡くなられたとか。
 きつい近視の方で、爆風に飛ばされて、壕まで辿り着けなかったらしい、悲しい記憶です。
 職場をなくした私達は、阿賀国民学校へ移動し、講堂内での部品検査の続行、厳しかった検査は殆んど良品となりました。
 そして七月一日夜、今度は、呉地区焼夷弾での大空襲。寄宿舎裏の横穴式防空壕に避難しました。
 解除と共に出ると、木造建ての寄宿舎全て、火の海。
 日頃練習していたバケツリレーの消火では手の施しようもなく、焼夷弾の威力を見せつけられた思いでした。
 こうしてグラマンの攻撃以来、職場も住むところも無くなった私達は第十一海軍航空廠岩国工場へと移動しました。
 最近、広島方面からの帰路、回り道をして、呉線を通ることがあります。
 60年が経過した呉。戦後の復興は目覚ましく、要塞地として目隠しされていた沿線の景色はまぶしい位の平和の光が満ちあふれているような気がします。
 何時までも何時までも平和という日が続きますように。


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