「広11空廠についての体験談」

                          杉野恵美子(旧姓、原田)  杉野雅彦(紹介)

 私が挺身隊に行っていた頃の話ですが、もう60年も前の事ではっきり覚えているとは言えません。
 私は、第二工場、普通には、ニ○(ふたまる)工場と云っていました。その事務所で工員の出面といって、出勤簿を付けたり、空襲の時には、書類を入れた箱を背負って、防空壕に逃げると云った事です。
 ゼロ( 零 )戦を作っていたのは、一○工場だと思います。広11空廠の中だとは思います。
 二式、九七大艇などは、修理していたのだと思います。海に向かって、滑り台と云って、海岸線が有りました。終戦の年には、空高く、いつもとなく、B29が飛んでいました。 でも、来ても、あまり爆弾を落とさないので、空襲警報が鳴っても、みんな避難せずに、空を眺めたりしていました。
 虹村の呉航空隊には、まともな飛行機が無くて、例え、飛行機は有っても、練習機の「赤とんぼ」だけでした。それで、搭乗員は、いつも工場の方に来ていました。
 3月19日頃でしたか、グラマンが沢山やって来て、機銃掃射をやり、人が大勢、パイロット達もやられて亡くなりました。工場も焼けました。それからは、すぐに逃げるようになりました。
 広の工場で修理が間に合わないと云って、詫間に大勢の工員が出張していました。松山にも出張していましたが、やられてしまいました。
 5月5日の空襲の時は、ものすごい数の飛行機でやられて、跡形も無い有様となりました。広の黄幡山に高射砲が有って、迎え撃ったのですが、飛行機に当る様子は有りませんでした。
 広全体が空襲に会い、長浜に行く道路にも爆弾の為に池の様な大きな穴があき、呉に通っていた電車も不通となって、広交差点など食料庫も焼けくすぶっている中を歩いて阿賀の郷(宝徳寺の近く)まで帰りました。
 7月1日夜には、呉が空襲を受けて、空は真っ赤に焼けて、呉じゅうが焼けました。防空壕に逃げた人も大勢防空壕の中で亡くなりました。
(防空壕の中へ熱風・熱煙が入り、ブロイラーの様に蒸し焼きになってなって窒息死した。)
 今まで、警報が出ても空を見上げていた人もサイレンの音だけですぐ、逃げるようになりました。
 8月6日、原爆の日は工廠から、にょきにょきと、大きな雲が見えて、海田の方の油貯蔵庫がやられたなどと言っていました。
 その頃には、私のいた工場や事務所からも、岩国に出張していました。
阿賀の延崎と云う所がありますが、そこに、九七大艇が繋がれていたのは、よく聞きました。
 8月15日、終戦の日を迎えて、私達の二○工場で部品を作っていた人たちが、とんちんかんちんと鍋を作り出したのを見て、涙が出たのを今でも忘れません。
 油が無いと言って、黒瀬の曾祖母さんは松根油を取るのに松の根を掘りに行っていて、終戦と聞いて、へたへたとそこに座り込んで泣いたという話も聞きました。
 以上が、覚えている事ですが、60年も経っているので、よく覚えてなくてごめんなさい。


募集体験記目次に戻る

トップページ総目次に戻る