「学徒動員による戦中体験記」

                                   中西弘子

1、学徒動員出動まで

 私の故郷は広島県西部に位置し山口県境の山村である。
 片田舎の小さな女学校で、戦時教育を色濃く受け、平和という言葉さえ聞いたこともない戦時一色の時代であった。
 既に1年先輩のクラスは呉海軍工廠に動員学徒として出動しており、私達も後に続くことを夢みて、ひたすら動員の命令の下る目を待っていた。
 昭和20年1月8目、津田高等女学校1年生に勤労学徒動員の命令が下り、呉市広町11海軍航空廠補給部整備工場に配属されることになった。
 正月も明けたばかりの寒い朝、トラックの荷台に乗り呉市広町へと出発する。現代の感覚では思い及ばぬ遠い道のりであった。
  出発の朝

2、寄宿舎に入寮して

 呉市広町横路女子挺身隊寄宿舎に入寮し、翌目から一週間、弥生工員養成所に通い、各学校より動員されてきた大勢の学徒や、女子挺身隊の人達と合同で、敬礼の仕方、整列、行進、歩調のとり方等、海軍軍人に準ずる基礎訓練をうけた。
 毎朝5時、横路寄宿舎全棟に響き渡る太鼓の音を合図に、各中隊(各棟)毎に「ピリピリピリー・総員起こし一。」と中隊長の笛と号令で、飛び起きることから一目が始まる。
 出勤は朝6時半、冬の空はまだ薄暗い寄宿舎の入り口広場へ、全員集合する。国旗掲揚の後、舎監の訓示があり、続いて明治天皇御製の短歌朗詠をする。
   朝みどり澄みわたりたる大空の  ひろきを己が心ともがな
 2回続返して声高らかに合吟したあと「行ってまいります。」と大きな声で挨拶をし、歩調を取って出発する。
 学徒及び挺身隊数百人の乙女が、白い鉢巻をしめて「ドドッ。ドドッ。」と足音をひびかせ軍歌を歌いながら、出勤する毎朝の風景であった。
毎朝の風景  音楽帖・歌集
 今思えば、この異様な光景は、当時この地でこの時間に、間違いなく実在した私達の過去の姿であり、私は今鮮明に思い浮かべることができる。
そして、あの足音が耳の底から重々しく聞こえてくるのである。
 お国の為のご奉公と勇んで出て来た私達であったが、寄宿舎の生活は目々淋しさが募るばかりであった。
 私は、生まれて初めて母からもらった手紙を、胸に抱きしめて布団の中で号泣したことが忘れられない。
 流れる涙を拭いながら、何度も何度も読み返したことを、今でも切なく思い出す。私ぱかりではなく、仲間のみんな、家からの便りに泣きじゃくったものであった。
 今、私の手元に、学徒動員出発の、朝の風景を写した小さなスナップ写真が二枚と、作業服に白い鉢巻をしめた私の写真が一枚、(上記の写真を参照)
更に当時私が多くの方々から戴いた慰問と激励の手紙、そして、母と私が交わした手紙やハガキの数10通を保管している。
先生からの手紙1   先生からの手紙2
 粗末な封筒、便箋、又、いろいろな紙の裏側に書き込まれた手紙などが、古ぼけて変色し、60年の歳月を物語っている。
 それらは当時の『時代背景や、戦争の悲しさを伝える資料』とも思い、私は今大切に収めている。

3、工場における日々

 私達が配属された補給部整備工場は、飛行場の敷地内にあった。そこで、これからの私達の仕事内容となる飛行機整備について勉強が始まった。
 安全線のくみ方・ボノレトナットのしめ方・練習機の組立て・発動機の分解・洗修・機体への取り付け・試運転など、基礎から実務に至るまでを、毎目毎目習った。
 しかし、15才の少女に飛行機整備と言う高度な技術が、短期間に身につく筈もなく、即戦カになったとも考えられない。
 この様なことで戦争に勝てるわけがないことは明らかなことであるにもかかわらず、そのことに気付く知恵も無く、ただ一生懸命、まじめに頑張っていた可愛らしい少女の私達であった。

4、艦載機(グラマン)の空襲

 忘れもしない昭和20年3月19目、この日も朝早く、横路寄宿舎から、勤務地補給部整備工場へ向かって、何時ものように隊列を組み、軍歌を歌いながら、元気よく行進していた。
 あともう少しの所、あの桜並木の坂道へさしかかった時、空襲警報のサイレンが鳴った。
 その時、工場の方へ向いて左側、東の空を見ると、ごま粒ぐらいの小さな敵機らしき編隊が見えた。
 私達はみな必死になって、ちりぢりぱらばらに走りながら防空壕をめざして逃げたけれども、気がついたら、あっと言う間に、多くの敵機が頭上に来ていた。
 あのごま粒くらいに見えていた飛行機が、数分数秒の間に、数百倍の大きさに変身し、大きな爆音をたてながら、機銃掃射で私を追いかけてくる。
 私は逃げ惑いながら、少しでも低い所、陰に隠れるところを探して、格納庫の狭い側溝へ身を潜めたりしながら、何とか航空隊の防空壕へ逃げ込むことが出来た。
 壕の中には既に避難している兵隊さんや動員学徒の人達も数人いたと思う。爆撃のすさまじい音と地響きで壕の中は揺れ動く。
みんな「ああ一」とかrうう一」とかうめき声をあげながら、必死で恐ろしさに堪えた。
5、B29の大空襲

 昭和20年5月5目、この日、格納庫の中で作業中に空襲となり、飛行場西側にある防空壕へ向かって、死にものぐるいで走って逃げた。
 その途中、すぐ目の前で爆弾が炸裂するのを見た。咄嵯に身を伏せ、目と耳を押えたがその瞬間のすごさに身が震えたことを思い出す。
 それは、絵本や写真で見たことのある絵図そのものであった。「ドーン」と大きな音と共に三角形に火を噴きあげて「ドドー」と、落ちてくる砂や石、それはそれは、恐ろしいものであった。
 この様な中を何度も這いつくぱりながら、やっと防空壕に入ることが出来たことを思い出す。
 更に、空襲の恐ろしさで、どうしても私の脳裏から消えない場面がある。
 空襲が解除になって防空壕より出て来た時、格納庫が真っ赤な炎に包まれて黒い煙が立ち昇り、メラメラと燃えていたこと、
それが3月19目だったのか、5月5目のことだったのか、目付けについては思い出せないまま、とにかく、深い悲しみが心に深く染み込んでいて、
今なお、あの時の悲しい気持ちがよみがえってくる。
 爆撃を受けたあとの飛行場には、大きな穴が数ヶ所出来ていた。大きな穴は50k爆弾のあとで、小さいのは25k爆弾だと聞いた。
 空襲の翌日、工場では給食が出来なくなった為、当分の間、横路寄宿舎より弁当持参の措置がとられた。
 寄宿舎で朝食の時、二食分のごはんが配分される。その1食分を、自分自身でむすびを作り、昼めしとして持って出るのであった。
 1食分で2個のむすびが出来たけれども、何しろ食べ盛りの15才、いつも食事の量が足りず満腹感を味わったことのない私は、
朝2食分の配分を受けると、ついつい我慢が出来ず「一個だけ」と言いつつ、むすびは朝のうちに腹の中へ消えてしまい、
工場での昼食は、親から送ってもらった妙り豆をかじって我慢したことなど、辛い辛い思い出の一つである。

6、寄宿舎における空襲警報

 寄宿舎では、夜中に警報が発令されると素早く起きて着替えをし、裏山の横穴防空壕へ避難する指導をうけていた。
 解除になればまた、宿舎に帰り着替えをして寝る。夜毎の空襲には、悩まされ、後には作業服のままで寝床に入る生活をしていた。
 この横穴防空壕はトンネノレの様に大きくて奥も深く、幾台もの旋盤機が据えつけてあった。
 そこでは、他の女学校の学徒や女子挺身隊のお姉さん達が、凛凛しい鉢巻姿で働いておられた。
 足下には、細い金屑がうず巻になって散らばり、大きな音をたてて、何台もの機械がフノレ回転で作動していた。
 金屑と機械の異様なにおいが、横穴工場内に漲り、こんな所で真夜中も働いておられる人達は、本当にお国の為に頑張っておられるのだなと、
心から思い、間違った戦争であることなど知る由もなく、当時の私は、素直に感動していた。

7、戦争の終わり

 寄宿舎から工場へと毎目の生活を繰り返す中で、定められた規則を精一杯に守りながら、 「家が恋しい、帰りたい、腹がへった」と心の中で叫びつつ、故郷からの便りや小包、面 会を待ちイ宅びる目々であった。
 そうした中、5月末私たちに岩国11空廠へ配置替えが決まり、様々な思いを残して、広を去る事になった。
 その際、3目間の休暇が許されて後、岩国飛行場へと勤務先が変わった。そこでも又、度々の空襲経験を経て、昭和20年8月15目終戦の目を迎えたのであった。

8、あとがき
 この度、機会をいただき、この手記をまとめることになり、薄れかけた記憶をたどりながら、私の戦争体験を書き連ねてみました。
 先日、朝倉様のご配慮で、旧飛行場跡地や、横路寄宿舎跡地へ案内していただきました。
 60年ぶりに訪れた広町は、あまりにも変わっていて、タイムスリップは不可能でしたが、旧飛行場周辺の風景、
そして日々通い続けた横路から工場までの道など、舗装され、拡張されながらも、元のところを通っていて、河、土手、橋等からも当時を偲ぶことが出来ました。
 あらためて戦争の悲しさ、平和の尊さ、そして生命の大切さを、しみじみ味わうことが出来ましたことを感謝申し上げます。

   わが裡に今なおひびくくつ音は
       橋をわたりて河土手をゆく

   爆撃に赤赤燃えたる格納庫
      よみがえりくる幾星霜を

   グラマンの機銃掃射に逃げ惑いし
        少女の頭に今霜をおく




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