「生き地獄」

                               杉原幸子

 兄が家族を残してい征った所はレイテ島でした。
 終戦になって早いものです。六十年が過ぎようとして居ります。
 思い出せば、当時、私達は、学徒勤労動員として、呉海軍工廠に行きました。国のためとはいえ、その時十六歳でしょう。両親は大変心配したことと思います。
 製鋼部鋳造工場に配置され、度々の空襲を受けながら、日夜生産に励んでいました。
 現場に鋳型を作るための土込めをしたのを入れるピットと称する小さな地下があります。空襲になると学徒はそこへ入って居りました。
 上に鉄板がかぶせてあり、敵から弾が落とされるたびに、ピューピューと音がし怖い思いをしました。一応無事でしたが、身が縮まる思いをしました。
 B29が来るとき、横穴防空壕へ入りますが、B29は1トン爆弾を投下します。凄まじい地響で、近くのに落とされた不発弾でも息が出来ないほどの風圧でした。
 私達は助かりましたが、三時間にわたる波状攻撃で、多くの工場やれたそうです。
 二十年八月六日、広島に原爆が落ちた時、三時間位は何が何だか分りませんでした。その時上司が新型爆弾だと言って居られました。
 二日間ほど焼け続けました。私の友達に原爆が落ちた時のキノコ雲を見たので、頭痛がすると長い間い言っていましたよ。そんなことはないよ。私達も見たでしょうとも言っていました。
 何事も秘密で、工廠の中の電車の窓も全部カーテンを下ろし、海の方は見てはいけなくて、でも工廠から海の方を見ていると、大きな島と間違えるような大和を見ました。
 戦艦大和はとても大きいものでした。私の兄は海軍陸戦隊として、比島に行き、レイテ島で戦死しました。その時兄がレイテへ行ったのが戦艦大和だったと、生き残って帰られた戦友の方から聞きました。
 帰国された方にお会いした際に、「最後に、家族によろしくと伝えてくれ」と言われたと、言われました。その時戦死した兄の年は31歳でした。とても残念でした。
 二十代から四十代までの働き盛り。戦争は負けるのは解っていた。食料もない島へ行き、玉砕し、また、二人の兄が戦死。
 後に残った子供と年寄りの両親、姉など、一生苦しい一生でした。この世の生き地獄とはこのことと思います。
 戦争は絶対にしてはいけません。世界平和を祈って居ります。


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