紅の血燃ゆれど

「紅の血燃ゆ 第十一海軍航空廠補給部整備工場学徒動員日記」
                         旧広島県立津田高等女学校  長尾圭子

一、はじめに

 広島県西部に位置している佐伯郡津田町(現在の佐伯郡佐伯町津田)に、広島県立津田高等女学校があった。当時十五才のわたくしはそこに在学していた。
 わたくしたちのいなかの女学校にも戦雲すでに低くたれこみ、昭和二十年一月八日、正月気分もいまださめやらぬところへ学徒動員がくだった。
 動員先は広島県呉市広町第十一海軍航空廠であった。出発前に身体検査があり、病弱の者は出動できなかった。その時、わたくしの指はしもやけで傷は大きく、穴さえあいていたが、「このくらいの傷は関係ない。」といわれた。
 母校をあとに各自の荷物を積みこんだトラックの上に乗り、同じ県内とはいえ十五才のわたくしにとっては初めての土地呉市広町に向った。
 今もなおその時の家族との別れのつらさ、悲しさが脳裏に深く刻まれている。また、しもやけの傷あとも六十才を過ぎたわたくしの左小指の付根に残っている。
 この日記は長い間わたくしの本棚の片隅にねむっていた。九年前の引越しの際、書籍の整理中におもいがけず出てきたものである。
ふるぼけたザラ紙の帳面へたどたどしいことばで、隅から隅までびっしりと書きつづっていた。
 それを読みながら、なっかしさも、悲しさも、くやしさも、みじめさもこもごもとなり、四十九年前のことがきのうのごとく浮んでは消え、消えては浮んでくるのであった。
 おもえば、動員先に着いたその日から、一日、一日、日を経るごとに故郷の家族のことが恋しくなり、両親のことや弟のこと、妹のことなどを思い出さない日はなかった。
 家族の者からの便りを手にした時は、泣けて泣けて1しようがなかった。また、食べ物が十分でなくて故郷の食べ物が恋しくて小包を首を長くして待ち続け、届いた時のうれしさは例えようもなかった。
 一カ月余り立ってから面会が許可になり、遠い田舎の不便な地よりはるばる呉市広町の宿舎へ両親が面会に来てくれ、うれしくて、とびっきたい思いだった。
 面会時間はあっという間にすぎ、別れて家路にむかう父、母のうしろ姿をいっまでも、いっまでも立ちっくして見送り涙にくれたものであった。
 寒入りした寒い日のきびしい訓練が特につらかった。わたくしはしもやけが一層悪化し膿がひっきりなしに出、その痛さにたえかねて涙することが多かった。
 日曜以外は、ほとんど五時起床でうす暗いうちから訓練がはじまり、敬礼の仕方、歩調のとり方、いろいろときびしく指導された。手の振り方が足りないとか、指先が曲がっているとか、大きな声でどなられたことが幾度あったかわからない。
 夜になると特に故郷が恋しくなり、窓から月を眺めては、床の中にもぐりこみ声をあげて泣いたこともあった。
 一週間の訓練期間を終えたわたくしたちは、宿舎から航空廠までの遠い道を、朝は朝星をいただき、白の鉢巻きを一文字にしめカーキ色の上衣とズボンを着け、そして救急袋の中へは止血棒と防空頭巾を入れ、それを肩にかけ隊列を組んで軍歌を声高らかにうたいながら行進して、往き来したものである。
 忘れようとしても忘れられないことは、空襲で死に直面したことである。
 ある日、出勤途中突然空襲になり、必死に走ったけれど防空壕に入らないうちに爆撃され、わたくしたちは飛行場の格納庫へ飛び込み右往左往していたら、ガラス窓がこわれ落ちてくるので、大きな箱が積み重ねてある隅の方にうずくまり、敵機が去るのを待っていた。
 機銃掃射をされたり、すぐそばに爆弾を投下されたり、戦場にいるのではないかと思われるほどだった。
 今にも死ぬるのではないかと思い、「南無阿弥陀仏。」と手を合せていた。「お母さんと叫ぶ者。」「大きな声で泣く者。」いろいろだったが、さいわいにもわたくしたちの学校の生徒はみな無事だった。
 そしてまた、休暇の許しがでて郷里に帰る前、航空廠の指導者から、「別れの盃をしてこい。」と言いわたされ、思わず背すじに冷汗が走るのをおぼえた。
 わたくしたちは、その年の五月二十八日、山口県岩国市の第十一海軍航空廠補給部岩国工場へ転属になり、故郷へいくらか近くなった安堵感がみんなの顔をやわらげた。
 それと同時に緊張感がとれたためか、多くの病人が続出した。わたくしも高熱にうなされ、四、五日臥床した。
 たまたま、八月六日航空廠の医務部へ診察を受けに行っていた。突然「ピカッ」と光り「ドーン」というものすごい音におもわず身を伏せた。
しばらくして、みんなが医務部内を走りまわり、もくもくと湧きあがるきのこ雲の見えやすい場所をさがし口々に、「どんな爆弾が落ちたのだろうか。」「大竹市の燃料廠が爆撃されたのだろう。」といいあっていた。
 やがて、広島市に大型爆弾が落ちたのだろうということが、だれいうとなく宿舎内の話題となり、友人のなかには、被災した肉親の看護のために、特別休暇をもらって帰郷するものもいた。
 そのときだれひとりとして人類史上はじめて広島市に原子爆弾が、落されたのだということは知るよしもなかった。
 津里局女学徒報国隊の夏休暇が三組に分かれ、各々五日間ずっ帰省がゆるされた。わたくしは八月十一日から帰省し、終戦は故郷の家でむかえた。
 学徒勤労動員解除政府指令は八月十六日であり、休暇中のわたくしは、岩国補給工場での動員解散式へは出席できなかった。
 宿舎に残っていた友人たちが、帰省者の荷物もまとめトラックに積み込み、八カ月間の汗となみだのしみこんだ荷物と一緒に母校へ帰ってきた。
 受けとった荷物をひらいたわが家の畳の上に、一本の棒切れがころがり落ちた。それは動員中いっも救急袋の中に入れて、さげ歩いていた止血棒である。
 いまもわたくしはそれを大切にしまいこんでいる。
そして時々そっとその止血棒をとりだして、父が墨書してくれた、「B型第十一海軍航空廠補給部整備工場学徒長尾圭子」という文字を一字一字おさえるようにしてよみかえしているのである。
 三十センチメートルにたりない一本の棒切れが、そこにしるされた文字が、たとえ、それがどんな暗い過去であれ、今では過ぎ去った遠き日々を、十五の春をおもいださせるよすがとなっている。
            (現広島県佐伯郡佐伯町永原1235−6在住 大久保圭子)

二、学徒動員日記の部

 (註) (小見出し)は、
      この日記を読みやすくするため、この手記をまとめるにあたってつけた。

 (母校をあとに)

昭和二十年一月八日(月) 晴
今朝、津田の母校を八時三十分トラックで出発した。学校から約六キロメートルくだったわたくしたち(友和村永原、峠集落)近所の生徒は、山西商店前で荷物をつみこんだ。
別れを惜んで母達が見送りに来ていたので涙が出て、涙が出てしようがなかった。
呉市広町へ到着したのが一時頃だった。生まれて初めて遠く親もとをはなれたのでとてもさびしかった。ご飯は大麦飯だった。
部屋は二段ベットで八人がいっしょだった。夜は十時に消燈だった。

 (きぴしい訓練のはじまり)

一月九日(火) 晴
今朝五時に起床して、その後、長尾先生のお話を聞き、十一時頃に航空廠へ身体検査に行き、私は甲に合格した。今日警戒警報があった。

一月十日(水) 晴
井上さんという人が講堂で、工場へ行ってからの諸注意をされた。その後他の方が工廠のことを説明された。
昼から養成所の運動場で訓練がありとても寒かったので、しもやけがはれあがり痛みもはげしくなりこれからがおもいやられる。
ミカンの配給があり、さびしさのなかにもみんなの心がなごやかになった。

一月十一日(木) 晴
五時に起床し朝会のあと講堂で教務主任の話があり、海軍の組織について聞いた。
その後他の人が海軍大臣は米内光政大臣といわれた。
昼から教練があり、なれないことでもありとてもつらかった。

一月十二日(金) 晴時々小雪
今朝は富長さんが衛生について話された。また他の人が飛行機にっいて説明された。
昼からは訓練をしてとても勇ましかった。

一月十三日(土) 晴
今朝半田大佐が工廠のことについて話された。
昼からは訓練があり、しもやけのため手がはれた。
訓練も今日で終りなのでほっとしている。訓練があればご飯がとてもおいしい。
この頃はご飯の量がちようどよくなった。

一月十四日(日) 晴
七時に起床し舎監の話を聞いた。舎監は鉢巻のことや、工場にっいての説明をされた。
昼からは公休日なので五時まで自由に遊んだ。
私は洗濯をしたり、手紙を書いたが、その時故郷をしのんで涙が出てしかたがなかった。
昨夜ズック(運動靴)の配給があった。

 (目をみはる工場のようす)

一月十五日(月) 晴
今朝七時半に工員養成所へ行って、廠長の閲兵と宣誓があった。
みんなが行進したのがとても勇ましかった。
この様子を祖母や、父母に見せてあげたかった。
昼からは廠内見学に行き、工場の中がすごく大きな音がするのでおそろしかった。
廠内にはずい分大きな飛行機がたくさんあり、家よりも大きくプロペラが四つついているのを見た。
飛行機を目前にしたのは生まれて初めてだ。弟や妹達に見せてやりたかった。
その後航空隊へ行って話を聞き、私は整備のほうになり、そこは空廠の補給部である。

一月十六日(火) 晴
五時に起床し、六時半に出発して飛行隊に行ったが、まだうす暗かった。
工廠へ行って防空壕を掘った。
脱脂綿と下駄と軍手の配給があり、私は脱脂綿と下駄をもらった。

 (はじめての便りを手にして)

一月十七日(水) 晴時々小雪
寄宿舎を七時に出発して工廠へ行き、防空壕を掘った。
昼食は工廠で食べるのである。今日はお餅が食べたくてたまらなかった。
寄宿舎へ帰ってみたら、弟からはじめての手紙が来ていて、うれしくて、うれしくて、泣いた。

一月十八日(木) 晴時々小雪
今朝起きて見たら雪が少し積っていた。わが家の方はどれだけ積っただろうかと、田舎を思い出した。雪は五ミリぐらい積った。
午前中は授業で午後は実習だった。安全線の張り方を習った。
その後、爆弾が落ちた時はどうしたらよいかという説明もあった。

一月十九日(金) 晴
五時に起床し、七時頃に朝会があり、その後工廠へ行き、安全線の張り方を学習した。
寄宿舎へ帰ってみると、妹からなっかしい便りが届いており、飛び上って喜んだ。
しかし手紙を読みすすむにっれて、とめどなく涙が流れでてどうしようもなかった。

一月二十日(土) 晴
五時に起床なのでねむくてしようがない。朝会の時は、とても手が冷たかった。
コートも、首まきも、工廠へはつけていけないのである。
お餅がむしように食べたくてたまらない。

一月二十一日(日) 晴
五時に起床した。私達は今日休みなのに、西城高女は出勤だ。
今朝は点呼もなく、食事をすませたあと、また床に入り家族へ手紙を書いた。
午後はみんな一緒に外出し映画を見た。
その後二時間程自由外出があり、ミカンや、松葉ニッケイを買った。ミカンを三円買ったら三十個あった。

一月二十二日(月) 晴
今朝は舎監に「津田高女は元気があってよろしい。」とほめられた。
朝会がすんだ後工場主任のがあり、米〈アメリカ〉の長所と短所を話された。
その後退避訓練があり、防毒面をはじめてかぷった。
今日、校長先生と、上岡さん、広兼さんが来られた。寄宿舎へ帰ってみたら書留がきていたので、変りごとがあるのかと思ってびっくりしたが、印鑑が届いていたのであった。
 (起床の早さに疲れがみられる)

一月二十三日(火) 晴
今朝は五時に起床だったがねむくてたまらないので、笛がなってもまだねていた。
午後整備の試験があり、モンキーバンドがむつかしかった。
富貴ちゃんのは毎日手紙がくるのでうらやましい。

一月二十四日(水) 晴
朝会の時小雪がちらついたので、田舎を思い出し大雪ではないかと心配した。
今日はアイ入れを習った。最初はとてもむつかしかったが、慣れてきたら簡単な作業だった。
昨日から残業がはじまった。今晩はおかずがとてもおいしかった。

一月二十五日(木) 晴
今朝はとてもねむくて起きにくかった。
工廠へ行っても寒いので手が冷たくて、家の炬燵が思い出される。
午後アイ入れをするのに、手がしびれる程冷たかった。
その後、軍歌の練習があった。

一月二十六日(金) 晴
今朝もねむいので笛がなってもまだねていた。午後アイ入れの試験があった。
工廠から帰ったら、三野本さんから手紙が届いておりうれしかった。
谷ちゃんへは西原さんから手紙が来ていた。

一月二十七日(土) 晴
今日からボルト、ナットの取り付け方を学習した。
午後一時から演芸会があり、楽しいひとときを過した。
二月の初旬に慰労休暇があるとのことで、今から心をおどらせている。
富貴ちゃんと私に、永田先生からなっかしい便りをいただき、泣けてきた。

一月二十八日(日) 晴
日曜日なので七時に起床した。朝会の後、退避訓練があった。
今日二年生が面会に来てくださり、なつかしい思いで胸がいっぱいになった。
午後中井さんと、富貴ちゃんと私の三人が外出し、五十銭の汁を二はいも飲んだ。
その時、富貴ちゃんと私が木ぐち(手さげ袋)を置いていたら二人ともなくなっていた。
だれかにとられたのだろう。その中へ買った物や財布を入れていたので残念だった。
谷先生が三月までは絶対に帰さないといわれた。
今日部屋がえがあり、花上(集落)の人は十五室へ移動された。

 (帰りたい、食べたいのくりかえし)

一月二十九日(月) 晴
五時に起床して工廠へ六時半に行った。
いつも帰りたいとか、お餅が食べたいとか、おはぎがほしいとか口ぐせのように毎日いっている。
ご飯の時が一番楽しみだ。ミカンが三十個と、干し柿が十二個配給された。

一月三十日(火) 晴
今日の昼食は白ご飯だった。
谷ちゃんと富貴ちゃんと私の三人が、自分のところへご飯の多いいのを置くとか、塩でもかくすようにして食べるとある人がいっていたと、聞き残念だった。
午後ボルト、ナットの試験があり、私は一つ間違った。

一月三十一日(水) くもり
起床した時、少し雨が降っていたがすぐやんだ。
今朝はいつもより三十分早く出発したのでうす暗かった。今日から洗浄手入れを習いはじめた。
富貴ちゃんがハガキヘむすびを送ってほしいと書いていたら、谷先生が注意された。

二月一日(木) 雨
今日母と従姉妹の久江姉さんと妹から手紙がきた。
それを読むと涙が出てしようがない。毎日便りを楽しみに待っている。

 (みんな待っている小包)

二月二日(金) 曇のち小雨
近頃は暗いうちに出発するため、お月様が出ているので、あのお月様も家から見えるのだと思えは悲しくなる。
午後試験があり、今までになく一番やさしい問題であった。
今日谷ちゃんへ家から小包が届いた。いり豆があったので少しずつもらった。
小包がくるのをみんな首を長くして待っている。

二月三日(土) 小雪
今朝は飛行機について学習した。
一時からは部長の査閲があった。その時小雪が降り寒かった。
今日知ちゃんへ小包が来たので、大豆を少しずつもらった。

二月四日(日) 晴
起きて見たら小雪が降っていた。雪を見たらわが家を思い出し、帰りたくてたまらない。
一日中飛行機にっいて学習した。
その後荷物運びがあり、工場主任がしもやけの出来ている者は、作業をしなくてもよいといわれたため、大喜びで火にあたっていた。
今日二年生が遠足できたそうだ。

二月五日(月) 晴
一日中、学科ばかりだったので、足が冷たいやら寒いので、家の炬燵のことが思われてしようがない。
中西さんにお餅を一つずつもらい、とてもおいしかった。
私達の室のほとんどの人に手紙が来たのに、私のはこなかったので残念だった。

二月六日(火) 晴 神田さん、谷岡さん、中西さん方のおじさんが慰問にこられたので、蒸しいもや、おむすび、お餅などをもらった。 私達の室では弘ちゃんと、知ちゃんに小包が来なかった。 妹(祥子)から人形を送って来たので、うれしくてたまらなかった。
二月七日(水) 雪
今朝は出発までずいぷん忙しかった。昼から雪が降り出した。
寄宿舎へ帰る頃には、雪が八センチも積っていた。家の方はどんなにか大雪が降ったことだろうと思った。
今頃は飛行機を実際に整備するので、非常に手が冷たい。
今日谷ちゃんと富貴ちゃんへ小包が届いた。

二月八日〈木〉 晴
五時に起床のたいこがなると同時に、食事当番なのでとび起き急いで仕度をした。
補課が手旗だったので足が冷たいやら、手がだるいや冷たいのでつらかつた。
近頃工場ではご飯に麦がまじっていないが大豆が入っている。魚もついている。 今晩ミカンが十個配給された。

二月九日(金) 晴
今頃は機体整備を学習しているが非常にむずかしい。
谷ちゃんは胃が痛いといって、一日中事務所でねていた。
今日は真白いご飯だった。サナちゃんへ小包が二個きていた。
みんな一日中、家へ帰りたい話ばかりしていた。

二月十日(土) 晴
今日は時間がとても早く過ぎた。補課の時間の前にぜんざいが茶碗へ一杯あった。
その中へ白い餅の小さいのが二つ入っていた。おいしくて、おいしくてもう一杯ほしかった。
明日は面会日なので、父母達が食べ物を沢山持って来てくれればよいがと思いながらベットにはいった。

 (はじめての面会に心おどらせ)

二月十一日(日) 晴
今朝は六時に起床した。朝から面会に来てくれるのを、首を長くして待っていた。
朝早くから面会にこられた人があった。
富貴ちゃん、谷ちゃん方と父が十二時頃に来てくれた。その時はうれしくて、うれし涙が出た。
富貴ちゃん方のは両親がこられ、谷ちゃん方のはおばさんがこられた。 知ちゃん方のはおじさんがこられた。父達が帰る頃に弘ちゃん方のがこられた。

二月十二日(月) 晴
面会の時いろいろな物を持って来てもらい、むすびをはじめあれもこれもと食べたので、今朝は胃が少し痛んだがすぐよくなった。
富貴ちゃんも、谷ちゃんも胃が痛むといって泣いていた。
工廠から帰りに病院へ寄って、しもやけの治療をしてもらいとびあがるほど痛かった。

二月十三日(火) 晴
五時に起床、どういうわけか今朝は特別にねむくて、総員起しがあっても少し寝ていた
。今日は一、二組がいっしょで飛行機の組み立てについて学習した。
谷ちゃんと富貴ちゃんは胃が痛いといっていた。

二月十四日(水) 晴
今日は飛行機を分解した。私はしもやけが痛いので見学していた。
谷ちゃんとサナちゃんは足へまめができて、痛い、痛いといっていた。谷ちゃんは足が痛いといって、夜泣くのでかわいそうだ。
先生がいわれるのには、空襲があるかもわからないので、十分に注意しているようにいわれた。

二月十五日(木) 晴
夜空襲があるかわからないので、作業着のまま寝た。そのため朝は早く支度が出来た。
私は笛がなってもすぐは起きなかった。谷ちゃんは足が痛いといって工場を休んだ。
今日は飛行機の組み立てをした。木曜日なので定時間だった。 課業がすんだのち、防諜について話があった。

二月十六日(金) 晴
いつでも朝が忙しいのに、今朝はゆっくりできた。
昼食時間にいり豆を食べたら少し胃が痛んだ。
今日済美高女の生徒のところに慰問団がこられたので、全体が定時間だった。
谷ちゃんは足にまめが出来たのを、手術してもらいに病院へ行った。
今日は警戒警報があった。ミカンの配給があった。

二月十七日(土) 晴
五時に起床した。朝食の時警戒警報が発令され、消燈になり真暗で困った。出勤途中に解除になった。
今日からプロペラについて学習した。
新しい学徒が入ったのを見ると、オカッパ頭で背の低いのがたくさんいるのでかわいそうだった。
富貴ちゃんと、谷ちゃんと私の三人へ家から手紙が来て、大変うれしかった。

二月十八日(日) 晴
今日甲山高女が補給部へ入った。日曜日なので定時間だった。
帰ったら部屋がえがあり私達は二階だったが、西城高女が他へ行ったので一階へおり三室へ入った。
工場の今日のご飯は、麦が多く米は数えるぐらいしかない。お菓子の配給が三十八個あった。

二月十九日(月) 晴
近頃は作業着のままねるので、朝早く身支度が出来る。
今日もプロペラを学習したが、大変むっかしい。
谷ちゃんは足が痛いので休んでいた。私がしもやけの治療に医務部へ行ったら、もう終っていた。
もう、面会のとき持って来てもらったお餅が、少ししか残っていないので残念だ。

 (国民学校高等科生徒までも学徒動員で……)

二月二十日(火) 晴
今日はプロペラの取り付け方を学習した。手がもげるように冷たくて寒いので、泣きたいようだった。
自然に涙が出てたまらなかった。藤ちゃんは胃が痛いといって泣いていた。
今日の補課は体技だった。私は休んだ。しもやけがうずいてたまらない。

二月二十一日(水) 晴
今朝は起床時間になっても、あまりにもねむたいので少しねていた。
今日から計器を学習し、一日中座学だった。今日は昨日より少し暖い。
私はしもやけが痛くて、自由に作業ができないので残念だ。

二月二十二日(木) 雪
起床したら雪が十三センチぐらい降っていた。
家の方はどんなに降っただろうかと思った。雪はすぐ消えた。木曜日なので定時だった。
工場へ堀田のおじさんと隅田のおじさんと、佐々のおじさんと校長先生が面会に来られた。
谷ちゃん達はいいことだなぁとうらやましく思った。谷ちゃんは足が痛いので、家へ帰らしてもらえるようになるかもしれない。
タ食後、友達からむすびとお餅を一つずつもらった。

二月二十三日(金) 晴
昨夜慰問団が来られたので、おそくまで起きていた。そのため起きるのがいやだった。
今日から電気について学習した。富貴ちゃんが頭が痛いといって工場を休んだ。
今朝慰問団が帰れた。新井のトシちゃんと妹から手紙がきた。

二月二十四日(土) 晴
谷ちゃんにきんぴらをもらいめずらしくて、おいいしかった。
吉村工手によって電気を学習するが、よくわかるので早く時間が立つような気がする。
午後チブスの注射をしてもらったが痛くなかった。時間が立っにしたがって手がだるくなった。
今日いり豆としょう油の配給があり、タベはお餅を一っと、給料を五円ずっもらった。弟から手紙がきた。

二月二十五日(日) 雪
今日は休みなので七時に起床した。除草作業をしたのち、銀座で映画があり、私達の部屋では竹中さん、益田さん、弘ちゃんの三人が見に行った。
私は行かなかったので床を敷いたままで、手紙を書いたり、寝たり、いり豆を食べたりしていた。
午後は一舎の講堂で国民学校の生徒が演芸会をしたけど、私は見に行かなかった。私たちの室では弘ちゃんと知ちゃんが行った。
私は救急袋をつくろったり、寝たりしていた。
知ちゃん方のおじさんとおばさんが、昼前に面会にこられた。
おはぎ半分と、パンを半分もらった。腹はすいているし、大変おいしく、みんなよろこんでいただいた。

二月二十六日(月) 晴
今日工場主任の話があった。寄宿舎へ帰ったら知ちゃんが共済病院へ入院していた。おはぎを一つ半分もらった。
今日、国民学校高等科一、二年の女子学徒が山口県から来たそうだ。

二月二十七日(火) 晴
午後谷ちゃんが、工場へ行ってから公用で医務部へ診察してもらいに行ったら、二週間の転地療養になったが、まだ連絡していないそうだ。
今日は燃料についての学習だった。

二月二十八日(水) 晴
山口県から来ている学徒の中には、私の胸の高さ位しか背丈のない者がいるのでかわいそうである。
今朝電気の試験があったが思ったよりみやすかった。
今朝「ずい雲」という飛行機が、工員養成所のところへ墜落したそうだ。
戸島さん達は見たそうだ。めちゃめちゃにこわれた飛行機を補給部へ運んでいるのを見た。 午後は整備講堂の大掃除をした。

三月一日(木) 晴
午前中は計器の取り付けを学習した。午後は電装を学習した。今日は定時間だったのにもう谷ちゃんは帰っていた。
おじさんが谷ちゃんを、家につれて帰るためこられた。
富貴ちゃんと私には、家から小包をことずけてもらっていたので、ふたりともおもいがけない幸運にとびあがってよろこんだ。

三月二日(金) 雨
昨夜山口県から来ている生徒に、みんながミカンを四つと半分ずつもらった。
今朝は補給部長の話があった。午後は発動機について学習した。
新学徒が傘を持っていなかったので、工場から帰りに私は一人程傘に入れてあげた。

三月三日(土) 晴
工廠へ行ったら、海が干潮だったので海苔を取った。海苔を取っていたら藤ちゃんの、手袋が海へ落ちて流れてしまった。
午後は発動機の分解をした。軍歌の練習の時、私達が「学徒の歌」をうたったら、塚本少尉が涙を流された。
寄宿舎へ帰って見たら、永尾先生と妹から手紙が来ていた。

三月四日(日) 晴
今日も発動機の分解をした。実習をすれば時間が早く立つような気がする。
日曜日なので定時間のため、のどの検査があり、私のは異常がなかったので安心した。
チエ子さんはのどが白くなっていたので、夕方入院された。
今日パンが一つずつ配給された。

三月五日(月) 晴
今朝工場主任の話があり、教育がすんだら休暇をやるといわれた。十一日に行軍があるかもわからない。石井兵曹が転属になるそうだ。
工場のご飯が白くなれば、寄宿舎のご飯が大麦飯になる。今日工場のおかずがおいしかった。寄宿舎へ帰ったら室の中が、消毒してありくさかった。
富貴ちゃん方から、二十五日に小包を送られたのにまだ届かないそうだ。

三月六日(火) 晴
午前中は発動機の整備にっいて、清水少尉が説明された。午後はシリンダーの洗浄手入れだった。
今日の補課は柔剣術の基礎を習った。その時、きっい風が吹き私達がふっとびそうだった。 手が冷たくて泣きたいようだった。教師がとてもきびしかった。

 (岩国航空廠への転属きまる)

三月七日(水) 晴
今朝退避訓練があって、防空壕まで走って行ったので苦しかった。補給部に学徒が九百人所属している。
今日は小雪がちらっいた。午後洗浄手入れをしたので、手が冷たくてつらかった。
私達が食事当番だったので、茶碗を洗いに行ったら、ラジオがニュースを放送していたので、家でも父母達が聞いているだろうと思い出し帰りたくなった。
昨夜ネーブルの配給が七個あって一円だった。タベ谷さんが私達の室へ入った。

三月八日(木) 晴
今までは服のままねていたのであるが、タベはねまきを着てねた。
今日は大詔奉戴日なので、いつもより一時間早く起きて、月が出ている頃に出発したので大変寒かった。午前中は燃料ポンプにっいて学習した。
午後は総決起大会があって、津田高女からは、中西さんと弘ちゃんが出た。
済美高女からは、伊藤さんと大宮さんが出られた。定時間だったので、午後課業はなかった。

三月九日(金) 晴のち雨
気化器についてずっと座学だった。
三月二十一日から二十五日まで、休暇がもらえるそうだ。津田高女は岩国航空廠へ転属することになった。
今日校長先生がこられた。

三月十日(土) 晴
午前中は座学で、午後はシリンダーの組み立てだった。
昼頃にチェ子さんと、中西さん方のが工場へ面会にこられた。阿部さん方のは寄宿舎の方へ行かれたので、会わずに帰られた。

三月十一日(日) 晴
日曜日だけど二十一日の休みの代りに工廠へ出た。試験があり、思ったよりやさしかった。
寄宿舎へ帰ったら、両親が面会に来ていた。富貴ちゃん方のも両親がこられた。父母達は寄宿舎の近所の家へ泊った。

三月十二日(月) 晴
父母達に別れをつげて出勤したが、いっしょに家へ帰りたかった。
電気のテストは七十点満点で、私のは六十五点だった。

三月十三日(火) 晴
今日は発動機の組立てだったが、試験があるので少しも頭に入らなかった。
今まで試験があった中で、今日のが一番むずかしかった。計器の試験が私のは九十六点だった。
今日知ちゃんが退院した。名越春枝さんから手紙が来た。

 (心はずむ飛行機の試運転)

三月十四日(水) 雨
今日から飛行機の組み立てをはじめた。午前中は時間がたつのがわからないくらい速かった。
午後は二小隊で組立てゝいたらボルトを間違って入れたので、遂に片方の翼がだめになった。大河原少尉におこられた。
試験は案外みやすかった。谷さんが今日帰った。

三月十五日(木) 晴
今朝は顔がほてって少し頭が痛かったがすぐなおった。
今日は飛行機をじょうずに組立てたので、みんな喜びでいっぱいだった。
チエ子さんが帰っていた。富貴ちゃんも頭が痛いといっていた。

三月十六日(金) 晴
今日は飛行機の試運転のため、外だったので寒かったが試運転成功に心がおどった。
飛行機を格納庫へ入れる時、車輪で富貴ちゃんは足をひかれびっこを引いていた。
谷ちゃんから手紙が来た。パンの配給が一個あった。

三月十七日(土) 晴
今日も試運転だった。私達は浜風のビュービュー吹くなか、じっとそばで見学していた。寒いというより、顔や手足は痛かった。
藤ちゃんが飛行機に乗って試運転をしていたら、突然飛行機が動き出したので驚いた。
昼頃空襲警報があって、みんな防空壕にかけこんだ。
昨夜お餅を四つ焼いて無理して食べたので、胃が痛んで困った。

 (空襲におびえる………)

三月十八日(日) 小雪のち晴
夜明けの四時頃、警戒警報があってサイレンが鳴ったので、飛び起きて服に着替えた。大変寒かった。解除になってから服を着たまゝ寝た。
工場へ行って学習をしていたら、空襲になって三十分ぐらい防空壕の中へ入っていた。私は頭が痛くてたまらなかった。
日曜日なので定時間のため、三時半頃帰る途中、門より少し向うの方で、空襲警報のサイレンがなった。
また、工場の方へ引き返し塚本少尉に防空壕へ入るのかどうか、聞いたら帰れといわれたので帰った。
今日試運転をする時、わたくしが飛行機の上へあがって見ていたら非常に寒くて、あの寒さは、忘れることができない。
試運転の仕方はよくわかった。
昨夜はネーブルの自由販売があったので、わたくしも買おうと思って待っていた。
あまりにも人が多く寒いのに一時間ぐらい立って待っていたが、とうとう買えなかった。 今晩はネーブルの配給が二円ずっあった。
母から手紙が来た。

三月十九日(月)晴
五時に起床し六時半頃に出発して、二級橋の所まで行った時、十六機ほど飛行機がとんでいた。
その近くに高射砲を四つほど撃ち、空に煙が上った。電車の線路を渡って坂のところへ行ったところ、急に空襲警報が鳴った。
みんな驚いて走り出した。東の方の空から敵機が来るのが見えて恐しくなり、必死で走った。
みんな裏門から入るのに、富貴ちゃん、藤ちゃんと私と済美高女の人達十人位が、正門から入って格納庫を横切り、防空壕へ行こうと思って、格納庫の中を通っているとき、敵機が機関銃を撃ったり、爆弾を落しだしたので防空壕まで行けず格納庫の中を、右往左往していた。
窓ガラスがこわれて落ちてくるので、箱の積んである隅の方でちぷこまっていた。生まれてはじめて空襲にあい恐ろしくて、生きたこゝちはしなかった。
急に大きな音がして、私はもう死ぬかと思った。がんばっていたが、もうこらえきれなくなって泣きだした。みんな泣いていた。
「お母さん!」と叫ぷ者や、わたくしは「南無阿弥陀仏。」と唱えたり、「お母さん。」とさけんだ。
その時兵隊さんが来られたので、敵機は逃げたのか尋ねたら、もう逃げたといわれたので、みんな防空壕の方へ走って行った。
行く途中また飛行機の音がしたので、土手の所へ伏せていようかと思ったが、防空壕が近くだったので走って防空壕まで行き、富貴ちゃんと二人でとびこんだ。
こわさのあまり二人で泣いた。しばらくしたらまた、ピューン。シユッという音がする。
ピューンという音は弾が飛ぶ音で、シュッという音はすぐ近くへ弾が落ちた音であることを、兵隊さんに聞いた。
この音を聞くたびに、死ぬるのではないかと思い耳へ指でせんをしていた。午前中敵機が三回来て、午後二回来た。
おそろしくてふるえていた。防空壕から外を見ると、いたる所が焼けているし、爆弾で大きな穴があいていた。
男子学徒の一人が、腹部へ破片があたり亡くなり、もう一人は足にけがをした。他の者は無事だった。

三月二十日(火) 雨
昨夜二回防空壕へ入った。一回は練習だった。
今日は空襲はなかったが、少し大きい音がすればどきっとした。
午前中は講堂の掃除をした。午後は卒業式だった。
きのうの敵機を百機撃墜し、爆破したのが五十機だったそうだ。

 (なつかしのわが家へ)

三月二十一日(水) 曇のち雨
三時に起床し、帰り支度をして四時に出発した。五時四十八分の汽車に乗った。
家へ帰れると思えばうれしくてたまらなかった。朝食は汽車の中で食べた。
広島駅へ着いたのが九時頃だった。乗りかえて廿日市駅まで汽車で帰った。谷先生のお家へよって、先生のお家の前からトラックに乗って帰った。
家に着いたのが一時半頃だった。お餅を食べるやら、おいしいご飯へお味噌をっけて食べたり、おはぎを食べ、とてもおいしかった。
十九日に柴田医院の前へ爆弾が落ちたそうだ。
権現山の上の方で、敵機と空中戦をして機関銃を撃ち、大きな音がしたそうだ。
津田でも機関銃を撃ちかけたそうだ。浅原の山へ敵機が墜落したらしい。
今晩はうれしくてうれしくてなかなかねむれそうにない。

三月二十二日(木) 雨
六時三十分に起床した。中津さんが兵隊に出られたそうだ。中川さん、曽我部さんが満州へ義勇軍として行かれたそうだ。藤井さんが空襲にあって体を大やけどされたそうだ。
今日は一日中遊んでいた。洗濯物もみな母にしてもらった。三時頃から、祖母と母と私の三人でお餅をついた。

三月二十三日(金) 晴
七時頃に起床したが、胃が痛むので朝食も食べずに寝ていた。午後は田中の伯母の家へ遊びに行き、卵を四つもらい、酒のかすや、えんどう豆をもらった。久保屋でも卵を二つもらった。

三月二十四日(土) 晴
六時半頃に起床した。今朝はぞう煮餅にしてもらったので、たいそうおいしかった。
父は廿日市へ行って私の定期入れを買ってくれた。一円十銭だった。
いり豆をいったりして帰り支度をした。てんぷらやパンを作ってもらい、おいしくて親のありがたさをしみじみと感じた。

三月二十五日(日) 晴
六時半頃に起床し、帰り支度をし八時半頃に家を出た。本家のおばさんや、田中のおばさんと家族の者が全員堀田さんの所まで、見送ってくれた。
十時頃に出発した、別れのっらさ悲しさは、動員で最初に出発した時より悲しく、つらかった。トラッで寄宿舎まで帰った。二時頃に到着した。家へ帰りたくてたまらない。

三月二十六日(月) 晴
五時に起床したが、昨夜家のことを思い出し、全然ねむれなかったので非常にねむかった。
今日は工場へ行って飛行機のこわれたのを整理した。
午後は教材を、横路の一舎の講堂へ運びそのまゝ寄宿舎へ帰った。

 (敵機来襲の警報しきり 

三月二十七日(火) 晴
昨夜十二時頃に警戒警報のサイレンがなったので、すぐ飛び起きて着替えをして寝ていたが、一時半頃に空襲警報になり退避した。空襲警報が解除になった時が二時だった。
それでもいっものとおり五時に起床だったので、眠い目をこすりながら起きた。
今日も運搬作業だった。午前十一時頃一舎の講堂の所にいたら、急に空襲警報になり、すぐ防空壕に入り一時間ぐらいいた。午後も運搬作業だった。

三月二十八日(水) 晴
昨夜空襲が十一時頃にあった。午前十一時頃に作業していたら、B29の敵機が一機通ったので、私達はすぐ事務所の前の防空壕へ入った。五時頃に警戒警報があった。

三月二十九日(木) 晴
五時頃に空襲警報があって退避したが、すぐ解除になった。また空襲警報になり、敵機が一機通り驚いた。工場へ行ってからは、退避することはなかった。
昨夜校長先生、真沢先生、細田先生が慰問にこられ朝帰られた。私は手紙をことづけた。

三月三十日(金) 晴
出発前に警戒警報があった。格納庫の焼けあとの整理をし、三月とはいえ暑かった。
四時十五分から身体検査があり、体重が四十二、五キログラムあった。今日は、むしょうに家へ帰りたくてたまらなかった。

三月三十一日(土) 晴
昨夜十二時頃に空襲警報があり、二時頃に解除になった。その間ずっと防空壕に入っていたので、暑くて汗がだくだくと出た。
今日も焼け跡の作業だった。夜十時頃警戒警報があり、またかとうんざりする。
昨夜パンの配給が一っあった。

四月一日(日) 晴
朝礼後工場主任の話があった。その後ボルトをはずす作業だった。最近はみんな工場へ、いり豆を持って行って休憩時間に食べている。

四月二日(月) 晴
昨夜十時半頃に警戒警報があり、サイレンがなったのを知っているが、その後またサイレンがなったそうだが、よく眠っていたのか知らなかった。
今日も焼け跡の整理だった。午前十時頃に警戒警報があった。
兵曹班の人は、もう一週間後に岩国へ行くのだそうだ。私達は二週間後に転属になる予定である。

四月三日(火) 晴
今日は神武天皇祭なので、工場が休みのため七時が起床だった。
畳を上げて大掃除をしたり、洗濯したり髪を洗ったりした。午後は外出して、いろいろな物を買った。

四月四日(水) 雨
昨夜十二時頃に空襲警報があり、敵機の音がした。今朝は磁石発電機の補習を、明戸教員に習った。午後は本廠の方へ、石を拾いに行った。
宿舎に帰ってみると、常ちゃんと父と妹から手紙が来ていた。父がくれた手紙は三月二十日に出したものであった。

四月五日(木) 晴
今日は一日中本廠の方へ石を取りに行き、きつかった。きのう、きょう、大変寒いが、桜は満開だ。今日新学徒が翼に敷かれて、重体らしい。
富貴ちゃんは、ものもらいが出来て工場を休んだ。富貴ちゃんに小包がきた。

四月六日(金) 晴
今朝は本廠の所まで石を一度運んだ。その時、矢田小隊長を見た。午後二回運んだ。その時中村少尉と出会った。最近、家へ帰りたくなって困る。

四月七日(土) 晴
午前中は防空壕を掘り、午後は石運びを二回した。新学徒と競争をしたので苦しかった。
父から手紙が来ていた。

四月八日(日) 雨
今日補給部は休みだったので六時に起床した。西城高女は四時二十分に起床した。今日は父達が面会にくるのではないかと、心待ちにしていた。
午後橋のあたりまで見に行ったりしたが、来なかったので残念だった。谷ちゃんが財布へ二十五円ぐらい入れていたのがなくなったそうだ。
神田の久江さんから手紙がきた。

四月九日(月) 雨
今朝は六時二十分に出発だった。午前中は試運転をしたが、準備がよく整っていなかったので、少ししか出来なかった。
午後は古田教員に気化器を習ったが、わかりにくかった。
わたくしは昨夜、家へ帰りたくて床の中で泣いた。

 (待ち望んだ特攻機の組み立て)

四月十日(火)雨
私達は明日から特攻隊が戦争に乗って行かれる飛行機を、組み立てることになった。午後の二時までその準備をした。
二時から四時半まで演芸会があり、それを私達は見物した。津田高女から三組出演した。
弘ちゃん、知ちゃん、戸島さんの三人が歌った。中西さんと房ちゃんが舞踊した。済美高女の人が、おもしろいことをされた。
父から手紙がきた。

四月十一日(水) 曇
今日は飛行機を組み立てた。朝、警戒警報があった。特攻隊の人を見かけた。帽子に日の丸がついていた。
小磯内閣が退陣し、鈴木内閣が誕生した。
宿舎に帰ってみると小包が届いていた。

四月十二日(木) 晴
飛行機を組み立てゝいたら、急に空襲警報のサイレンが鳴ったので、驚いて防空壕へかけこんだ。
私が一番にかけこみ、次に富貴ちゃんが入った。午後も空襲警報があり、防空壕へ入った。その時、防空壕の中の砂を出す作業をしていた。
今日は定時間だったので、津田高女と、済美高女は金星座へ映画を見に行ったけど、富貴ちゃん、谷ちゃんと私の三人は行かなかった。

四月十三日(金) 晴
今朝空襲があって、B29が一機偵察に来て、広町の上空を旋回しているのを、防空壕からのぞいて見た。
飛行雲がよく見えた。日本の飛行機が、海の中へ墜落したが塔乗員には、けがはなかったそうだ。
大谷さんが今日帰った。

四月十四日(土) 晴
今朝、大江先生というのが、工場へこられた。女の先生で、美しくてやさしい先生だ。
午前中は飛行機の組み立てをし、午後は防空壕を掘った。午後警戒警報があった。
妹から手紙がきた。

四月十五日(日) 晴
午前中は防空壕を掘ったが、昨日よりらくだった。午後は飛行機の組み立てだった。今日は定時間なので、あまり仕事をしなかった。
話によれば、田上兵曹は、塔乗員になぐられたそうだ。
私達は今日から九中隊へ、宿舎移動だった。

四月十六日(月)晴
午前中は砂の運搬作業だった。私達は長浜まで行ったので、とてもきつかった。午後は飛行機の組み立てだった。午前中警戒警報が二回あった。
富貴ちゃんは、胸が痛むといって医務部へ行ったら、一週間程午後からの早引きの、許可が出たそうだ。

四月十七日(火) 晴
今朝起床とともに、警戒警報になった。
二十九日に面会に来てもらうよう手紙を出した。調味料を送ってもらうように書いた。
今日は一日中、九三陸上中間練習機を組み立てた。午後も警戒警報があった。
はじめて谷ちゃんといっしょに、飛行機を組み立てた。富貴ちゃんは、午後早引きで帰った。

四月十八日(水) 晴
朝六時半頃に警戒警報があった。今日は一日中飛行機の組み立てだった。午後飛行機が海へ墜落した。
庄司指導員と山口指導員が、今朝飛行機で青森へ帰られることになっていたが、油がもれるので明朝帰られることになった。
迫先生は十五日に出征されたそうだ。

四月十九日(木) 雨
今朝も出発前に警戒警報があったが、すぐ解除になった。
今日は定時間だったので、明るいうちに食事したり、風呂に入った。

四月二十日(金) 晴
五時に起床ダィコがなるのであるが、ここ二、三日はそれより早く目がさめた。
今朝出勤中に、警戒警報になった。飛行機の組み立てをしたが、一日中寒い日だった。
済美高女へ新しい先生がこられた。富貴ちゃんは、ずっと午後早引きである。

四月二十一日(土) 晴
今朝出勤途中警戒警報になり、午後も警戒警報になった。仕事がなかったので、一日中遊んでいた。房ちゃんの所へ面会にこられた。

四月二十二日(日) 晴
朝食前に警戒警報があり、その後もあった。午後も警戒警報になり、すぐ空襲警報になったので退避した。
大前さんの所へ面会にこられた。定時間だったので洗濯をした。

四月二十三日(月) 晴
今日も二回警戒警報があった。一組はもう試運転をしている。私達はすることがないので、一日中遊んでいた。
宮島の方へ敵機が五十機ぐらい来たそうだ。
父と、トシちゃんから手紙が来た。

四月二十四日(火) 晴
タベ夜中にサイレンや鐘がなるので、藤ちゃんが最初に目をさまして、空襲ではないだろうかというので、みんなが飛び起きて見れば、交差点のあたりが真赤になっていて大火事だった。
大変恐ろしくて、床に入ってもサイレンの音が耳に入り、ねむれなかった。
今朝警戒警報があった。一、三組はもう飛行機の組み立てがすんでいるのに、私達のはまだである。

四月二十五日(水) 晴
私達は今日やっと飛行機の試運転ができ、プロペラは私達のが一番よく回ったので、うれしかった。
木曜日と振り替えなので、定時間だった。午後警戒警報があった。

 (たびかさなる警報にうんざり)

四月二十六日(木)晴
今朝警戒警報になり、敵機が来るかなと思ったが来なかった。
一組が試飛行をした。井手兵曹と塚本少尉が乗られ、よく飛んだ。さかトンボのように、宙返りをされたので、墜落するのではないかと心配した。
弘ちゃんのご両親が面会にこられた。

四月二十七日(金) 晴
今日三回警戒警報があり、たびかさなる警報にうんざりする。午後私達が組み立てた飛行機の試飛行をしていたら、ブレーキがきかなくなったが、いゝ具合に飛んだ。
今晩十八室の石けんが全部なくなったので、中隊長が探されたら、ごみ箱のそばにあったそうだ。どうしたことだったのだろう。

四月二十八日(土) 晴
きょうは早出だった。廠長の巡視があった。一組と三組の飛行機は、部隊の方へ行った。今日から以前と同じ飛行機を、三機程組み立てにとりくんだ。
今日は警戒警報が一回と、空襲警報が一回あった。B29が一機来たのを見た。白く光っていた。
寄宿舎へ帰ってみたら、津田の人が面会に来ておられた。

四月二十九日(日) 晴
七時に起床し、洗濯をした。式をすませた後、面会のとき持って帰ってもらう物を準備した。
十時頃に昼食をとり、急いで外出し、六時まで許可をもらった。私達は面会に来てもらえるかもわからないので、外で待っていたがなかなかこないから、部屋に帰っていたらタクシーが来た。
それにおばあさん達が乗ってこられ、飛び上るほどうれしかった。友和では弘ちゃん方のがこられなかった。一時頃に面会に来て三時頃に帰られた。

四月三十日(月) 晴
起床するとすぐ警戒警報があり、B29が一機飛んでいた。空襲にはならなかった。今日は定時間だった。

五月一日(火) 雨
きのうから山が焼けていたが、昼頃やっと消えた。
昨夜室がえがあり、友和では富貴ちゃんと私の二人が二室になった。
面会で持ってきてくれた、巻きずしへかびがきていた。もう食べられない惜しいことをした。

五月二日(水) 晴
今朝も警戒警報で目がさめた。今日は仕事がなくて困り遊んでばかりいた。
午後は体重測定があって、私は四十四キログラムだった。
宿舎に帰ってみると小包が届いていた。十七日に出したものだ。
横中隊長は、明日五中隊へ変られるそうだ。

五月三日(木) 晴
出勤中に警戒警報になった。
私達は五月中に岩国へ転属にならなかったら、今月中に夏物を取りに帰らすといわれた。
休みは一日だけにするそうだ。今日阿須賀さん達が、私達の中隊へ遊びにこられた。

五月四日(金) 晴
今日は警戒警報が三回あった。松山の方は空襲にあって、大火災になったそうだ。
工場から帰りに、広の郵便局へ富貴ちゃんの小包をとりにいっしょに行った。なぜか今日は頭が痛くてたまらなかった。

五月五日(土) 晴
毎朝のように警戒警報が出る。今日も例外ではなかった。
午前十一時頃にも警戒警報になり、しばらくしたら空襲警報のサイレンがなったので、外へ出て見ると敵機が三機通っていた。
急いで防空壕へ入ったと同時に、大きな音がして機関銃をうったり、爆弾を落したりするので、耳を手でおそった。
こわくって、こわくって、こん度は死ぬるのではないかと思った。B29と艦載機といっしょで三十機位い来たそうだ。三回位に分れて来た。
補給部は全然こわれなかった。広廠と本廠は全部破壊されたそうだ。五十キロの爆弾を落していた。
呉の航空隊の兵隊さんが、多く亡くなられたそうだ。今日の空襲で二組の飛行機が傷っいていた。

五月六日(日) 晴
六時に起床し、朝から二時頃まで大掃除をした。
昨夜空襲警報が一時頃にあり、一舎の防空壕へ退避した。昼頃にも空襲があり退避した。午後からも警戒警報があった。
今日、中畑さんのおうちの方が面会にこられた。

五月七日(月) 晴
警戒警報のサイレンがならないのに、多くの人が退避するので、谷ちゃんと私はみんなの後をついて行った。
海岸沿いを通って横路の方の山へ行った。工場から出たのでおこられるからと思ってすぐ帰った。なぜ無断で出たのかと、きっく叱られた。
午後も空襲があった。今後は警戒警報になると、すぐ退避することになった。
演芸会があるので定時間だった。私は見に行かなかった。

五月八日(火) 曇のち雨
今朝警戒警報が二回あった。午後雨が降ったので、二時半頃から退庁まで、防空壕の中で塚本少尉と話をした。
神田さんのお父さんが、父兄を代表して面会にこられた。

五月九日(水)晴
今朝も一回警戒警報になった。午後もあった。
午前中防空壕の上に芝生を置いた。その時休憩でもないのに、富貴ちゃんと谷ちゃんと私の三人が、海苔を取っていた。
その時塚本少尉が見られたので恐ろしかった。今日男子学徒が塚本少尉になぐられた。

五月十日(木) 晴
工場へ行ったかと思えば、すぐ空襲になり退避した。午前中はずっと防空壕の中にいた。
敵機が七十機ぐらい来たが、補給部は襲わなかった。午後も一回警戒警報になった。

五月十一日(金) 曇のち雨
出勤途中警戒警報になったので、工場へ行こうか、それとも寄宿舎へ帰ろうかと迷っていたところへ、清水少尉が来られ寄宿舎へ帰れといわれ、七時半から九時頃まで退避していた。
十一時頃工場へ行った。午後から雨が降ったので、食堂で話を聞いた。
檜田校長先生と、新しい校長先生と細田先生が来られた。

五月十二日(土) 晴
一組の飛行機を試飛行したら、海へ墜落した。
井手兵曹と桜井中尉が乗っておられた。けがはなかったがずぶぬれになられた。
近所のおじさんが、広町の親類へこられ、食べ物を頼まれたといって、持ってこられ大変うれしかった。

五月十三日(日) 晴
七時に起床して九時頃に出勤した。途中警戒警報になった。
三組の飛行機が試飛行した。明日五機ほど空輸するそうだ。
原さんのお家の方が面会にこられた。昨夜永田先生と妹から手紙が来た。五日出しだった。

五月十四日(月) 晴
夜中に警戒警報があった。
空襲のおそれがあるというので四時に起床した。その後警戒警報が二回と、空襲が一回あった。
私達の飛行機が試飛行をした。
昨夜私の床の中ヘネズミが入った。父から八日出した手紙が届いた。

五月十五日(火) 雨
出勤途中警戒警報になったので、横路の近くまで逃げたが、また工場へ行った。今日は白菊の解体をした。
午後は九三中練の梱包をといた。初めて工場主任が、私達に注意された。

五月十六日(水) 晴
防空壕の作業をした。今朝私達が組み立てた飛行機が三機と、工員が作ったのが二機の計五機が、編隊を組んで飛んで行った。
この飛行機には特攻隊が乗るのだと思えば、何ともいえない複雑な気持がした。
朝の食事が十銭で、昼食が十五銭、夕食が二十銭だそうだ。

五月十七日(木) 晴
一日中防空壕作業で、土かっぎをし肩が痛くてたまらなかった。昨夜警戒警報があった。午後も一回あった。
新学徒が私達を、お姉さんと呼ぷのでとてもかわいらしい。

五月十八日(金) 晴
今朝も警戒警報になった。午前中は工場主任の話があり、戦争の話しだった。午後は九三中練の組み立てだった。
四組に別れた。五月二十六日から二十九日まで休暇があり、その後岩国へ転属になるということだ。

五月十九日(土)雨
昨夜警戒警報になった時、私があわてゝ起きモンペをはこうとしても、真暗なのでなかなかはけず、よく考えて見ると服の柚に足を入れていたので、はけなかったのである。
今日飛行機を殆んど組み立てた。
家へ二十五日には帰れるそうだ。タベ父から十日に出した手紙が来た。

五月二十日(日) 晴
今朝私が旋回計をこわしたので残念だった。
午後二期三期の卒業式だった。済美高女の人は表彰された。
また警戒警報があった。

五月二十一日(月) 雨
昨夜警戒警報のサイレンが鳴ったのは、知っていたが、空襲のサイレンは知らなかったので、着替えをする時間がなくて、ねまきのまゝ退避した。
今日二回警戒警報があった。転属の時荷物は、船で岩国へ行くのだそうだ。

五月二十二日(火) 雨
今朝また警戒警報になった。午後飛行機の組み立てがすんだので、矢野教員にいろいろな話を聞いた。アメリカの塔乗員は、みすぼらしい身支度をしているそうだ。
宿舎に帰ってみると、常ちゃんと、母と弟から手紙がきていた。

五月二十三日(水) 晴
昨夜警戒警報になった。今朝航空隊で、慰問演芸会があり、楽しい時間を過ごした。
午後試運転があった。また警戒警報になった。

五月二十四日(木) 晴
今朝もまた警戒警報になった。試運転の方へ七人残って、他の人は本廠の焼け跡整理に行った。
その時大河原少尉が、岩国は良い所だといわれた。
午後寄宿舎へ帰り、身体検査があった。胸囲が七十七センチあった。
その後荷物の整理をした。

 (呉市広町航空廠をあとに………)

五月二十五日(金) 晴
今朝は私達の荷物をトラックに乗せて、呉行きの船へ積んだ。岩国まで運ばれるのである。呉の補給部へ二回通った。昨日で九三中練の組み立てを終った。
午後から工場でお別れをして寄宿舎へ帰り、三時頃に広駅へ行った。五時五十六分の汽車に乗った。
塚本少尉と清水少尉と古田教員が見送りにこられた。広島駅へ着いたのが七時二十分だった。
廿日市町でトラックヘ乗りかえ家へ向った。家へ到着したのが夜十時四十分だった。
家の者はみんな寝ていて、「ただいま。」といったらびっくりして起きた。
ご飯を食べたり風呂へ入ったりして、寝たのが十二時だった。

五月二十六日(土) 晴
五時半に起床したが、目がさめた時寄宿舎にいるような気がした。午前中はよもぎを摘んで餅をついた。
午後は妹と二人で、わらび取りに行った。帰宅して夏服の準備をした。
伊藤の君ちゃんは、結核で亡くなられたそうだ。

五月二十七日(日) 晴
五時四十分頃に起床した。今日は一日中寄宿舎へ帰る準備をした。
母におすしやら、あま酒を作ってもらった。タベは田中でちらしずしをごちそうになった。
六月一日から兵隊さんが、家へ二人泊られるそうだ。

五月二十八日(月) 晴
六時二十分に起床した。今朝警戒警報になった。
母におすしや、おはぎを作ってもらいうれしかった。
家を十二時十分に出発し、増野さんの所を一時頃に出発した。両親と妹二人が見送りに来てくれた。
岩国へ到着したのが二時半頃だった。ご飯が大変おいしい。

五月二十九日(火) 晴
五時四十分に起床した。午前中は、補給部へ見学に行った。午後は舎内の掃除をした。
岩国へ来てから食事の量が多く、いつも満腹している。
今日校長先生と、砂田先生が帰られた。

五月三十日(水) 晴
岩国へ転属してから、朝がゆっくり出来て長く寝られるのでよい。午前中は事務所へ行き、防空壕の作業だった。
今日は俸給日なので三時に帰った。入浴は一週間に一回しかないそうだ。

五月三十一日(木) 晴
私達の宿舎のそばに兵舎があり、早く起床されるので目がさめて困る。
今日は一日中作業だった。岩国の工場主任はとてもやさしい。岩国での作業はらくだけれど暑くて困る。リヤカーで砂を運搬する作業だ。
昨夜祖母の夢を見て、家へ帰りたくてたまらない。

六月一日(金) 晴
午前中は松の木の皮をはいだ。午後は砂運びだった。
朝警戒警報になり、B29が十八機こちらへ向っているそうだ。昨日広島を空襲したらしい。
山口県の学徒動員はもう解除になったそうだ。

六月二日(土) 雨
午前中は木の皮をはいだ。午後は防空壕の作業だった。昨日藤ちゃんへ手紙が来た。
県が違うので配給物がない。

六月三日(日) 晴
朝、室の大掃除をした。十一時頃に昼食をすませた。午後岩国の町へ、富貴ちゃん、谷ちゃんと私の三人が出かけた。ケーキを一個買って食べたがおいしくなかった。
昨夜安下庄の学徒にあめ玉を二個もらった。

六月四日(月) 晴
一日中作業で大変きつかった。事務所へ片岡兵曹がこられた。今日富貴ちゃんは、頭が痛いと云って工場を休んだ。
安下庄の人が、おこったので昨日あめ玉をもらっているため、二十銭程あげようと思っている。
大江先生が学校へ帰られたので手紙を送った。

六月五日(火) 晴
連日作業で疲れているため、度々休んでは作業をした。
大阪方面へ敵機が十機ぐらい来たそうだ。
妹二人と弟から手紙が来た。

六月六日(水) 曇のち雨
今朝から起床が四時四十五分で、出勤が六時十五分、昼食が十時半、退庁が四時三十分になった。男子学徒は残業がある。
今日は一日中暇なので、ゾウリを作った。

六月七日(木) 晴
田、畑の耕作面積が、家族一人当り三反以上ないと、農繁期休暇がもらえないそうだ。
昨夜楽しい話ばかりして、早く寝なかったので、今朝は起きにくかった。

六月八日(金) 晴
農繁期に帰宅出来る人は、チェ子さんと、藤ちゃんだけだ。
午後横穴が貫通したので、お祝いにおじさん達が、えんどう豆を煮られた。私達もいっしょに働いたので、豆をもら・いおいしくいただいた。
神戸へB29が三百機ぐらい来たそうだ。

六月九日(土) 晴
今朝からまた五時四十五分に起床することになた。今日は一日中、日光のあたる所で働いた。
曽我部さんから手紙が来た。

六月十日(日) 晴
日曜日で休みなので畠を耕した。午後は外出して錦帯橋を見に行き、景色のよいのに見とれた。
買物を沢山した。八円六十銭使った。富貴ちゃんは十円なくした。
高宮の梅ちゃんに手紙をことずけた。

六月十一日(月) 晴
起床の前に警戒警報になった。午前中は防空壕の作業で、午後は山がくずしてある所へ擬装網をかける作業をしたが、暑さのあまり私達はっかれはてた。
今日本家のおばさんから手紙が来た。

六月十二日(火) 雨
昨夜兵隊さんが歌をうたわれたのでねむれなかった。午前中は擬装網をかけた。午後は雨が降ったので遊んだ。
国広という兵隊さんに、いり豆を富貴ちゃん、戸島さん、原さん、正木さん私の五人がもらった。
彦坂さんと小西さんがよく似ておられる。

六月十三日(水) 雨
雨が降ったり、やんだりするので、仕事は少ししか出来なかった。

六月十四日(木) 晴
今朝は釘ぬきをした。昼前大江先生が富貴ちゃんと私を呼んで、チエ子さんと藤ちゃんと石田さんと私達二人は、農繁期休暇がもらえたといわれた。
五人が定時間で帰り、先生といっしょに岩国駅へ行ったが、キップは朝買うことにした。その時河原曹長に出会った。

六月十五日(金) 雨
四時に起床し、四時半に出発した。先生もいっしょで、六時一分の汽車に乗った。廿日市駅に着いたのが六時四十五分だった。
廿日市駅で三谷さんに出会った。八時の自動車に乗り、帰宅したのが九時だった。
田植えはすんでいたが、麦刈りが残っていた。
午前中はゾウリを一足作った。午後はうどんを作たり、キナ粉を石うすでひいた。

六月十六日(土) 晴
六時に起床した。八時頃に学校へあいさつに、富貴ちゃんとミツルさんと私の三人が行った。帰宅したのが十一時五十分だった。
曽我部さん、河野の愛ちゃん、伊藤オリエさん達に出会った。午後麦刈りをした。

 (農繁休暇……敵機は執鋤にせまりくる)

六月十七日(日) 晴
六時に起床した。昨日B29が、家の上空を西へ向って低く飛んだ。
一日中一人で麦こぎをし全部すませた。弟は腹が痛いといって寝ていた。

六月十八日(月) 晴
六時三十分に起床し、午前中は麦刈りをした。
午後は麦こぎやヒェ取りをした。

六月十九日(火) 晴
今朝は苗取りをし田植えをした。午後も母達と田植えをした。
今日大江先生と田中のクニちゃんが、一週間農繁期休暇をもらって帰られた。
夕ご飯を食べてから、母と弟とわたしの三人が夜八時まで麦刈りをした。

六月二十日(水) 晴
六時五十分に起床し、午前中は田植えをし、午後は麦刈りをした。夕方から近所の友達と蛍をとりに行った。
毎日のようにB29が飛んでくる。

六月二十一日(木) 晴
六時四十分に起床した。私は起床がおそいので、一人で朝食をする。今日は一日中麦刈りだった。

六月二十二日(金) 晴
六時二十分に起床した。朝早く警戒警報になり、解除になったかと思ったら、またすぐ警戒警報になり、続いて空襲警報になった。
岩国方面から、次々と編隊をくんで呉方面へ向って行った。広島や呉方面へ来たのが百機位いだった。
高射砲をたくさん打ち上げ、大きな音がして恐しかった。妹達は家の防空壕へ入り泣いていた。私も大きな音がする時は、防空壕へ入った。
広島はねらわれないで、呉が襲撃されたそうだ。午前中は空襲があったので、働かないで午後麦刈りをした。
六月二十三日(土) 雨
六時四十分に起床した。午前中は田中のおばさんと二人で、野いちごをとりに行った。午後は少し田植えをした。
富貴ちゃんと藤ちゃんが、帰ることについて相談にきた。

 (重い足をひきずって岩国海軍航空廠へ)

六月二十四日(日) 晴
五時五十分に起床した。いろいろと帰り支度をした。今朝かしわ餅をつくった。
十一時頃に貨物に乗って帰る予定だったが、十時のバスで帰ることにした。
廿日市へ十一時頃につき、十二時頃に汽車へ乗った。岩国へ到着したのが一時頃だった。寄宿舎へ帰ったのが三時頃だった。

六月二十五日(月) 晴
今日から発動機の分解をはじめた。
総員起しの前に警戒警報になった。午後空襲になり、B29が一機上空を通りよく見えた。
今日マキちゃんが帰った。

六月二十六日(火) 晴
警戒警報が三回あった。農繁期休暇で家へ帰ったのち、むしょうに家へ帰りたくて悲しい。今晩映画会が私達の部屋であった。

六月二十七日(水) 晴
四時半に起床した。午後分工場が焼けて、飛行機が三機焼けたそうだ。

六月二十八日(木) 晴
今朝方警戒警報になった。総員起しを知らずに寝ていた。
今日はシリンダーを分解した。小林教員はとてもやさしい。
明日藤村さん、中井さん、山根さん、広兼さんの四人が農繁期休暇で帰られる。

六月二十九日(金) 雨
今朝は工場へ体重測定に行った。私の体重は四十四キログラムだった。
呉の補給部長が巡視にこられた。近頃は工場から帰って、舎内勤務がありカヤを縫う。八時半が消燈である。

六月三十日(土) 晴
昨夜警戒警報になり、作業服に着替えもせずに寝ていたら、空襲になったので、富貴ちゃんと私はねまきのまゝ救急袋を持って出た。
防空壕の前へ行ったら禁止と書いてあった。一中隊の人は出ていなかった。昨夜空襲に二回なったそうだが、一回しか知らなかった。
富貴ちゃんは頭が痛いといって寄宿舎へ帰った。

七月一日(日) 雨
日野宮教員が二組では三人程よく働く者がいると、私の前でいわれたので、谷ちゃん、房ちゃん、チエ子さんと私の四人が泣いた。
午後近藤少尉が面会にこられた。広の工場へ残るのは、菅技手と大河原少尉と済美高女だそうだ。
大前さんは、かっけで二週間ほど転地療養だそうだ。神田さんのお家の方が面会にこられた。

七月二日(月) 晴
昨夜十二時頃空襲になり、ねまきの上にモンペをはいてすぐに退避した。広と呉へ爆弾を落し、岩国の上空をせんかいしたそうだ。
空襲が解除にならないのに二時半頃寝た。しばらくして解除のサィレンがなったが、みんな知らずに寝ていた。
昨夜防空壕で寒かったため風邪をひいた。工場へ行って頭が痛くてたまらないので、九時の休憩がすんだ後、火宮教員に許可を得て休んでいたが、あまりにも痛いので、山田さんに連れて帰ってもらった。近藤さんもかぜで寝ていた。いっしょに二時間位ねていた。

七月三日(火) 晴
昨夜、私達が以前いた広の宿舎が、空襲にあい焼けたそうだ。岩国も空襲になったが、すぐ解除になった。
今朝も頭が痛いので工場を休んだ。昨日から食事をしていないが、今朝も食欲がなく食べなかった。昼も夜もオカユだった。まずくて食べにくかった。
昨日妹と弟から手紙がきた。二十七日出しだった。

七月四日(水) 晴
昨夜空襲になったが退避しなかった。
今日は体の調子がよくなったので出勤した。工場から帰る前に、山へ登って岩国の町を見おろした。
故郷の権現山と、大峰山がうっすらと遠くに見えた。
小林教員は、大変おもしろい人だ。今晩演芸会があるので楽しみだ。

七月五日(木) 晴
昨夜演芸会がある時、警戒警報になったのですぐ中止した。その後空襲になった。演芸会は楽しかったので残念だった。
今日から九三中練の組み立てになり、二組に別れた。
井出兵曹はB29へ、体当りされたそうで気の毒なことだった。広島も襲撃されたそうだ。
今日大江先生が呉へ行かれた。

 (敗色すでに濃し)

七月六日(金) 晴
大江先生が帰って来られた。横路の寄宿舎は炊事場が残っただけで、九、十、十一中隊も全部焼けたそうだ。呉も殆んど焼けているそうだ。
夕方になって中井さんや、山根さん達が帰られた。私達は近日中に寄宿舎を変るそうだ。

七月七日(土) 晴
今日警戒警報になった。
火宮教員がチェンブロックで、手を切られて機嫌が悪かった。富貴ちゃんは休業一週間だ。 妹と弟から手紙がきた。

七月八日(日) 晴
補給部長の巡視があった。九時頃富貴ちゃんのお父さんと、父が面会に工場へ来てくれた。許可を得て近所の家で、昼食も食べず一時前まで話した。
三時半が退庁だったので、それまで父達は待っていて、寄宿舎へ五時頃までいた。父達は自転車で帰っていった。

七月九日(月) 晴
昨夜中西さんと阿部さんは、お家の方が面会にこられたので、面会室で一緒に寝られた。今日は大谷さんのお家の方が、工場へ面会にこられた。
西村少尉が次からは工場で面会してはいけないといわれた。
富貴ちゃんは正午早引きで帰った。今日から玄米のご飯になった。

七月十日(火) 晴
昨夜警戒警報になった。今朝から事務と整備に分れた。私は人事係になり、加藤さんにいろいろと習った。
一日中机に向って書き物をした。弘ちゃんと正木のまとみさんと私の三人が、同じ所で事務をとることになった。
午後警戒警報になった。

七月十一日(水) 雨
今日も警戒警報になった。毎日字を書いてばかりいるので早く時間が立つ。日比野工長が転属で岩国へこられた。
呉の方では、空襲にあって人がたくさん亡くなられたそうだ。
永田の先生と弟から手紙がきた。

七月十二日(木) 雨
昨夜空襲になった。昼頃警戒警報になった。退庁の前に事務所のおばさん達が、白いご飯をたいて、カレーラィスを一杯ずっくださった。
じゃがいもの煮物もいただいた。その後酸素工場で映画があった。

七月十三日(金) 晴
事務所の書類を疎開した。三時頃から、寄宿舎を移転した。すぐそばにお墓がある。
昨夜小柳の照ちゃんや、浜本の信ちゃんにエンドウ豆をもらった。

七月十四日(土)晴
今朝は四時が起床だったので、ねむくて、ねむくてしょうがなかった。食事当番だったので忙しかった。
片山の寄宿舎は、谷間で夜空襲になっても退避しなくてもよいだろう。森本高女が寄宿舎におられる。

 (それでも父母は・・・)

七月十五日(日) 晴
明日と振り替えなので、今日は出勤した。
今日空襲になり、D51が十三機通過した。普通の飛行機ぐらいに見えた。谷ちゃんと、神田さんと私の三人が食事当番で、長い道のりをきついといいながら、ご飯を運んでいる時だったのでびっくりした。
弘ちゃんのお母さんと、妹さんが面会にこられた。

七月十六日(月) 晴
今日は休みなので、六時三十分に起床した。午前中は掃除をし、午後は洗濯したり髪を洗った。
今朝八重ちゃん達が帰られた。

七月十七日(火) 晴
最近は夜の空襲を全然知らないことが多い。谷問に寄宿舎があり、安心して寝るからだ。近頃は忙しくて疲れ、入浴の時間も知らずに寝ていた。
富貴ちゃん達は演芸会を見に行った。

七月十八日(水) 晴
今日も空襲になった。書くことが多くて、肩が痛い。今日から舎内勤務に二人ずつ残ることになった。
近頃ご飯の中ヘヒエがまじっている。
事務所の家主のおばあさんに、オハギをもらった。中本さんにみかんをもらった。
事務所というのは、目立たないようにするため、谷間にある民家を借りているのである。その家には、おばあさんが一人おられる。

七月十九日(木) 晴
午前も午後も警戒警報になった。0戦が二機程ぶっつかって、牛野谷の向うへ墜落した。塔乗員の一人は落下傘で降りて、一人は亡くなられたそうだ。九三中練も一機墜落した。
昨夜ミカンの配給が三つあった。氷で冷やしてあったので、おいしかった。
今日藤ちゃん方のおじさんが、自転車に乗って面会にこられた。私は手紙をことづけた。

七月二十日(金) 曇
四国は艦砲射撃をうけたらしい。
明日から健康券と旅行証明書を、私が作ることになった。今日工場で風呂へ入った。
昨日永尾先生と新井のトシちゃんから手紙がきた。

七月二十一日(土) 雨のち晴
昨夜廊下へ雨がもり、私の所へ雨がかゝって布団が湿めった。
今日は砂運びをした。高木さん、福山さんが帰られた。近頃は毎日風呂へ入れる。
今日川原飛曹長が来られた。

七月二十二日(日) 晴
昼前に谷ちゃんが、私の所へお父さん達が面会にこられたといったので、一ノ谷で食事をしながら面会をした。
私達のご飯を父に食べてもらった
が、まずいといって少ししか食べなかった。父は私達の事務所の縁側で休んでいた。富貴ちゃんのお父さんは、四ノ谷へ行かれた。
二時の休憩時間にまた面会した。三時半に寄宿舎へ帰り、五時まで面会した。

 (病いの床に伏すもの多し)

七月二十三日(月) 晴
今朝は学徒報国隊の閲兵式があり、津田高女の半分位いの人は気分が悪くなった。昨日面会に来てもらった人は気分が悪くなったが、私一人悪くならなかった。
午後は工場へ「きゅうり」や、「なす」を取りに行って、大前中尉と一緒にタクシーに乗って帰った。私は初めてタクシーに乗った。
「きゅうり」に塩をつけて食べた。

七月二十四日(火) 晴
出勤中空襲警報が出た。午前中度々空襲になったが、一度だけ退避した。
午後空襲になったが退避していなかったら、急に機銃掃射を受けたので、びっくりして山へかくれた。今日は何もしないで退避していた。
敵機が沢山来て航空隊がやられた。広島がおもに狙われたそうだ。七十五機位撃墜したらしい。
近頃は工場から帰る時、ご飯を食べて帰る。知ちゃんのお家の方が面会にこられた。
七月二十五日(水) 晴
今朝は頭が痛いやら、胃が痛むので工場を休んだ。津田高女の人が七人休んだ。昨日富貴ちゃんも、谷ちゃんも休んだ。今日も度々空襲になった。

七月二十六日(木) 晴
今日も工場を休んだ。十一人休んだ。谷岡さんのお父さんが病気なので、一週間の休暇がもらえた。
今日は俸給日なので、二時半に帰った。

七月二十七日(金) 晴
昨夜空襲になって徳山へ焼夷弾を落したそうだ。今日も警戒警報になった。
今日谷ちゃんも富貴ちゃんも休まれた。他の人も八人休んだ。

七月二十八日(土) 晴
今日貨物に乗って行っていたら、空襲になり敵機が四機通ったので、とてもこわかった。 一日中何もしないで退避していた。
事務所の隣の家へ爆弾が落ちて焼けた。裏山も焼けた。四ノ谷の前へも爆弾が落ちていた。
七月二十九日(日) 晴
五時半に起床した。朝は洗濯をした。
二時頃貨物に乗って二十三人程面会にこられた。家のは、祖母が来てくれた。朝八時頃に家を出て、増野さんの所を十一時頃に出発したそうだ。
友和の方へ敵機が宣伝ビラを沢山落したそうだ。家の前にも落ちていて、弟が拾ったそうだ。四時半頃に祖母達が帰られた。

七月三十日(月) 曇のち晴
広兼さんと私の二人が舎内勤務だった。
午前中は私がトイレの肥出しをしたり、風呂を炊いた。
午後は広兼さんがした。頭が痛くてたまらない。

七月三十一日(火) 晴
今日も頭が痛いので休んだ。熱の一番高い時三十九度五分あった。下痢もした。

八月一日(水) 晴
今日も休んだ。熱は三十八度五分だった。
弟から二十九日に出した手紙が来た。

八月二日(木) 晴
今日は工場へ遅くからゆっくり行った。一日中休んでいた。事務所のおばあさんに、オハギを二つとムスビを一つとナマスを少しもらった。
常ちゃんから手紙がきた。

八月三日(金) 晴
今朝九時頃に寄宿舎を出発して医務部へ行った。その後工場へ行ったが、一日中寝ていた。
昼食は体の調子が悪くなってから、全然食べていない。帰りも後からゆっくりと帰った。

八月四日(土) 晴
昨日工場から帰るのがきっくて、息をするのがむつかしいくらいだった。今日は工場を休んだ。
平岡先生から手紙が来た。

八月五日(日) 晴
津田高女の半分が出勤で、半分が休みだった。
私は寝ていた。曽我部さん、杉さん、妹三人から手紙がきた。

 (原爆そして敗戦)

八月六日(月) 晴
今日も工場を休み医務部へ行き、二日間休業をもらった。医務へいたら、急に大きな音がしてびっくりし恐しかった。
大竹の燃料廠が爆撃されたのだろうということだった。煙がもくもくと沢山出ていた。

八月七日(火) 晴
今日まで休業をもらったので工場を休んだ。午後は少し調子がよくなったので、帰り支度をした。
お盆休みは三組に別れて五日間あるそうだ。私は十一日に帰り十五日まで休みである。 夕方フクちゃんに、トマトを半分もらい大変おいしかった。

八月八日(水) 晴
今日は出勤した。空襲がたびたびあり退避した。事務所の疎開で、海土路の山の奥へ行った。今日煎り粉と煎り豆を先生にあずけた。

八月九日(木) 晴
今日は工場の食事当番なので、朝の間は何もしなかった。今朝事務所にいたら空襲になり、退避していなかったら、敵が弾を落しはじめた。
みんな慌てゝ机の下にもぐりこんだ。恐さのあまり机の下にいられないのですぐ退避した。 事務所の近くへ宣伝ビラを沢山落した。一枚ほど拾った。

八月十日(金) 晴
工場へ行ったと思ったらすぐに警戒警報になった。B29が一機通った。
その後正木のまとみさんと私の二人が、牛野谷の方へ石けんと、クリームを取りに行った。帰りに空襲になり退避した。
阿部さんが弟さんの看護に帰られた。午後はずっと寝ていた。

八月十一日(土) 晴
午前二時に起床し、寄宿舎を出発した。五時半に切符が買えなかったので、駅長さんが特別に、七時半の汽車に乗せて下さった。
廿日市駅へ着いたのが九時廿日市駅から友和村の家まで歩いて帰った。途中空襲になり、恐しくて知らないお家へ飛びこんだ。
B29が四機きて、水野造船を爆撃したそうだ。私は歩くのがあまりにもきついので、明石のあたりで知らないお家へ、荷物を預けて帰った。
陸軍の兵隊さんが、津田の国民学校へ行かれるので一緒に帰った。浅原の人と弘ちゃんは、 バスで帰った。家へ到着したのが午後二時半頃だった。
山崎の君ちゃん、柴田の京ちゃん、山西のが亡くなられたそうだ。山西の菊ちゃんや小島の誠ちゃんは、大やけどをされた。

八月十二日(日) 晴
八時頃に起床した。今日警戒警報になった。ナスやキユゥリの漬け物がおいしい。

八月十三日(月) 晴
八時半に起床した。妹達は学校へ行っていた。今日警戒警報になった。中西さん達が歩いて帰った。

八月十四日(火) 晴
六時三十分に起床した。
午後B29が百六十二機家の上の方を、玖島方面へ行った。ずいぷん大きく見えて恐しかった。音も大きかった。岩国市や大竹市が襲撃されたそうだ。

八月十五日(水) 晴
六時三十分に起床した。午後二時頃に岩国へ帰る予定だったが、岩国が焼けたので、二、三日いることになった。
一年生が昨日動員で出たそうだ。今朝早く十五日に休暇をもらった人が、帰ってきた。 九日にロシヤが戦宣布告したそうだ。
今日大東亜戦争が終戦になり、五カ国が会議を開くそうだ。十二時に天皇陛下が、十分間ほどラジオで重大放送をされた。

 (学徒報国隊解散)

八月十六日(木) 晴
今朝早く専攻科の人が歩いて帰校。動員解除になったそうだ。一年生も動員解除になり母校へ帰ってきた。

八月十七日(金) 晴
六時十分に起床した。今日は大掃除をし、大変忙しかった。

八月十八日(土) 晴
六時四十分に起床した。学徒報告隊は解除になったそうだ。

八月十九日(日) 晴
六時二十分に起床した。朝は配給物をとりに行った。沖屋のが勤めておられる工場の人は、満洲へ行くようになるとのことだ。

八月二十日(月) 晴
六時三十分起床。藤ちゃんのお父さんが、岩国航空廠へ私達のことで交渉に行かれた。

八月二十一日(火) 晴
六時十五分に起床した。
校長先生と中西さんが、岩国航空廠へ交渉に行かれた。航空廠側はあまり、好感をもたなかったそうだ。
帰省していた私達も解除になり、第十一海軍航空廠岩国補給部に残っていた生徒だけで、解散式をして、すでに帰省していた生徒の荷物をトラックにっんで母校に帰ってきた。

八月二十二日(水) 晴
五時五十分に起床した。午前中増野さんのお家へ行き、午後津田の母校へ荷物を受け取りに父と二人で行った。v                                      以上

三、おわりに

「学徒報国隊の歌」に「あゝ紅の血は燃ゆる」という一節があるが、いかに「血が燃えようと」「生命燃えよう」と、第二次世界大戦にとどめをさされたのは、広島市への原爆の投下であった。「燃える血」だけではどうすることもできない科学戦争の結末をみることになった。
こゝにしるした学徒動員日記をよみかえしてみると、一時期の一日、一日をあますことなく純粋な心で「故郷へ帰りたい。」「家が恋しい。」「父母が、兄弟姉妹が恋しい。」「腹いっぱいたべて、腹が痛い。」と泣いている。
たとえいくさがきびしかろうと、上官の叱陀があろうと、人間の、生きとし生けるものゝ根元を、そとからの力でかえることはそんなに簡単なものではないといまさらのように思うのである。
いずれにしても、「人はどんなに富んでいようと、貧しかろうと、はらからが、ともがらが、よりそうて平穏に生きたい。」と、平和を願う心は洋の東西、古今をとわずひとしき心であろうと思う。
いま、過ぎし遠き日、十五の春の学徒動員期間中の日記を読みかえしてみるとき、暗い電燈のもとでかきとめたあの日、あの時の、鉛筆のあとから平和ということばすら使えないその時期に、一日も早く平和の世の中になって欲しいという願いが、そこ、ここからにじみ出てくるようにおもえる。
この世に、この人類に、きのうも、きょうも、そしてあしたも、平和であれと願うこと、切なるものがあり、ここに、つたなき日記をあらためて、おおやけにした。

〈注〉
1.日記中小見出しをつけたのはこの日記を読みやすくするため、この手記をまとめるにあたってつけた。
2.資料1.西中国地図は、母校と動員先の位置、距離などを示すために付した。
3.資料2.「あゝ紅の血は燃ゆるー勤労学徒報国隊の歌ー」は当時の為政者が、いかにして戦意昂揚をはかったかを
あらためて認識するためにつけた。

  「あゝ紅の血は燃ゆる ー勤労学徒報国隊の歌ー」

一、花もつぼみの若櫻 五尺の生命ひっさげて
  国の大事に殉ずるは われ等学徒の面目ぞ
  あゝ紅の血は燃ゆる。

二、後に続けと兄の声 今こそ筆をなげうって
  勝利ゆるがぬ生産に いさみ起ちたる兵ぞ
  あゝ紅の血は燃ゆる。

三、君は鍬とれ我は鎚 戦う道に二つなし
  国の使命を遂ぐるこそ われ等学徒の本分ぞ
  あゝ紅の血は燃ゆる。

四、何な小癩な英米鬼 神州男児こゝにあり
  決意一度火となれば 護る国土は鐵壁ぞ
  あゝ紅の血は燃ゆる。

4.資料3、 身分証明書、腕章・胸章、手旗信号法。

   手旗信号法。八つ折小冊子(右から1,2と続く一枚の用紙)
   モールス信号法(手旗信号法の裏側、右から1,2と続く)

5.資料4. 身分証明書

6.資料5. 腕章・胸章。

7.資料6. 記念品・止血棒




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