「呉湾の今昔」

                           山中和子
 「君、今昔の感如何」音戸の瀬戸を見おろす小高い丘にある吉川英治の句碑に刻まれた詞である。瀬戸の海流は、今日も渦を巻いて流れている。
 私はいま、この海を見つめて動員学徒以来のわが今昔を想い、当時から徐々に近代へと思いを馳せている。この碑が建てられた頃は、単に彼の詞として読むだけであったのに。
 私たち動員学徒は、あの第二次世界大戦たけなわな昭和十九年、二十年を、主として宮原十三丁目の学生寮に居をおいた。
 先生の引率で呉海軍工廠でひたすら軍需品生産に精を出し、勝つまでは、勝つまでは、のあいことばで励んだものである。
 職場は、製鋼部鋳造工場、私が属していたのは、その工場の一角に柵をめぐらして、学徒向けに作られた鋳鉄班と呼ぶ部所であった。
 学徒が十人ほどで、山下さん、泉さん、下村さんの三人の指導員が交互についてくださっていた。
 少し離れた本格的な現場とでも言おうか、そこには、大分師範の男子学生が、工員の方と肩を並べて働いていた。
 技手養成所在学中とやらの川本さんが昼時間を利用して海軍体操というのを教えてくださった。その体操の一部を今も覚えていてやってみることがある。
 製鋼部のどこかで働いていた広島高等師範の学生の一部が、ある日、軍隊に入隊するといって屋外で送別の言葉を受けていたこともあった。
 時おり職場を見回る技術将校の服は、糊とアイロンがピッときいていて、埃の方が彼から逃げている感じであった。
 B29の襲来に防空壕へ駈け込むことが、いく度もあったが、その合間を縫って工場内のスピーカが、戦果があがったと報道した。報道される前は必ず軍艦マーチを流されたものである。
 きしむ音、溶接の紫を放つ色、どこからか響くガンガンと鳴る音、そんな廠内をガラガラゴロゴロと音を置きながら運ばれていく辮当箱を見る。蓋に呉海軍工廠と刻みがあって頑丈そのものの容器であると思った。
 仕事自身は、さして苦しくも易しくも思わない。時節柄、当然とでも思っていたものであろう。
 入廠前、動員が決まった時には、団体生活ができるといって互いに喜びあったものだ。吉浦は狩留賀の寄宿舎に入り海軍工廠の大講堂で入廠式というのが行われた。
 通勤途上くぐる吉浦燧道にこだまする学徒動員の歌は勇壮であった。
 吉浦の宿舎に一ヶ月、両域へ一ヶ月、そして宮原へと移転した。
 三直制の深夜を除く二直制になる少し前から、木造バラック建て一部屋二十七畳に思える縁なしの畳を敷いたいくつかの部屋が私達を待っていた。
 寮名は大空寮と呼ばれていた。朝目寮へ移って行った人もあった。
 この辺から心がすさみはじめ、いつしか風情、情緒、感動、可隣さというものが空の彼方へと失せて行った“
 霜柱の立つ黒土をふんでゴミ焼き場に立ちすくむ。残り火をもとめて寄せ集めた木切れを燃す。
 頬をおもいっきりふくらませてフウフウと吹く顔は真剣であるのに面白かった。木はやがて炭火のように赤くなって白くもなる。
 工場でもらって来た穴あきの鉄板を火に乗せて、面会の時親が持って訪れた、もう固くなった餅をそこで焼く。
 こんがりと焼けた餅の匂い、それは久方ぶりに味わうぬくもりを甦えらせてくれた。ひとつの餅を三つにちぎってそばの人にあげることもあればもらって食べることもあった。
 鉛色の海、そこにはよく潜水艦が泊まっていた。その側に、工業用水の廃水かあるいは汚水か、休山に水源をなして流れてきたのか、岸壁の土管は海に向かって水を吐いていた。  吐き出す水の圧力がかもし出すのか、そこには無数の泡が上がっていた。泡のまわりに、深海に泳ぐはずのチヌだか小鯛だかそう目に映る魚たちが入り交じっている。
 今にして思えば、汚水に湧くプランクトンを求めて集まってきた魚たちだろう。
 造船部の巨大なドックのサイドに立って、空母の進水式に見入り感激したこともあったが、あの場所には今、1・H・1のグレーンが空にむかって聳えている。
 日がとっぷりと暮れて、すべての窓に暗幕のたれる頃、外を走る廠内列車の汽笛が「ピーポー」とトーン高くひびく。この音は、郷愁といつ晴れ間を見ることがあるのか予想もつかぬ沈鬱な悲しみの音でもあった。
 そんな心境の中に立ちながら、錨マークの鉢巻をしめた同期の桜は、毎朝、毎夕、なにくそなにくそと大地をふんづけたものだった。
あれから六十年を迎えようとしているが、製鋼部鋳造工場のあの建物はそのままに残って淀川製鋼とかに紛しているようだ。
 この今昔を知ってか知らないでか、潮流は生きているかのように今も動いている。
 文章を書き終えてから一年、廠内を車で通り過ぎた。アレッ、ある筈の建物が姿を消している。事務所のあった三階建も、現場のあったさび色のあの建物も…。
 歴史のべ-ジにまた一筆増えていく。


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