「学徒動員」

                           宮内後広子

 一九四四年(昭和十九年)六月十二日、県立竹原女学校の百十名が学徒動員として、狩留賀の寄宿舎に入り、呉工廠の製鋼部鋳造工場にて男子工員の中で、鋳型の土固めばかりの毎日でした。
 今思えば、まともな仕事をあの年でしたかしらと当時のことも思い出されます。
 服装といえば、絣のモンペに靴もなく、藁草履で、呉工廠に通勤するのに、防空頭巾と布の救急袋は、いつも肌身離さず肩にかけ、夜は夜で、枕元に草履、頭巾、救急袋を置いていました。
 警戒警報、空襲警報のサイレンが鳴ると、いつでも防空壕に入る準備で、毎日ぐっすり眠る日はありませんでした。
 ガダルカナル、沖縄と、玉砕のニュースをラジオで耳にしながら、本土に近寄るB29が、呉に初めて来たのが六十年前の三月十九日でした。
 防空壕に入っても爆風を体に感じた、あの怖さも忘れることが出来ません。
 遂に、七月一日だったと思いますが、焼夷弾が落とされ、町中火の海と化し、宮原の宿舎にいた私達も、布団も全部焼け出され、一目散に水を浴びながら駅に向かって走り、また狩留賀の寄宿舎に落ち着いたものです。
 昭和二十年三月は卒業式で、学校へ帰ることもなく、工廠での卒業式でした。
 専門学校、代用教員、保健婦と社会人になるため、それぞれ社会にとびたたれて行かれ、残された私達は挺身隊として工廠に残りました。
 私は母に七歳で死別し、姉二人は結婚し、兄は兵隊で台湾に入隊、父一人ですので、家庭の事情で母代わりとなるため、安浦へ帰らしていただきたいと願い出ましたが、この理由では許可にはなりませんでした。
 ようやく辛抱して、八月六日に日帰り許可をもらいました。、何時間も前から駅に並び、切符を求めるのも大変でした。ようやく求め、汽車に乗り、友人と、上り下りの汽車のすれ違いに車窓より、頑張ろうね、と交わした言葉が最後になろうとは思いませんでした。
 友人は広島駅に着くなり、ピカドンと一命を奪われ、17歳の若さでこの世の人ではなくなりました。
 あれから六十年、喜寿の年となって参りましたが、朝起き実践して三十五年。少しでも社会に役立ちご恩返しをし、残された人生を意義ある生活にしたいものです。
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