「八月の手記ー私と戦争ー」

                                   山田ミサ子

 今私は、一冊の手記をめくりながら当時を思い出している。それは父方の親戚で、私達兄弟がお兄さんと呼んでいた人によって書かれたものである。 (参照:増田恭人「手記」
昭和十七年から二年間の中支従軍を経て帰国後は、呉海軍工廠で、艦艇の修理作業の現場責任者として、当時の軍都呉の緊迫した様子を克明に記したものである。
 手記は昭和十九年当時、十三歳だった私の記憶の中から欠落した部分を思い出させ、あるいは新たな事実を知らせ、そのことから改めて、戦争の酷さ、平和の尊さを考えさせるものとして、敢えてここに引用させていただくことにした。
  「昭和十九年八月二十日、たまの日曜日、映画を見てから堀内へ行くが留守。
遠慮なく座敷へ上がり仮眠、四時二十五分、警戒警報。五時空襲警報発令、堀内の兄さんが帰ってきた。
十八時、西部軍情報、現在までに判明せる戦果、敵機六機を撃墜。
モンペ姿のミサ子君が、漬物樽とボストンバックをさげて帰ってきた。駅から駆けてきたと言って、息を切らしている。
堀内のお兄さんは、長女のミサ子君を残して、下の三人とお姉さんを庄原へ疎開さしているから気が楽だ。」
 堀内と言うのは私の旧姓で、兄さん姉さんとあるのは、私の両親のことである。母と幼い弟妹たちは、庄原へ疎開して、軍需産業の仕事をしていた父と私は呉に残っていた。
 私は女学校の二年生になっていたが、学校では授業はなく、防空壕を掘ったり、炊き出しの訓練などに明け暮れていた。
 そして二ヶ月後の十一月一日には、通年動員令により、二年生全員が吉浦の海軍工廠火工部へ出勤となった。いわゆる学徒動員である。
 白い鉢巻きをして、お腹をすかし、寒さに震えながら軍港から船で吉浦まで通った。
辛かったが、みんなが心を一つにして頑張っているという連帯感と、日本は必ず勝つと信じていたので空襲に怯えながらも、よく二十年二月までの四カ月間を懸命に弾丸作りに精を出した。
 三月になると、空襲も日増しに激しさを加え、このままでは危ないと思った父は、私にも疎開を勧めた。
 父と別れるのは辛かったが、母にも会いたかった。意を決した。
 そしていよいよ明日は疎開という前夜、母が残しておいてくれた非常持ち出しの袋の中の、とって置きの小豆と米で赤飯を炊き、防空壕の中で、父と子二人のささやかな別れの夕食をした。
 戦場で戦う夫や息子、銃後を守る妻や母親の苦しみに比べれば、私達は恵まれていたかも知れないが、昼夜を定めぬ空襲におののきながら、お国のために、呉に残って働かればならなかった父、そんな父を案ずる母や私、当時は日本中がそんな思いで渦巻いていた。
 しかし、私情は大きな声では言えなかった。灯火管制の暗い、灯かりのもとで戦場の男達のことを思って流す涙も、明るい太陽のもとでは決して見せてはならないのだ。
 それが戦争というものだと、体に叩きこ込まれていた時代であった。
 そして春、四月、私は庄原の実業学校の三年生に編入した。六月になると、手記も切羽詰まってくる。
 「六月二十三日、退避壕にいる。敵機から投下した大型爆弾の爆発音は、耳がしびれて聞こえない。「地獄の門が開いたらしいぞ」と言っているうちに、生暖かい爆風が入ってくる。大型爆弾の投下地点がだいぶ近いようだ。また地鳴りと大地震の襲来だ。」
 これは、海軍工廠がやられたときの記憶だ。なお追って手記は続く。
  「十二時少し前、B29らしい爆音が聞こえてきた。閃光、市街地の空が一瞬にして、真昼の明るさになった。
 すぐ目の前の山裾に激しい火花。焼夷弾がまるでにわか雨の走ってくる勢いで、こちらへ攻めてきた。庭の退避壕へ飛び込んだ。驟雨のような焼夷弾の雨が通り過ぎた。
急いで壕を出た。照明弾が空にあって、手元は真昼の明るさだ。ザーと不気味な焼夷弾の落下音。遂にわが家に二本落ちた。目の前で家が燃えだした。
今回の攻撃は七月一日夜半、足摺岬を北上したB29八十機によるもので、約2時間、短機波状侵入し、市街地の外周を嫌焼き、逃げ場をなくしておいて、中心部へと迫る残忍なやり方をした。呉の市街地は完全に全焼した。二十年七月六日記す。」とある。
 でもそんな中を父は生きて帰ってきたのである。嬉しかった。
 爆風でやられた両耳を汚れたタオルで覆い、熱風で目を真っ赤にして、背負えるだけの荷物を背中に、敗残兵さながらの姿で帰ってきたのである。
 私達はそんな父に飛びついた。たまらなく嬉しかった。四十二年たった今も、あの時の父の姿は脳裏に焼き付いている。
 父三十五歳、母三十四歳、私が十四歳の時だった。こうして私達一家は、草深い備後庄原で終戦を迎えたのである。
 そして今は亡き父の口癖は「げに酷いことをしたもんよ。」であった。
 若しあの時、父が帰ってこなかったら、この言葉は聞けなかったであろう。
 戦争とは本当に、酷いものである。二度としてはならない。


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