「動員と空襲」

                                 多田静子

 昭和十九年六月十二日広島県立竹原高等女学校四年生百人余りは、学徒動員令によって呉海軍工廠で働くことになった。
 平素勉強嫌いな私はこれで直接日本国のために役立つことができると喜び勇んで親元から離れていった。
 製鋼部の鋳造工場、模型工場、分析工場の三班に分かれて働くことになった。
 仕事は大変楽しいものであった。しかし、私たちのバラック建の寮は、宮原十二丁目にあった。
 昭和二十年三月十九日、来襲のグラマン機は空襲警報発令時にはすでに上空に来ていて、大きな機体を見せて急降下していた。
 夜勤明けで私は寮に居た。防空壕に逃げ込む途中、機銃掃射を受けた。途端に私は倒れた。
 「いや、外傷はしていないぞ。」と立ち上がろうとしても立ち上がれない。腕だけの力で体を引きずりながら、防空壕にたどり着いた。
 耳をつんざく爆音、胸を締め付ける爆風で、生きた心地がしなかった。
 それ以後は空襲に敏感になり、靴と防空頭巾は枕元に置いて寝るようになった。
 また工場で仕事をしていても、警戒警報発令時から、気もそぞろで落ち着いて仕事もできなかった。
 また、睡眠不足で、体が常にだるい状況であった。
 あれほどお国のために頑張ろうと意気込んで動員された自分であったが、現実に死と直面すると意気消沈したようだ。早く田舎の家に帰りたいばかりだった。
 大豆カ粕や麦のたくさん入ったご飯、海水の中に大根葉やとうがんの入った汁、大豆の入ったひじきの煮物を度々食べさせられた。
 それも量は満足できるものではなく、親元から持ってきたいり豆(大豆、そら豆)をポリポリ食べて補食したものである。
 だからよく下痢をしていた。体力も当然落ちて工廠から寮へ帰る坂道を毎日しんどい思いをしていた。


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