「学徒動員から60年」

                       中島澄江

  花も蕾の若櫻 5尺の生命ひっさげて 国の大事に殉ずるは
  我ら学徒の面目ぞ ああ紅の血は燃ゆる

 学徒動員の歌を歌いながら、呉線竹原駅で、先生や下級生に見送られ、呉海軍工廠に入ったのは、昭和十九年春のことでした。
 私の胸にいちばん深くのこっていることは、終戦の年の七月の夜の空襲です。多い時は十九回も防空壕に避難したことがあります。
 その夜も十一時頃、眠っていると空襲のサイレンがなり、防空頭巾をかぶって救急袋を肩にかけ、防空壕に走り込みました。
 夏なのに、なぜか私は一枚の毛布を持っておりました。防空壕の奥の方に入ってじっとしてると、「皆外に出るのよ」と誰かが云いました。
 皆について出ると、前の寮が燃え上がり、その熱風が熱くてどちらへも逃げられず、四、五人で又壕の奥へ入りました。
 すると兵隊さんのような方が荒々しく入って来られ、「まだここに残っている。早く外へ出ないと死ぬぞ。」と叫ばれました。
 残った人と外に出ました。兵隊さんがすぐ壕の上に引っ張り上げてくださり、壕の上は小さな丘のようでした。
 その下に民家がありまで焼けてなかったので、私はそこを滑り下りました。バス道路の方へ出ようとしました。
 少し行くと火の粉が飛んでくるので、溝へ伏せました。また走っていくと少し広い道に出ました。沢山の人がざわめいていました。
 男の人がバケツで、防火用水の水を頭からかけてくれました。多分四カ所くらいでかけて戴きました。
 お蔭で火の粉が飛んできてもジュンとはねて消えます。
 どんどん歩いてたどり着いたのが、神原七丁目の観音堂でした。三,四十人くらい集まっていました。
 だんだんと夜が明け、皆について少し下におりると、学校の校庭のような所に出ました。 同級生が見えないので、一人で宮原十二丁目の寮に帰ってみると、寮は全部焼けていました。
 少し離れた所にあったバラック建ての浴場の隣に未完成のバラックが焼けのこっており、その前の方に少し級の人が集まっていました。
 バラック建ての中を見るとお棺が置いてありました。多分、四棺あったように思います。こんな悲しいことは書きたくありませんが、私の胸には、今も深く深く焼き付いて消えません。
 私達のいた一段上にも寮があり、そこには最近になって野戦帰りの兵隊さんがおられたようです。
 時々海軍の作業衣を着て、食事のバッグを運んでおられるのを見たことがあります。 焼夷弾が投下された夜、ここの兵隊さん達が防空壕口の方に寮が倒れるのを防ぐ作業しをしておられ、犠牲になられたのではと誰かが話していました。
 戦時中には秘密が多く、はっきりしたことは分かりませんが、女子挺身隊・動員学徒、合わせて二千人位、ここの寮にいると聞いていました。
 工場へ行くと工員さんが、「宮原に程近い清水通りの防空壕では二百人ほど壕の中でもむれ死んだそうだ。」と言われました。
 岡山から来て、清水通りに下宿して、私達の職場の近く見た工員さんも、その壕の中でなくなられたそうです。


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