「暑い夜」

                          住吉典子

 昭和二十年七月一日午後十時、夜勤を終えて寮に帰る。
 洗面所の水道はすでに断水していた。同室の四人で暗い夜道を歩き、防火用水の溜まり水で体を拭いてから、十二時やっと床につく。
 とろとろっとしただろうか、「空襲」と叫ぶ中山先生の声に跳び起きた。隣にいるMさんをゆすり起こす。
 「今夜は体の調子が悪いけんおきられんから避難せんよ。先に行きんさい。」彼女はタオルケットを頭からかぶってしまう。
 「早ようせんと先生に叱られるよ。」そう言いながら防空壕に入ったと思ったら、そこへ照明弾が落ちてきた。
 真昼のような明るさにびっくりしていると、Mさんが座布団を頭にのせて泣きながら入って来た。「よかったね。」と言う。
 防空壕の入り口に近かった私は、あまりにすごい爆風と熱風に驚いていた。外を見ると地面は紫色に燃えている。
 先ほどまでいた寮も燃え上がって火の粉が飛んでいた。先生が入り口にいる私達を外へ押し出し、その勢いで皆外へ出たものの、錠前が閉まったままである。
 如何んともしがたく、先生は一人ずつ上から引っ張り上げてくださる。順番を待つあいだ自分が焼けてしまいそうに熱い。
 側にある下水溝にすべり込む。長田さんが小さい声ではあったが「お母さんこわいよう。」と言って泣いている。
 下水溝は煙突の役目をして煙を吸い込み、そのうち充満してきた。呼吸が苦しくなる。急いでタオルを下水にひたしそれを口にあてる。
 そこへ数人の兵隊さんの声、「番号!」全員で七十五名、一人ずつ救出が始まる…。
 はっと気付く、私は自分がどこにいるのかわからなかった。先生が側におられる、顔のあたりで酒かブランデーのような匂いがしていた。多分気を朱っていたのだろう。
 先生が「おう、気が付いたか、元気を出せ、皆元気だ。」と言ってにっこりされた。
 焼け落ちた宮原の寮をあとにして狩留賀に移った。夜中になると南京虫との戦いが始まる。
 終戦、寮の前の広場でみんな泣いた。敗戦のその涙もいつしか帰郷できる嬉しさに変わった。
 夜中の帰宅であったが、両親は起きて待っていてくれた。何故だか佛間に母と並んで寝床が敷かれている。佛檀には灯明がともっていた。
 兄も学徒動員で出ており、長崎の原爆投下後は全く消息がないとのことであった。明けて朝、父はリュックを背負って長崎へと出発した。その後ろ姿を母と私は合掌して見送ったものである。
 十七才の暑くて熱かった夏の日のことである


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