「偶然が命を救う」

                                  東林(とうりん)英子

 衣食足りて平和な社会を迎えたと言うものの、私達の青春時代とは、かなり違う平和社会の感覚です。
 日々、世の中は成長しているのでしょうが、どこに向かっているのかと思う時があります。
 私は夫と身の回りの事だけを守り、好きな手芸を楽しみ、子供任せで安堵の生活をしております。
 昨日のことを思い出すのが少々困難を要する年となりましたが、六十年前の悲惨な体験は昨日のことのように脳裏に刻まれております。
 以前は、子や孫に催促され、度々体験を話してやっておりましたが、私も年には勝てず、いつ話もできぬ生活を迎えるかもしれません。
 繰り返したくない体験とし、この度の手記応募に、書き残してみようと決心し、乱文ですが挑戦してみることにしました。

 甲山高女を三月卒業したと同時に、挺身隊として、広十一空廠七十工場に配属となりました。
 まず動員され、着いたところは、広町の横路の寮でした。
 ここはあまり空襲を受けていませんでしたが、しばらくして厳しくなってから広の中新開に移りました。
 ここは今までは、軍の練兵隊だったのでしょうか、とっても長い兵舎が十棟以上もあり設備も整っていました。
 たくさんの建物があっても、三勤交代制であったようで、空いた隊もあり、顔見知りになるというようなことはありませんでした。
 同時期、広工廠造船部配属の人もいて、職場では、学徒動員の方、一般の男女等多くの職工と呼ばれる方達と、
なんの疑いや不満もなく、私達一人一人動けば、お国が守れる、という意気込みを全員持って、
「お国のために、銃後の守り」と自分に言い聞かせるようにし、必死でございました。
 朝出勤すると、係官の指示で、全員が工場の外に出て、海軍体操をするのですが、私達には、過度な運動だったので、毎日続けていると返って足や腰が痛くて、階段の上り下りにも困難な時もありました。
 連日のように空襲は日夜激しくなるばかりで、私達も三勤交代制で、深夜も高らかに軍歌を歌い、身も心も引き締まった思いの日々を過ごしておりました。
 宿舎は民宿でしたが、休むときはいつも、防空頭巾と靴は枕元に置いておりました。
 工場で空襲に遭い、緊迫したときは、防毒マスクを着用し、黄幡の横穴壕に退避したことも度々ありました。
 壕の中は三階になっていて、三階は事務所、二階は作業所、一階は奥に通じる通路と機械、旋盤が置いてありました。
 壕の扉はとっても大きくて、厚さも二メートル位あった気がしますが、空襲も激しいときはその扉も倒れ、戸口にいた人は、目が飛び出して死んでいました。
 死体はトラックでどこかに運んだようでした。
 日本軍の撃つ高射砲の破片が炸裂し、落ちてくることも、とっても怖いものでした。
 ピューピュー、ポチャンと海に落ちる音や、岩にあたって、カチンと音がしたり、薮に落ちると、カサカサと音がし、身をひそめ息を殺すようにしていると、一段と音が大きく聞こえてくるようでした。
 時には「お母ちゃん」「お母ちゃん」と悲鳴も聞こえていました。
 空廠も工廠も爆風で屋根が吹き飛び、大きな鉄骨のみ残り、そのような下での作業を続けておりましたが、小さい移動可能な機械は、横穴防空壕に持ち込み作業を致しておりました。
 私の工場は、長浜峠の対岸の小坪に疎開して、鋳物の作業を致しておりましたが、これまで度々敵の標的と成っておりましたので広の造船部に移り、長浜の寮から通っておりました。
 空襲はますます激化していた頃、確か五月五日の朝だったと思いますが、次々編隊を組んだ、いわゆるB29が百三十機襲来と言われた時の時です。
 出勤間もなくの事でした。指定の待避する避難場所は、広廠東側の横穴壕で、工場より百メートル余りあり走って行かなくてはなりませんでした。
 当日の朝は体調が悪く、皆さんについて行けなく遅れ、やむを得ず、工場西側の壕にかけ込みました。
 そこは三カ所の壕が並んでおり一番奥にやっとたどり着き、戸をたたき、同室を願いましたが、怒なられ、入れてもらえませんでした。
 空から爆音、心も焦り力もなく引きずるようにして二番壕に辿り着き、全身の力を振り絞り、体当たりしました。
 これで駄目なら、半ば諦めておりました瞬間、倒れていた私は固く閉じられていた戸が開いて、そこから伸ばされた男の大きな手で力一杯引きずり込んでいただいたのです。
 体調悪くし意識もあまりはっきりしていなかった時でありましたが、あの一瞬、今、何が起こったのかと思う気持ちでした。
 まだ目も暗さに慣れぬまま手探りでしたが、足元は水たまりのようでした。
 突然力強い声で、「耳を押さえ、口を開け」と言われました。力強く引き入れてくれた人と、指示してくれた人が、同一人物だということは直感しました。
 その時、「ドカーン」「バリバリ」と体は跳ね上がり、内臓さえ飛び出した感じでした。暫くし、我に返り、耳から手を離し、口を閉じてゆくうち、自分の動作に、身が守られていたことを認識しました。
 警報解除となったので、中の人たち数人と外に出ました。今度は逆にまばゆくて、すぐ外は確認されませんでしたので、命の恩人とも思える男性の姿は確認するこ事は出来ませんでした。
 が、その時はっきり目に入ったのは、私の入室を拒否した1番目の壕が先ほどの爆風で壊されていたのです。
 もしかしたら、自分があの壕にいたのかもしれないと思うと、あまりにも激しい現場を見てからは、その後どう歩いて、どの様にし作業場に帰ってきたのかがまったく記憶がありませんでした。
 気がついた時、規定の横穴壕から帰った仲間と作業していました。まさに地獄を見た様でした。
 また、その後5名で岩国工場に行く為、制限切符を渡され、早朝、広駅に向かったのですが、何であったか、手違いとかで5人はまた工場に帰って、その日は工場で作業を始める事になったのです。
 仕事を始めて間もなく、西の空が明るく光りました。誰かが写真のフラッシュを向けたのかと思い、皆、その方向を見ました。
 見る間に湧いて出るかのごとく雲が現れました。その時は何のことか分かりませんでした。が、まさにそれが一瞬にして数万人を死に至らしめた原爆だったのです。
 しかし、その時もまだ原爆の恐ろしさは解っておりませんでした。
 ただ、自分が再度死から逃れられていた事だけを、偶然とは言うものの、幼くして死に離れた母が、私を守ってくれたと思った気がします。
 数日後、朝礼の時、天皇陛下の玉音放送を聞き、全員涙し、終戦を迎えたのです。寮に帰ってもう全員涙するばかりです。  心を一心にし、全員目標に向かって頑張ってきた希望が破れ、全員で自決しようかとの声も出てきておりました。
 そんな折、田舎から1番に駆け付けてくれたのは父でした。戦争も終わって、用はなくなったであろうと、すぐの列車を乗り継いで来たそうです。
 父としてみれば、一人娘が可愛くて、一日も早く連れ帰りたかったのでしょう。
 田舎者であっても父は警察官をしており、呉方面も転勤で行っており、様子は分っていたのでしょう。
「英子迎えに来たぞ」の階下からの声に、今までの皆の決心は脆くも崩れ、父と帰宅の道につきました。
 父からのむすびを全員でほおばり、皆も帰宅しました。
 その後故郷に帰り、平凡な結婚をし、家族と田舎で平凡な日々を過ごし、今日まで年を重ねてまいりました。
 私達の思う平和は、一重に尊い犠牲があっての事と、日々感謝しなくてはならないと思います。
 お互い傘寿を間近にした夫と子や多くの孫達に囲まれて過ごせることに身の幸せを感じ、感謝の日々をこれからも過ごして行きたいと思っております。
                                  合掌


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