「学徒動員と呉空襲」
                           岸本典子

 昭和十六年十二月八日、大東亜戦争が始まったその年は、私が女学校に入学した年でした。
 開戦を報じるラジオ放送を聞いた時は大変なことになったと身の引き締まる思いでした。  女学校二年生までは何とか授業が受けられましたが、三年生になると一学期はほとんど近郷の農家の手伝いで田植え等の奉仕に出掛けていました。
 昼食に白米のご飯やおはぎ等を出してもらって嬉しかったのを覚えています。
 当時は段々と食糧事情が悪くなっていて、甘いお菓子等はほとんど無くなっていました。
 田圃に入るのは生まれて初めてなので蚯蚓や蛭が吸い付くとキャーと悲鳴をあげて稲の苗を拠り投げてしまい「農家の嫁にはなれないね」と笑われたりしたこともありました。
 二学期になると戦局もますます厳しさを増し、学徒動員で川尻にあった日東航空(株)の工場に行くことになりました。
 学徒動員で呉から私立精華女学校三年生B組(進学クラス)、県立呉一中三年一クラス、内海から県立内海女学校一クラス、他に吉田(広島県)から来られた女子挺身隊の人たち約三十人くらいが近くの寮から通ってきていました。
 私たち精華女学校のクラスの大部分(約四十四名くらい)は呉駅から、他の数名は阿賀、広、仁方駅から川尻まで通いました。
 呉駅に朝七時頃集合し、木綿ガスリで作ってもらった防空服、防空頭巾で身支度をし救急袋を携えていましたが、その頃既に運動靴も無くなりかけていて草履で通勤していました。
 毎月八日(大詔奉戴日・開戦の日)には必勝と書いた鉢巻きを締めて日本の必勝を信じて満員の列車で、時には窓から押し込んでもらったりしながら川尻に通いました。
 お国のためという気持ちと若かったせいで辛いと思ったことはありませんでした。
 この工場では飛行機の部品を作っていました。私が配置された部署は年配の責任者の方と三人の職工さん、学徒二人、挺身隊二人の計八人でした。
 飛行機の風防とその組立てに必要な部品を作るところでした。
 一日の作業の半分は有機ガラス製の風防の面取りで、ヤスリをかける仕事でしたが、その合間には部品の硬度を増すために溶鉱炉に入れに行ったり、大きなジュラルミンの板を二人がかりでピアノくらいの大きさの裁断機を使って切断したりしました。
 責任者の方や職工さんは学徒の面倒をよく見てくれて、仕事の面でも庇って頂いたので幸せでした。
 学徒同士は大の仲良しでした。昼食は工場の食堂で職工さんたちと皆で一緒に食べました。
 大豆かす入りのご飯は変な匂いがし、また金属製の食器に入っているので最初はなかなか喉を通らず、先生に「家から弁当を持ってきたい」とお願いしましたが許してもらえませんでした。
 しかし、そのうちにだんだん慣れてきました。おかずは醤油で炒めたタマネギがほとんどでした。三ケ月に一回くらい乾燥バナナの配給がありました。
 私たちの引率の先生方は三人交代でした。広島女専を出られた若い素敵な先生方で、大変お世語になりました。
 また毎月一回だったかニケ月に一回くらいだったか音大を卒業したばかりの若い先生が来られて昼休みに屋外で先生の指揮によって、ドイツ民謡「バラ」、シューベルトの「野バラ」、ローレライ、「浜辺の歌」等を合唱し、それは夢のような楽しいひと時でした。  工場の人たちも大勢楽しんで聴いておられました。
 若いい美人の先生が、当時としては珍しい真っ白いワンピースで輪の中心に立たれると、それだけで絵になるほど眩しく感じられたものでした。
 川尻の工場に通い始めた頃は、B組の進学組のクラスは呉駅から夕方学校に直行し、用意して頂いたおにぎりを食べて、夜十時近くまで国語(古典)、数学の授業を受けてから帰宅していました。
 授業を済ませて校門を出ると、暗がりの中にただ一人、母が迎えに来てくれていました。私の家は商家で忙しいのに母は毎回必ず校門の横に立つて迎えてくれました。
 本当に嬉しくて感謝の気持ちで一杯でした。最高の母でした。
 昭和二十年、戦争は一段と激しくなりましたが、私の進学の決意は固く、二月には東京や横浜の親戚を頼って受験のために上京しました。
 その機会に靖国神杜にお詣りしましたが、その日にもB29爆撃機の大編隊による東京空襲がありました。
 その頃、呉では時々偵察機が飛来する程度だったので、母も私もびっくりして靖国神杜の防空壕に避難しました。
 私は東京女子歯科医専を受験したのですが、当時、既に大森の栄養学校で寄宿舎生活を送っていた、二歳年長の姉の意見もあり、東京の食糧事情に鑑みて、自宅から通学できる広島女学院に進学することにしました。
 二十年七月一日夜、呉地域は焼夷弾攻撃による大空襲を受けました。
 当時父が軍関係の仕事で家にガソリン入りのドラム缶を何本か置いてあったので、我が家は真っ先に燃え上がったそうです。
 私たちの家族は、近くに設けられていた未完成の大きな防空壕(近くの、六千人収容用)に避難したのですが、続々と詰めかける人たちに紛れていっの間にか家族はバラバラになってしまいました。
 壕内は混雑を極め、入口からは熱風や火煙が吹き込み、酸欠状態になって、赤子や幼児が次々に死んでいきました。
 私は三角巾をマスク代りにして、身動きもままならない中でじっとしていました。
 酸素が欠乏して猟燭の火も消えてしまった真っ暗闇の中で、小学校の先生をしていた同じ町内の方が「日本人らしく潔く死にましょう」と、話されたことまでは覚えていますが、その後はおそらく朦朧となっていたのでしょう。
 「生きている人は居ませんか」、「生きている人は返事をして下さい。助けに来ました」大きな声に正気が戻りました。
 救助の人がそばに来て、「出ましょう」と手を引っ張ってくれました。気が付くと周囲の人は皆折り重なって死んでいて身動きできませんでした。
 救助の人に「その人たちを踏み越えて出て下さい」と励まされ、手を引いてもらってやっとの思いで壕外に出ることが出来ました。
 朝の五時半くらいとのことでした。
 見ると壕の入口近くにいた人たちは、熱風に曝されたせいでしょうか、下着一枚の姿で焼け死んでいました。
 私は幸いなことに父が先に壕を出ていて見付けてくれましたが、母と姉はまだ出ておらず父と一緒に探し回りました。
 一時間くらい経って、姉が煤で顔が真っ黒になりながら出てきましたが、母は見付かりませんでした。
 昼近くになって救助の人から「今までに出て来なかった人はもう死んでいます」と告げられた時、姉と二人で泣き続けていました。
 その後、姉と私は、本家の防空壕に違れて行かれ、休ませてもらいましたが、父はずっと壕の前で、母が出てくるのを待ち続けていました。
 やっと母が担架で助け出された時、母は硬直状態に近いような様子だったそうです。
 父は救援に来ていた知合いのお医者さんに頼んで、強心剤の注射を打ってもらい、日陰もない真夏の炎天下で、何時間も人工呼吸を続けて、母はやっと息を吹き返すことが出来ました。
 母は防空壕に入った時、靴を履いていたのに足裏には火傷を負っており、その後一ケ月くらいは声が出ませんでした。
 母が生き返ったのはまさに奇跡的としか思えないほどですが、父が居なかったら母は助からなかったでしょう。大事な大事な母です。
 それから間もなく、八月六日、広島に原爆が投下され、十五日に終戦となりました。
 何年か振りに、灯火管制が解除され、明るい電灯の点る夜を迎えて感慨無量でした。
                                                 (終)


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