「お地蔵さん」

                         宮本澄枝

 昭和二〇年四月、呉市役所から六千人収容する防空壕を作る様にと命があり、県庁より高尾技手から説明指導があり、人命救助、人工呼吸の講習がありました。
 呉市から田辺技手が監督となり突貫工事が始まりました。
 本通り六、七、八丁目、中通り六、七、八丁目、寺西町、和庄一丁目の住人が入る壕でした。朝鮮(韓国)から徴用された人達が穴を掘りました。
 父はこの人達の家の世話、又、配給米では足りないので米、その他の食料品など何度も役所に足を運び、苦心して集め重労働する人たちに備えました。
 各町内から当番で女の人たちが掘り出された土を、赤ん坊を背負い幼子を連れての作業でした。
 軍からは町内会に通達があり、男の人は休山に松根堀に行く毎日でした。これは飛行機の油不足のための松根堀でした。
 連日の突貫工事で四カ所の壕が出来あがり、五番目の壕は未完成のまま七月一日を迎えました。
   防空壕見取り図
 壕付近は強制疎開で家々は立ち退きましたが一軒だけどうしても立ち退かぬ家があり、その家がB29の直撃を受け、煙が壕内に入った為に阿鼻叫喚の中で多くの人は苦しみ、もだえてなくなりました。
 一番先に幼子が…そして老人達が水を求めつつ旅立ってゆきました。壕内の井戸に飛び込んだ人もありました。
 お産もありました。壕の入り口の側の川の中は死体でいっぱいでした。道路にもずらり死体が並んでいました。
 これらの死体は八幡小学校(今は住宅地)で焼かれました。
 そして数年たった頃、何人かの人が父(原田一二)の許に来て、壕付近に「火の玉」が出るから何とかしてほしいと次々に来られました。
 父はすぐ市役所にいきました。応対にでた部長さんが「私は毎日壕の前を通って通勤していますが私も何度か見ました」と、快く供養の場所(市有地)を許可していただきました。
 そこで町内の有志数人が話し合いお地蔵さんを祭り、ご供養する事になりました。
 若かった私は火の玉を信じる事は出来なかったのですが、ある日の夕方はっきりと火の玉を見たのです。それからは私も信ずる様になりました。
 寺西町内の松川石材店からお地蔵さんをいただきました。多くの人達からご芳志で昭和三八年七月一日、「戦災供養地蔵尊」として完成、お世話する奉賛会も出来て毎年、盛大なご供養が行われ、最盛期には数百人の参拝の人が集まり、大きなテントを張り、提灯、旗を立て賑やかでした。
   墓碑銘
 奉賛会では亡くなられた方のお名前、ご遺族の住所を調べ(最初の集まり)芳名録を作り遠近を問わずお知らせしたそうです。
   死者名簿表紙   死者名簿
 遠方から家族の人たちが、もしや此処ではないか?と探し尋ねて来る人も多く、今も解らぬ人もおられます。数年後も時折尋ねて来られました。
 当時、日本人の徴用されて来た人達は和庄、八幡地区に下宿されていました。家族は面会に来たくも切符は自由に買えず、我が息子、夫の住む家もわからなかつたのです。
 多分この壕では?と探しに来られる人達は当分の間続きました。壕に入っていた人達はあの夜の思い出を語り合い、読経の中で祈りました。
 然し、時は過ぎ、歳月の流れゆく中でご遺族の方は勿論、お世話くださる奉賛会の人達も年々老いて亡くなられていきました。
 今九四才の方が一人だけおられます。昭和も六十年過ぎる頃より七月一目にお参りする人も減り続け五〜六人となりました。
 毎年、お寺さんにお経を上げてもらいましたが、戦災より五〇年たった昭和七〇年七月一日、お寺さんのご供養を最後とし、あとは父の意志を受け継ぎ細々とお世話させてもらっています。
 年月が立っにつれ、風化されお参りの少なくなった頃のある日、立正佼成会の方達が多勢こられ、ご供養して下さる様になりました。
 当日前後は梅雨時の事、雨の日は教会に出向き、ご供養の後、あの日の壕内の悲惨な出来事を話して、改めて命の大切さを訴え、平和の有り難さを味わっていただければ幸せと思います。
 平和学習で小学校、中学校にも話にいきました。
 長年の皆さんの手厚いご供養のおかげかその後「火の玉」は出なくなりました。
 生死をさまよった記憶は老いても忘れる事はなく、何時までも鮮明に思いだされます。
 呉市の片隅でこんな悲惨な出来事があった事を知っていただきたいと思います。

  壕の土地所有者  城幸太郎
  世話人
     片桐実一  本田勇一  森沢時美
     原田一二  堀原幸夫  赤川修一
     小原春一  富永亀一  大塚萬太
  地蔵尊建立寄付
     収入  壱萬六千壱百四拾円也
     お供え 酒、菓子
     賽銭  七千七百弐拾円(拝殿)
         八百五拾円也(餐銭箱)
  総収入  弐萬四千七百壱拾円也
  支出   弐萬四千七百壱拾円也


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