「戦時中の生活について」

                            横間フキエ

 今年は,戦後60年を迎える節目の年となります。60年前の戦争を生き抜き,その恐ろしさを体験した者は,現在の状況を想像したことがあったでしょうか。
 豊かとなった杜会,けれどもその反面の利己主義や不道徳など…。
 ただひたすらに愛国心に燃え,大東亜戦争に勝つためにと,一生懸命個々に励み空腹に堪えたあの頃。
 r一億一心」とか「欲しがりません勝つまでは」とか,ことあるごとに教えられてまいりました。
 隣組(戸数15軒位の単位で1つの班を結成),井戸端会議(各世帯に水道がなく,主婦が共同で一つの水道を利用し,必要な水を持ち帰っていた。)などを通じ,近隣とのふれあいを深め,助け合い,励まし合って,お互いを元気づけたものでございます。
 昭和16年12月8日,日本は米英に対し宣戦,その後昭和20年8月15日に終戦を迎えるまでの3年8ヵ月というものは,皆がただ勝利を信じておりました。
 大方の男子には,あそこにもここにもと召集令状が伝わり,命を御国のために捧げることは男子の本望と,誇りをもって家族を後に次々と出征されました。
 残されたのは,老人に婦女子でございます。当然,稼働カや収入は減少しました。
 しかし,主婦は下を向いてばかりはいられません。家族を守り,男子の代わりに職場に出ていき働きました。
 婦人会は国防婦人会と改名し,召集令状で出征される家庭を訪問してはお祝いを申し,激励の歌と小旗を振ってお見送りしたものです。
 「元気で帰ってください。私も頑張っておりますから…」と心に誓いますが,その時の気持ちは何とも複雑なものでした。
 学徒動員,挺身隊徴用,次々と動員がかかっていきます。若者もいなくなり,男子も益々減少。家庭は淋しくなり,困苦と欠乏に喘いでおりましたが,それに堪えることが銃後の守りと信じ,不平も言わず,隣組が一緒になって暖かい助け合いの心を通わせたものでした。
 当時の食生活は総て配給制で,一日につき一人の量も決められておりました。主食は,麦,粟,大豆,とうもろこし,コーリャンなどがほとんどで,米は時にほんの少々。
 副食は木の芽や草の根など,食べられるものは何でも野や山から持ち帰り,主婦の智恵で補っておりました。
 一寸の空き地,一粒の種も無駄にせず耕作しました。その実りを知人と分け合い食べたこともあります。
 嗜好品もたまに配給。例えば,煙草は1箱でなく3本とか5本とかで,酒も清酒ではなく合成酒を五勺,1合といった具合。
 子どものおやつは芋飴,はったい粉,きな粉,手作りのパンなど。衣料も切符制で,着るものも大切にしておりました。
 20燭の電灯に布の袋をかけた乏しい明かりの下で夜なべをし,針をこまめに繕い仕事。生活費も制限されておりましたので,当時の主婦はやりくり算段に苦心しました。
 空襲も度々ありましたので,その目標になるからと厳しい灯火管制が行われており,私たちは昼夜の境なく,守りを固め頑張りました。
 今考えれば,よくも栄養失調にもならなかったものです。当時の人の精神力,根性,努力の素晴らしさ。そして,暖かなふれあい,助け合いに感謝の念が一層湧いてくるこの頃です。
 60年前戦死された多くの方たちの冥福を心から祈念いたします。戦争はあってはならないと世界中の人は平和を願っている筈です。
 今の杜会は驚天動地,混乱し,何を信じて暮らせばよいのか分からなくなってきております。
 親と子の絆のもろさを露呈する悲しい出来事も次々と起こり,不安がいっぱいです。戦時中を生き抜き,敗戦後も困難辛苦を体験した者にすれぱ,納得できないものを感じます。
 もっと昔を知り,もっと人の道を守ってください。現在の豊かな杜会の礎には,過去の偉大な方々の陰の力があることに気付き,感謝の心をもっていただきたいと切に願います。
                            平成17年1月30日


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